第三話 静かな変化
その朝、町の空は、いつになくやわらかな色をしていました。雲は薄くほどけ、風はゆるやかに家々の屋根をなでていきました。
職人はいつものように目を覚まし、机に向かいました。
けれど今日は、時計のねじを巻く手が、ほんの少しだけ遅れていました。
針の角度を測る目も、わずかに揺れていました。
…それは、狂いではありませんでした。
それは、ためらいでした。
窓のそばには、あの懐中時計が静かに置かれていました。
針は止まらず、しかし急がず、まるで思い出をなぞるように、やさしく動いていました。
職人は、その時計の裏蓋を開いてみました。
そこにはかすれた文字で、こう彫られていました。
『音が、未来を連れてくる』
それは、娘が口にしていた言葉でした。
職人の目がかすかに揺れました。
町の広場では、いつも通り人びとが時計の針に従って歩いていました。けれど、そのなかに、ほんのわずかな違和感がありました。
パン屋の少女が、立ち止まって空を見上げていたのです。
窓拭きをしていた男が、ぼんやりと鳥の声に耳をすませていました。
それはほんの数秒の出来事でした。
けれど、それはこの町では“異常”とも言えるような時間の“ゆるみ”でした。
その変化は、懐中時計が戻ってきた日の夜から、すこしずつ広がっていたのです。
子どもが、道ばたに落ちていた木の実を拾って笑った。
老人が、掃除の手をとめて空に手をかざした。
だれもが、正確な時刻からほんのわずかに外れた「ゆらぎ」のなかで、なにかを思い出しかけていたのです。
職人は、それを知っていました。
彼の時計が狂っているのではなく、町そのものがふたたび生きようとしているのだと。
その夜、彼は店の看板を下ろしました。
そしてひとり、あの広場へ出ていきました。
広場の中央には、大きな時計塔がありました。
それは彼がかつて手がけた、町の「中心」を刻む時計でした。
彼はその前に立ち、ふところから懐中時計を取り出しました。それを胸にあて、静かに目を閉じました。
塔の針が、正確に刻んだはずの時間に、ふと、一瞬だけ動きを止めたように見えました。
町の空気が、ぴたりと静まりかえりました。
そして、次の瞬間、どこからともなく、音が響いたのです。
それは時計の音ではありませんでした。
それは、小さな笑い声。鳥のさえずり。草のそよぎ。
かつて失われた、けれど確かに存在していた「生きている音」でした。
町の人びとは顔を上げ、互いの目を見つめました。
パン屋の少女が、にこりと笑いました。
老人が、肩をすくめて笑いました。
職人の頬に、一筋の涙が流れていました。
それは正確な時を刻む必要もない、名もなき感情のしずくでした。
その夜、彼の店の前には、ふしぎな行列ができました。
人びとは時計の修理ではなく、「懐中時計の音を聞きたい」と言ったのです。
その音を聞くと、不思議と心があたたかくなる、と。
職人は静かにうなずきました。
そして、かつて娘にそうしたように、耳にそっと時計を当ててやるのです。
そのなかで、町は変わっていきました。
正しさだけでなく、やさしさと余白を持つ時間へと。