第二話 過去の音
夜になって、町はすっかり音をなくしました。
家々の灯りは同じ時刻に消え、道には人の影もなく、ただ時計の針だけが、
「カチ、カチ」と、小さく世界の骨組みを刻んでいました。
時計職人は、その静寂のなかに座っていました。
いつもの作業台には、ねじまき棒と分解された歯車の山。
その隣に、懐中時計がぽつんと置かれていました。
それは、まるで過去から戻ってきたひとつの心のように、
彼のそばで、黙って時を告げておりました。
かつて、彼には娘がありました。
妻は早くに亡くし、職人は幼い娘と二人で、この町のはずれに暮らしておりました。
貧しくとも、手先の器用さを頼りに、日々をしのぎ、娘のために作った最初の時計が、この懐中時計だったのです。
ゼンマイは古いラジオから取り出し、針は壊れた指輪から切り出しました。
外側には小さな星の模様を彫り、娘の誕生日にそっと手渡したのでした。
「音がするよ、おとうさん。」
娘は、そう言って耳をあて、笑いました。
その笑顔が、彼の心のなかで、いちばん明るいひかりでした。
けれど、その頃から、町に“効率”と“正確さ”を求める風が吹きはじめたのです。
「時間は命だ」「誤差は無駄だ」
誰かがそう言い出し、やがて町じゅうの時計が、彼の仕事場に持ち込まれるようになりました。
職人の時計は評判となり、町の工場、駅、学校、あらゆる場所で使われるようになりました。
彼は必死で、歯車を研ぎ、針のブレを修正し、秒単位で狂わぬ時計を作りつづけました。
ある夜、娘がぽつりと言いました。
「ねえ、おとうさん。最近、時計の音が、冷たくなったみたい。」
職人は、手を止めませんでした。
「それでいい。冷たい方が、正しいんだ。」
娘は、それ以上なにも言いませんでした。
数日後、娘は、風邪をこじらせて床につきました。
熱にうなされながらも、彼女は、懐中時計を胸に抱いていました。
「この音があれば、夢が見られるの…」
それが、彼女の最期の言葉となりました。
職人は、静かに時計を分解し、その一部を炉に投げ込みました。
それ以降、彼の時計からは、どこか温もりのようなものが消えていったのです。
「感情は、狂いを生む。」
それは、彼が自分に言い聞かせた呪文でした。
やがて町じゅうの時計が無音のまま、正確に回り始めたとき、人びとの顔からも、声からも、感情というものが消えていったのです。
いま、懐中時計は、ふたたび彼のもとに戻ってきました。
止まった針は、ゆっくりと時を刻みはじめています。
まるで、あのとき失われた小さな笑顔の音を、呼び覚ますかのように。
職人の手が、震えていました。
もう長いこと、手元がぶれることなどなかったのに、今夜ばかりは、ゼンマイを巻く手に、微かな揺れがありました。
ふいに、窓の外から、小さな音がしました。
「ちちち…」
それは、風が運んできた鳥の鳴き声でした。
かつて、娘が好んで模した、山鳩の声に、どこか似ていました。
職人は、そっと目を閉じました。
そして、長いあいだ触れることのなかった、自分の胸に手をあてました。
そこにも、なにかが、時を刻みはじめていたのです。