第一話 無音の街
あるところに、ひとりの年老いた時計職人が住んでおりました。
その町では、だれもが彼のつくる時計を使っておりました。
彼の時計は、まことに正確でした。
一分の狂いもなく、雨の日も、風の日も、針は静かに時を刻みつづけました。
職人は黙々と仕事をし、町の人びとも、ことさら彼に話しかけようとはしませんでした。
時計屋の店先には、いつも同じような音が流れていました。
「カチ、カチ、カチ…」
それは規則正しく、まるで感情というものが、最初から存在しなかったかのような音でした。
あるとき、町に旅の詩人がやってきました。
詩人は町を歩いて驚きました。なぜなら、そこでは誰もが表情を持たず、ただ時間に従って生きていたからです。
「おや、時計の町だな。けれど、なんと静かな…」
詩人がふと、ひとりの子どもに話しかけても、返事はありませんでした。
母親もまた、時刻表を見つめながら、機械のように荷物を整理しているだけです。
詩人はとうとう、時計屋の前にたどりつきました。
そして、窓の奥にいる職人を見て、思わずこうつぶやきました。
「…あのひとが、この町の心を止めたのだろうか。」
店の扉を開けると、小さなベルが鳴りました。
それは、ただの金属音でした。やさしさも、驚きも、こもってはいませんでした。
「時計の修理ですか」
職人の声は乾いており、まるで風が壁をすり抜けるときのようでした。
詩人は首を振りました。
「いえ、ちがいます。…ところで“感情”はどうされたんですか?」
職人は、一瞬だけまぶたを動かしました。
けれど、それはまるで埃のついた歯車が、うっかりかすかに動いたかのような微細な動きでした。
「感情は、不要です。感情は、誤差を生む。」
そう言って、職人はまた黙々と時計の分解に戻りました。
古いゼンマイの軋む音だけが、部屋のなかに響いていました。
詩人は、そっと懐から小さな懐中時計を取り出しました。
それは、あまりに古びていて、もう動いていませんでした。
文字盤の硝子は曇り、針は同じところをさしたまま止まっていました。
「この時計は、あなたのものではありませんか?」と、詩人は尋ねました。
職人の手が、ふいに止まりました。
その目が、じっと懐中時計を見つめていました。
長い間、だれにも触れられなかった記憶が、そこに閉じこめられていたかのように。
「…どこで、それを」
「昔の町で、少女が持っていたのを見ました。とても大切にしていましたよ。“音がしなくなったから、きっともう夢を見ていないの”と、彼女は言っていました。」
職人の肩が、かすかに揺れました。
だがすぐに、ふたたび目を閉じ、針を握りなおすと、低くつぶやきました。
「感情は、時計をくるわせる。わたしは……わたしは、正しさを選んだ。」
詩人は、その言葉には答えませんでした。
ただ、懐中時計をそっと職人の机の上に置き、店を出ていきました。
夕暮れの町では、家々の窓が一斉に灯りをともしていました。
それは、まるですべての家が同じ時刻に、同じ命令で点灯しているかのようでした。
けれど、時計屋の奥では、もう一つの音が鳴り始めていたのです。
「チチ……チッ……」
止まっていた懐中時計が、ふたたび針を動かしはじめたのでした。