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国内に設置された二つの魔獣除けの交換作業は、それぞれの石碑が設置された場所に三名ずつの魔術師が向かって行う。
急遽代理となったイヴァールは、女性の魔術師のフェリシア様と年長の魔術師と共に馬車に乗り込み、石碑が設置されている郊外の深い森へと向かった。その旅程は往復五日にわたる道のりだった。
彼らは転移魔法を使うことができたが、その魔力消費は激しい。魔獣除けの交換には膨大な魔力が必要なため、無駄な魔力消費を避け馬車での移動となった。
「おはようございます、ベルヴュー辺境伯令嬢」
イヴァールたちを見送ったあと、エスターライヒ様に声をかけられた。
淡い月光に輝いていた黒髪と黒い瞳は、朝日を浴びてより輝きを増し、彼の魅力を一層引き立てていた。彼の立ち居振る舞いは、自信と品格に満ちている。
「エスターライヒ様、おはようございます。今からご出発ですか?」
「はい。私が担当する魔獣除けはそれほど遠くない場所にあるので、明後日には戻ります」
(それって、この間見たあの石碑ね)
「ご無事な帰還を心からお待ちしております」
「ありがとうございます。失礼、肩に葉っぱがついていますよ? っ……!」
エスターライヒ様がわたしの肩に触れたとき、バチッという何かを弾くような音が聞こえた。
(ん……?)
わたしが首を傾げると、彼は一瞬顔を歪め、痛みを堪えるような低い声で言った。
「申し訳ありません、ベルヴュー辺境伯令嬢。私の指輪がペンダントのチェーンに引っかかってしまい、壊してしまったようです……」
「大丈夫ですよ。お気になさらないでください」
彼の手に握られていたペンダントを受け取ろうと手を伸ばしたが、彼は首を横に振り、穏やかな口調で言った。
「修理させていただきたいのですが、しばらくお預かりしてもよろしいでしょうか」
その瞬間、イヴァールの顔がふと脳裏をよぎったが、すぐに気を取り直した。
(少しの間だけなら……大丈夫よね?)
「では、お願いします」
わたしが小さく頷くと、彼は安心したように微笑み、ペンダントを大切そうに持ち直した。
「ありがとうございます。それでは任務に向かいます」
エスターライヒ様はそう言い残し足早に馬車へ乗り込むと、目的地へ向けて出発していった。
***
イヴァールが任務に出ている間、わたしは休暇を申請し、久し振りの休日を楽しんでいた。最終日の今日はバルサザール様のところへ遊びに来ている。
王都の端にひっそりと佇むバルサザール様の住まいは、小ぶりながらも趣深く、どこか心を和ませる温かい雰囲気に包まれていた。
「リディア、イヴァールは明日戻ってくるんじゃな?」
「ええ。なんの問題もなければ、その後、謝恩式典が行われるはずです」
「ほぉ、そうかそうか。あやつも立派になったもんじゃ、ようここまで成長したのぅ」
バルサザール様は椅子の背もたれに深く身を預けながら、どこか誇らしげに目を細めた。その仕草からは厳しい指導を続けてきた日々を懐かしむ思いと、弟子の成長を心底喜ぶ心情が窺える。
「あの頃を思うと、ほんに感慨深いのう……」
バルサザール様が穏やかな声でぽつりとつぶやいたとき、来客を告げるベルが鳴り、バルサザール様はゆっくりと椅子から立ち上がった。
「どれ、客人かの。ちと様子を見てくるとするかの。リディアや、わしが戻るまでお茶の用意を頼んでもええか?」
「はい、もちろんです」
わたしは席を立ち、部屋の一角にある小さなキッチンへと向かった。この小さなキッチンは、バルサザール様が「いちいち遠くまで移動するのが面倒じゃ」という理由で自ら設計し作らせたものだ。その簡素な見た目に反して、必要な道具がきちんと揃えられており、使い勝手がいい。
わたしはその場に座り込み、キッチンの隅に隠れている彼に声をかけた。
「ピオニー出ておいで」
わたしがそう言うと、彼——ミニ猪のピオニーは、ビクンと体を震わせたあと、さらに奥へと隠れた。
バルサザール様のペットであるピオニーは、イヴァールとわたしが幼い頃に、森の離宮で迷い込んでいたところを見つけた子だ。あのとき、わたしが「焼いて食べよう」と提案すると、イヴァールは顔を真っ赤にして大反対し、泣きながらここへ連れてきたのだ。
それもあってか、ピオニーは未だわたしに懐かない。
「いつまでも執念深い子ね。半分は冗談だったのよ?」
ピオニーの警戒は解けず、彼はキッチンの奥から出てこない。わたしは仕方なく立ち上がり、お茶を淹れる準備を始めた。
ふと目をやると、棚の端に林檎ジャムの瓶がぽつんと置いてあった。蓋を開けると甘酸っぱい香りがふわりと広がり、思わず顔がほころぶ。ティースプーンでジャムを掬い、湯気の立つ紅茶の中にそっと落とした。くるくるとスプーンを回すと、琥珀色の液体は少しずつ赤みを帯び、甘い香りがさらに濃く漂い始めた。
「いい香り」
わたしはカップを手に取り、そっと紅茶を一口飲んだ。その瞬間、林檎ジャムの甘酸っぱさとは違う、葡萄のような甘みが口の中に広がった。
「新種の林檎なのかしら。これはこれでアリね」
不思議な味わいに驚きながらも、もう一口紅茶を飲んだとき、常識では考えられないことが起こった。
(ん……? えっ? ええっ!?)
突然、体に奇妙な感覚が走り、わたしの視界はみるみる低くなっていった。何が起きているのかわからず、気づけば、周りの全ての物が巨大になっていた。
「なな、何これ!? ど、どど、どういうこと!?」
理解が追いつかず、ただ呆然と立ち尽くしていると、背後からただならぬ殺気を感じた。振り返ると、目の前に巨大な影が迫ってきた。
「グゴーーーーーーッ!」
「ギャーーーーーーッ!」
それは、見上げるほどに大きくなったミニ猪……(だったはず)のピオニーだった。ピオニーは驚異的なスピードでこちらに迫っており、その目には明らかな敵意と怨念の色が宿っている……!
「ま、待ちなさい、ピオニー! 話せばわかるわっ!」
わたしは焦りながらも、この危機から逃れる方法を探し、窓辺に積まれていた本の山に目を留めた。それは階段状になって、出窓の台座へと続いている。一目散に本に向かい、必死によじ登った。
「はぁ、はぁ……。積年の恨みってやつかしら……」
出窓の台座にたどり着き、呼吸を整えながら下を覗き込むと、ピオニーは鼻を鳴らし、牙を見せて威嚇するようにこちらを見上げていた。
そのとき、来客の対応に出ていたバルサザール様が、分厚い古書を手に抱え、どこか満足げな様子で戻ってきた。彼の姿を見て、わたしはほっと胸を撫でおろした。
「バルサザール様ー! バルサザール様ーーー!!」
必死に声をあげるも、親指大になったわたしの声は微かすぎて、バルサザール様の耳には届かない。さらに大声で彼を呼んだが、やはり全く気づいてもらえない。
(本当に耳が遠くなったのかしら……)
「おや? リディアは帰ったかのう? 大きくなってもほんに元気な娘じゃわい。さて、研究を再開するとするかの。この『チッサナール』が完成すれば、魔竜をペットにできるかもしれんからのう……ふぉっふぉっふぉ」
そう言ってバルサザール様は林檎ジャムの瓶を手に取って部屋を出て行った。
(それ、ジャムじゃなかったんかい!!)
思わず心の中でそう叫んだとき、急に強い風が吹いた。振り向くと、開いていた両開きの窓の片方から、一羽の大きな鳥が室内に飛び込んできた。
「えっ? 何……?」
その灰色の鳥は鋭い目つきでわたしを見つめ、じりじりと距離を詰めてくる。
「クィーーーーーーッ!」
鳥が鳴き声を上げた瞬間、わたしの体がふわりと浮き上がった。鳥はその大きな爪で、わたしの体をしっかりと掴んでいた。
「嘘でしょーーーっ!?」
鳥はそのまま窓の外へと飛び立ち、力強く羽ばたいていく。風が容赦なく吹きつけ、耳元ではバッサバッサと羽音が響く。見下ろした王都の景色は、どんどん小さくなっていった。
「ちょっと! どこに連れていくつもりなのよ!」
「クィッ」
必死に問いかけるも鳥は短く鳴くだけで、こちらの言葉などどこ吹く風とばかりに、さらに高度を上げて飛び続けた。