13
「きゃぁぁぁ——」
ドォォォン! バシャーッ!
「——ぁぁ…………あ? あれ? またこのパターン……?」
滝つぼに飲み込まれる覚悟をしていたわたしだったが、気づけば、水たまりに尻もちをついて座り込んでいた。
「やっぱりあれ、ただのジャムじゃなかったのね……。おかげで助かったけど」
立ち上がると、崖の淵は目線よりはるかに低い位置に広がっていた。胸元の滝口から流れ落ちる水はまるで小川のように見え、さっきまでの荒々しさはすっかり影を潜めていた。足元の岩は小石ほどに転がり、周囲に広がる木々は背の低い灌木のようだ。
そう、わたしの体はあり得ないほどに巨大になっていた……。
「キュウ~ン」
崖の上では、手に乗るほどに小さくなった狼たちが、情けない声を漏らしながらお腹を見せている。さっきは牙を剥いて飛びかかってきたのに、今では完全に服従の姿勢だ。
「よいしょ……っと」
わたしは足場を探りながら慎重に身を押し上げ、崖の淵へと上がった。地面にかすかな振動が広がり、揺れた木々の間からは、鳥たちが一斉に飛び立った。
「さてと……あそこだわ」
キョロキョロと辺りを見渡し、視線の先に目的の岩山を見つけた。
ドスン! ドスン!
岩山に向かって歩き出すと、一歩ごとにその衝撃が伝わり周囲の木々がわずかに揺れる。
バキバキッ……! ミシッ……!
できるだけ木々を避けようとするも、枝を押し分け幹をなぎ倒してしまう。
「あとでイヴァールに頼んで直してもらわないと……」
気をつけながら岩山に近づくと、その手前のぽっかりと開けた場所では、小さな人間たちが——いや、彼らが普通でわたしが巨大なのだが——剣を交えているのが見えた。
イヴァールとクラウス、そして、エスメラルダ王女とその私兵たち。
彼らは近づいてきたわたしに、まだ誰も気づいていない。
わたしはそろりと近づき、覗き込むように腰を折った。そのとき、地面に落ちたわたしの影がエスメラルダ王女を差し、彼女がふと顔を上げた。そして、わたしと目が合うと、まるで現実を疑うかのように目を大きく見開いた。
「きゃぁぁぁっっ!」
その悲鳴に反応して周囲の戦闘が止まり、全員が呆然とわたしを見上げた。
彼らを踏みつぶさないように注意しながらしゃがみ込みエスメラルダ王女に顔を向けると、彼女は「ヒィッ」と短い悲鳴をあげ、足元をもつれさせながら逃げ出した。
わたしは咄嗟に地面に手をつき、エスメラルダ王女たちの行く手を塞いだ。
「うふふ、どうしてくれようかしらぁ」
ニヤリと顔を近づけると、エスメラルダ王女は恐怖に腰を抜かし尻もちをついた。
わたしは雑草を抜くような気軽さで周囲の木々を根こそぎ引き抜き、彼らの周りにそれらを並べ即席の檻を組み立てた。
「しばらくそこで大人しくしていなさい」
そう言って一息つくと、その様子を見ていたイヴァールがため息交じりに肩をすくめた。
「リディア、随分と大きくなったな」
「詳しいことはあとで話すわ……」
バサッ! バサッ!
そのとき、檻の中に閉じ込められたエスメラルダ王女たちの混乱した騒ぎ声をかき消すように、空を切る羽音が響いた。
巨大な人間が近づいてくる異様な光景に驚いて逃げ出していた天空鳥が戻り、警戒するように翼を広げて風を巻き起こしながら、わたしの頭上を旋回する。
「クァァァー!」
天空鳥は自分の縄張りを荒らす存在を追い出そうと、甲高い鳴き声を上げた。
「ごめんね、ちょっと巣の中を見せてほしいの」
わたしは立ち上がり、岩山に近づいた。今のわたしなら頂上の天空鳥の巣に手が届く。両手を伸ばし、巣を支えながらそっと地面へと降ろした。
「イヴァール、クラウス、ぬいぐるみはある?」
彼らは大きな巣の中に入り、絡みついた枝や葉を押しのけながら、注意深くぬいぐるみを探した。
「ん? あれか……?」
イヴァールが巣の奥に手を伸ばし、絡みついた何かを引き抜いた。それは、かなり汚れてはいるものの、間違いなく探していたぬいぐるみだった。
イヴァールがクラウスにそれを渡すと、クラウスは嬉々としてぬいぐるみを掲げて叫んだ。
「やったぞ! 間違いなく『ラヴィたん』だ! イヴァール、リディア、ありがとう!!」
しかし、天空鳥は「返せ」とばかりに「クワァァァーーー!!」と鳴き声をあげ、高度を下げて旋回しながらわたしに近づく。
「仕方ないわね……えいっ!」
「クァッ!?」
わたしは巣を岩山の頂上に戻すと、素早く手を動かし、天空鳥の首を捕まえた。
「これ、元はわたしの友達のものだったの。あとで返すから、ちょっとかしてくれない?」
天空鳥に顔を近づけお願いすると、大人しくなった天空鳥は「クァ……」と一鳴きし、翼をたたんで巣へと落ち着いた。
「さぁ、離宮に帰……」
……りましょう! と続けようとしたとき、体がムズムズするような奇妙な感覚が走った。
(あ……!)
岩山の頂上が遠ざかり、視界が次第に低くなる。地面はぐんぐんと迫り、広がっていた世界がゆっくりと縮んでいく。
「……戻った?」
そつぶやいたときには、地面はいつも通りの位置にあった。
「今回は早めに戻ってよかったわ」
わたしたちは礼拝堂へ立ち寄り、司祭様からペンダントを受け取ったあと離宮へと向かった。馬車の揺れに身を任せながら、イヴァールは深いため息をついた。
「リディア、ペンダントは外すなと何度言えばわかる?」
「だって、礼拝堂では魔道具を外せって……」
「それでもだ!」
イヴァールは腕を組み、じっとわたしを見据えながら不満げな口調で続ける。
「今回もこうして無事に戻れたからいいものの、それはたまたま運が良かっただけだ。取り返しのつかないことになってからじゃ遅いんだぞ!? 大体お前は楽観的すぎる。軽率な判断の積み重ねがいつか大きな失敗を呼ぶんだ。もっと慎重に物事を見極め、自分にどんな影響があるのかを考えろ。いいか——」
イヴァールの説教は途切れることなく続く。確かにペンダントを外してしまったわたしが悪いのだけれど……。わたしはじっと彼の顔を見つめ、その言葉を黙って受け止めた。しかし……。
(長いなぁ……)
止まる気配のないイヴァールの小言を止めようと、わたしはタイミングを計ってクラウスの手元にあるぬいぐるみに目を向けた。
「ねぇ、クラウス。鍵は本当にこのぬいぐるみの中に入っているのよね?」
「あ、ああ。そうだと思う……たぶん……」
「帰ったらすぐに解体だな」
戸惑いを隠せないクラウスにイヴァールが淡々と告げると、クラウスは少しの間ぬいぐるみを撫で、それから静かに深く頷いた。
離宮に到着すると、イヴァールはエスメラルダ王女たちを捕らえるよう騎士たちに命じ、わたしたちはそれぞれ身なりを整えたあと応接室へ向かった。
テーブルの中央に置かれた汚れたぬいぐるみを、皆無言で見つめている。
「クラウス、開いてみろ」
イヴァールから小型のはさみを受け取ったクラウスが、縫い目に沿って慎重に糸をほどいていく。わたしはその様子を固唾をのんで見守る。
布の合わせ目が少しずつ開かれていく。その中に、確かに何かがあるはずだった。
しかし——
「……嘘だろ……」
クラウスの指先が中へと滑り込むも、触れたのはただの詰め物だけだった。彼はさらに糸をほどき布をひっくり返してみるも、鍵はどこにもない……。
クラウスは言葉を失い深く項垂れた。肩は重く落ち、手は力なく垂れ下がった。
希望が消え去ったかのような沈黙が部屋を包む。
「振り出しに戻ったわね……」