12
ひんやりとした空気が肌を撫でる。重たい瞼をゆっくりと開くと、ぼんやりとした薄暗い空間が広がっていた。
(……ここは……?)
体を起こして視線を巡らせると、目に入ったのは、古びた木の壁とざらついた床。木の香りが微かに漂うが、湿った空気が混ざっていてどこか息苦しさを感じる。小さな窓から差し込む光は淡く、周囲をほんのり照らしていた。
「わたし、どうしたんだっけ……」
声を出してみるものの、乾いた喉から漏れたのは、ひどく掠れたものだった。
(確かあのとき……)
わたしは目を閉じ、途切れ途切れの記憶を辿った。
(……小聖堂の祭壇の前で、わたしは祈りを捧げ……)
「そうしたら、首元にチクリと痛みが刺して、意識が遠のいたんだわ!」
意識を失う直前、わたしが最後に見たのはエスメラルダ王女の歪んだ笑顔だった。あの冷ややかな視線と、わずかに持ち上がった口角が妙に印象に残っている。恐らく、ここへ連れてこられたのは彼女の仕業だろう。
「よくもやってくれたわね、エスメラルダ!」
わたしは立ち上がり、軋む床板を踏みしめながら、窓の外を覗いた。
そこには、鬱蒼とした木々が広がり、わずかな光しか差し込まない森が静かに息づいていた。草葉が揺れ、遠くから滝の音が聞こえる。
「ん……?」
視界の端に映ったのは、見覚えのあるそれだった。
「あれは……あの天空鳥の巣がある岩山だわ!」
間違いない。あの岩山は、数日前にわたしたちが訪れた場所だ。
「イヴァールとクラウスが向かっているはずよね……」
わたしは彼らに合流するため、外へ出ようとドアへ向かった。しかし、その瞬間、人の気配を感じて足を止めた。
「……エスメラルダ王女殿下?」
彼女の名を呼ぶも返事はなく、開いたドアの向こうから現れたのは、彼女の従者である男性だった。
「おや、お気づきになられたのですね」
彼は落ち着いた口調でそう言いながら、パンと水を乗せたトレーを部屋の隅のテーブルへ静かに置いた。
「やっぱりわたしをここに連れてきたのはエスメラルダ王女殿下なのね。わたしをどうするつもり?」
警戒しながらも、わたしは彼をじっと見つめて尋ねた。彼は特に動じることもなく、微かな笑みを浮かべた。
「安心してください。危害を加えるつもりはありません。交渉を円滑に進めるために、あなたに協力していただきたいのです」
彼の言葉の裏に隠された意図を探ろうとするも、表情からは何も読み取れない。
「まずは食事をどうぞ。毒なんて入っていませんし、こんなものしか用意できなくて申し訳ないですが、空腹でしたら召し上がってください。それから、しばらくの間はおとなしくしていてくださいね」
彼は淡々と言葉を残し、足早に部屋を出て行った。扉が閉まり、続いてカチリと鍵がかかる音が響く。
静かになった部屋で、わたしはテーブルへ目を向けた。
ぐぅぅ……。
「そうよね、まずは腹ごしらえよ!」
わたしは水で喉を潤し、粗末なパンを手に取った。乾いたパンは少し固く、ひと口かじるとパサついた生地が口の中の水分を奪っていく。
「美味しいとは言えないわね……そうだわ!」
わたしはポシェットの中を探り、目的のものを取り出した。バルサザール様の家でクラウスから取り上げた、『苺ジャム』と書かれた瓶だ。瓶をそっと開けると、甘酸っぱい苺の香りがふわりと広がる。
「本物のジャムかしら……?」
念のため慎重に匂いを嗅ぎ、確認する。
「うーん、ただのジャムのような気もするけど……」
わたしはほんの少しだけパンに塗り、恐る恐る一口食べた。咀嚼しながらしばらく様子を窺うも、特に異変はない……。
ほっと息を吐き、今度はたっぷりとパンに塗った。固いパンもジャムがあれば少しは食べやすくなる。わたしは食事を進めながら、今後の行動を考え始めた。
そのとき、ぴゅーっという風の音が耳に届き、わたしは反射的に窓へ目を向けた。
「あれ?」
わたしは一気にパンを頬張り、窓に近づいた。よく見ると、枠の一部が歪んで壊れかけている。そっと指で押すと、古びた木枠がギシッと軋み、わずかに動いた。
(外せるかもしれない……!)
わたしは、残りの水を飲み干し、決意を固めた。
窓枠へ手をかけ、わずかに浮いた枠の隙間に指を差し込みゆっくりと力を込める。周囲の気配を探りながら少しずつ動かし、指先に力を込めて枠を押し上げる。
ギィ……ミシッ……。
枠の一部がゆっくりと外れかけ、端がわずかに開いた。 片側を掴み、左右に揺らす。固定された釘の部分が緩む感触が伝わる。
(もう少し……!)
わたしは息をひそめながら、さらに枠を左右に揺らし、最後の力を込めて引き抜いた。
ガタッ。
窓枠が完全に外れた。風が吹き込み、外の光が差し込む。
「やったわ……!」
わたしは枠を静かに床へ置き、窓の開口部を確認しながら、慎重に外へと身を乗り出した。
窓から飛び出したわたしは、岩山を目指して走り出した。森の奥へと進むほど木々が生い茂り、湿った土の匂いが鼻をかすめる。
(イヴァールとクラウスがいるはず……急ごう!)
息を整えながら、できるだけ足音を殺して進む。
しかし、走り出してしばらく経ったとき、低く唸る声が聞こえた。緊張が走り足を止めて周囲を確認すると、茂みの間に見えたのは、数匹の大きな狼だった。
(まずい……!)
わたしは辺りを見回し、手頃な木枝を掴んだ。狼たちは牙を剥き、じりじりと距離を詰めたかと思うと、先頭の一匹が飛びかかってきた。
狼の牙が迫り、わたしは反射的に枝を振るった。
バシッ!
「ギャウッ!」
わたしの一撃が狼の鼻先を叩き、狼は地面へと転がった。残りの狼たちが動きを止めた隙に、わたしは身を翻して走り出した。
背後には執拗に追ってくる狼たちの足音が迫り、振り返る余裕もなく必死に走り続ける。
次第に風が変わり、湿った香りと、遠くから轟く水音が届いた。足元の土は湿り気を帯び、水の音がどんどん大きくなる。
やがて視界が開け、眼前には勢いよく流れ落ちる滝が姿を現した。しかし、道はそこで途切れ、崖のように切り立っている。
立ち止まって振り返ると、狼たちはすぐそこに迫っていた。完全に追い詰められたわたしは、逃げ場を失い崖の淵で立ちすくんだ。狼たちは唸りながら、獲物を逃がすまいと狙っている。
一匹の狼が踏み込み、一直線に飛びかかってきた。咄嗟に避けようとしたとき、体がムズムズするような奇妙な感覚が走った。
足元がぐらつき踏みとどまろうとしたものの、わたしの体は重力に逆らえずゆっくりと傾く。視界の端に映った滝の流れは、絵画のように止まって見えた。体がふわりと浮いた次の瞬間、目の前の光景は反転し、わたしは成す術なく滝つぼへと落ちていった。