74話 リリー
平民の御使いたちの棟から出て、教会内を歩いていると、アルバートが前から歩いてきた。彼はリリアンの姿を見つけると、こちらに向かって歩いてきた。
「おや、リリアン様」
「アルバート様、ごきげんよう」
リリアンが礼の姿勢を取ると、彼は楽しそうに目を細めた。
「儀式から、十日ほど経ちましたね。そろそろ、儀式が完了するのでしょうか?」
その言葉を聞いて、思わず息を飲む。
聖水を月明かりにさらすのは新月から満月まで。約十五日ほどだ。元々は石の入手に時間がかかると考えていたため、想定していたほど時間が稼げていない。だが、それを悟られるわけにはいかず、何でもないように笑みを浮かべる。
「そうですね。仕上げの儀式を数日後に行う必要があるでしょう」
「そうなのですね。とても楽しみです……。では、儀式の準備をさせましょう。また必要なものがありましたら、教えてください」
「かしこまりました。ありがとうございます」
お礼を言うと、アルバートはこちらをじっくり観察するように見た。
「あなたが象徴になるのが楽しみですね」
着実に近づいていく象徴の座。そこにいたメアリーはひどく眩しかったのに、自分が座ることになると、何とも言えない不安に襲われる。
「……私も、楽しみです」
そう言って微笑むと、再度礼の姿勢を取って、彼の前から歩き出した。
夜になり、レジーナがリリアンのもとに現れる。彼女はリリアンの顔を覗き込むと、首をかしげた。
「あら、どうしたの? 辛気臭い顔をして」
「……今日、象徴になる覚悟があるのかと問われたのです。メアリー様が見つからないまま、時間は過ぎていきます。私が象徴になる日は近いです」
レジーナはその言葉を聞いて納得したようにうなずいた。
「そうね。たしかに、メアリーが見つからない可能性があるわ。……そのとき、あなたはメアリーの代わりに象徴になる決心はついているの?」
そう問われて口を閉じる。その様子を見て、レジーナは仕方がなさそうに息を吐く。
「ないわよね。知っているわ。でも、あなたは象徴候補。その立場を忘れてはいけないの」
彼女の視線の先には、リリアンの胸元にぶら下がる石がある。これは象徴の証となる石だ。
「……レジーナ様は誰かを導くような、そんな立場になったことはおありですか?」
「あるわ。たくさん、ある」
「そのとき、不安に襲われたことは?」
レジーナは懐かしそうに目を細める。その表情は悲しげに見えた。
「不安なんて、いっぱいあったわ。眠れない日だってあった。でも、私は自分を信じていた。だから、立っていられた」
「どうして、そのように自分を信じられるのでしょうか」
彼女は腰に手を当て、笑みを浮かべる。
「周りが私を信じていたからよ。……いいえ。周りに信じてほしいから、自分を信じたの。自分すら自分のことを信じられないのに、周りが信じてくれるはずがないでしょう?」
レジーナは胸を張り、その胸元に手を当てた。
「だから、周りが信じてなくても、私は自分を信じる。そして、私は信頼できる人たちを信じるの。自分が信じた相手よ? それだけの価値があるわ」
彼女はリリアンの胸元を指でトントンと叩いて、にっこりと微笑む。
「大丈夫よ、リリアン。あなたは、大丈夫」
「……レジーナ様は私を信じてくれますか?」
「あなたが自分を信じられるならね」
その言葉に眉を下げて笑う。
「善処します」
レジーナは小さく笑うと、ふわりと浮かび上がった。
「あなたの友達の御使いを呼びなさい。あなたは信頼できる人との会話が必要だわ」
彼女はそれだけ言って姿を消した。
会話が必要。確かにそうかもしれない。一人でいるのはどうにも寂しくて、辛くて……怖かった。ゆっくり息を吐く。そして、小さな声で呟いた。
「リアム、こちらに来ることはできますか? ……私を助けてください」
すぐに動ける状態だったのか、ウィリアムはすぐに姿を現した。
「本当に呼んだね」
彼はこちらを見て、嬉しそうに笑う。
「私が呼ぶことをわかっていたのですか?」
「……君の近くにいるレジーナっていう悪魔に言われたんだ。今日呼ぶだろうから、準備していろって」
彼は少し眉を寄せる。だが、すぐに息を吐いて首を横に振った。
「まあ、いいや。俺もリリーに話したいことがあったから」
彼はそう言って、隣に座った。
「最近無理してるだろ?」
ウィリアムの言いたいことがよくわからなかった。無理はしているのかもしれない。けれど、これは必要なことだ。こんなことで音を上げるわけにいかない。
「大丈夫ですよ」
そう笑うと、ウィリアムがリリアンの頬を掴んだ。そしてぐにぐにと引っ張る。
「その笑い方、やめろよ。昔のお前みたいだ」
「昔の私ですか?」
よくわからず首をかしげると、彼は真剣な顔でうなずく。
「楽しくもないのに、笑ってる。笑ってごまかそうとしてるんだよ。俺らにも、自分にも」
「そんなことないですよ」
「俺は知ってる。楽しいときに心から笑う君のこと。最近会ったばかりのやつらには誤魔化せても、俺には誤魔化せないから」
彼は手を離すと、こちらを少し睨む。
「君はリリーだよ。メアリーじゃない」
「リアム……」
「メアリーになろうとしなくていい。ロザリーになろうとしなくていい。俺やルシルが大切に思ったのはリリーなんだ。誰かになろうとしなくていいんだよ」
その言葉が胸にじわりと染み込む。それは温かく、目元が不意に熱くなる。
「今日はリリーにこれを渡しに来たんだ」
ウィリアムの手には何枚かの封筒があった。紙の質の違いから、すべて違う人が書いているのがわかる。
「これは?」
「リリーへの手紙だよ」
受け取って見てみると、送り主はそれぞれ、クライヴ、ナタリア、アレクシス、オズワルド、そしてロイの名前があった。
「どうしてこれを……」
「みんなここに来ることはできない。でも、リリアンにいろんな人と……大切な人たちと会話をしてほしかったんだ」
そっと一枚封筒を抜き取って、彼に向ける。
「この人は……」
「リリーのお兄さんだろ?」
ロイからの手紙を見て、ウィリアムはそう答えた。目を見張って何も言えずにいると、ウィリアムは落ち着いた口調で言った。
「なんとなくわかっていたよ。君はほかの貴族たちと少し違う。いろんなものへの見方や感覚、友人関係。別に調べたわけじゃない。オズワルド様に聞いたら、教えてくれたんだ」
「……リアムはわかっていて、態度を変えなかったのですか?」
「だって、リリーはリリーだろう? それに俺も前世は貧乏な子どもさ。身分や立場は大切だ。でも、それよりも大切なものがあるってルシルも言っていただろう?」
彼はそう言って、リリアンの手に触れた。その手は温かく、大きかった。
「君が何者であろうと、俺たちの大切なリリーだよ。みんなが君の帰りを待っている」
その言葉に、目元に涙が溜まっていく。それを見られないように少し視線を下げて、笑みを浮かべた。
「私、リアムがこうして会いに来てくれるから、とても心強かったのです。だから、安心して、自分を偽ることができました」
自分の手を見つめる。人を羨ましく思っていた。自分じゃない誰かは他者を傷つけず、不幸にせず、幸せで……自身の居場所を持っている人たちなんだと思っていた。
「私はずっと、別の誰かになりたいと思っていました。けれど、演じてみても、なんだか落ち着かないです」
ずっと自分が嫌いだった。自分がいなければ、みんなが幸せになれる。そう思っていた。
だが、みんなが自分の帰りを待ってくれている。リリーの帰りを待っている。
リリアンは顔を上げて前を見た。そして、ウィリアムに笑いかけた。
「私、早くみんなのところに帰ります」
その言葉にウィリアムはうなずいた。
「……ああ。待ってる」




