16話 子爵家の養女
「そうだね、リリーはもうここが解けるようになっているから、次は……」
次の日もロイは変わらず、勉強を教えてくれようとした。いつものように二人は席に着き、ノートを眺めている。まるで昨日のことを気にしていないようだった。
だが、昨日のことを気にしていないわけがない。我慢強い彼は表に出さないようにしているだけだ。……兄を支えたくて、リリアンは口を開いた。
「兄さん」
「何?」
「大丈夫ですか?」
「何が?」
ロイはノートから目を離さない。彼の横顔を見ながら、必死に言葉を紡ぎだす。
「昨日のこと……。父さんたちがどうかしているのですよ! あの、私はこの家を継ぐつもりはありませんので、だからお兄さんは……」
彼はいつもの優しい笑顔をこちらに向けた。眉を下げて笑う彼から……表情を消えた。感情を持たない瞳でこちらを見る彼にリリアンは背筋がぞくりとした。
「ねえ、リリー」
彼はリリアンの肩に手を置いた。男性らしい骨ばった手はリリアンの細い肩を覆えるほどに大きく、少し力を加えれば、折れてしまいそうなほどに強かった。ずっしりとした重みを感じながら、兄を見上げる。
「俺は君のことを愛している」
「兄さん……」
「愛おしくて、羨ましくて……憎らしい」
リリアンが肩を震わせると、彼は手を離した。視線は外され、何もないところを眺めている。
「俺は君にとって良い兄でありたかった。……君のことをずっと愛していられる自分のままでいたいんだ」
虚ろな瞳から涙を流れ出す。
「あの、私……」
「リリー」
ロイがこちらに手を伸ばして来る。リリアンは思わず目を閉じた。
「……ははは」
兄の笑い声が聞こえる。見れば、彼は自分の手を見つめていた。
「俺は……駄目な兄だね」
彼はそう言うと、こちらを向いた。
「リリー。もう終わりにしようか」
そう言いながら、彼は勉強道具を片付けていく。リリアンは彼の提案をすぐに受け入れると、その場から逃げ出すようにして兄の部屋を出た。
今日の兄は怖かった。早く離れたかった。
知らない人のように見えた。まるで兄の皮を被った別の人物がそこにいたような気がした。
リリアンは自室に戻ると、ベッドに潜り込んだ。
「ううっ……」
どうしてこうなってしまったんだろう……。
誰にもバレないように声を押し殺して泣いた。
兄は自殺未遂を起こした。リリアンが部屋を出たあとのことだった。
首を吊っているのを使用人が見つけたという。すぐに医者を呼んで、大事には至らなかった。
「どうして、あの子が……」
「死にはしなかったんだ。大丈夫さ」
涙ぐむ母親の肩に父親が手を乗せる。けれど、彼女はその手を振り払った。
「元はと言えば、あなたがあの子に厳しい言葉をかけたからでしょう!?」
「あれは教育だ! あんな言葉を真に受ける方が悪い!」
「そう言って、あなたはリリーばかり甘やかして、いつもロイばかりに厳しく当たるのよ!」
「お前だってリリーに甘いだろう!」
リリアンは居間に入ろうとしていた足をそっと戻す。両親はこちらに気づかず、言い合いをしていた。
「…………」
そして、気づく。異常だと。
愛妾の子である自分が本来いるはずのなかった場所にいるから、この家族はおかしくなってしまっているのだ、と。
「私がいなければ、いいのでしょうか……」
リリアンは玄関に向かうと、一人で外へ出て行った。
ロイの自殺未遂が原因で、今日は店が開いていなかった。いつもならにぎわっているはず店に目を向けながら、外へ歩いていく。
「あら」
顔を上げれば、以前店に訪れた貴族の婦人がいた。綺麗な銀色の髪が日を浴びて煌めいている。
「あなたは……リリアンよね?」
スカートを広げて礼をすると、彼女は優しい笑みを浮かべた。
「もうすぐ暗くなるのに、どこかへおでかけかしら?」
「……行くあてがないのです」
「それは……どういうことかしら?」
その問いに上手く答えられない。言葉に困っていると婦人は「んー」と考える素振りを見せる。
「働き口を探している……とかかしら?」
その言葉を聞いて、リリアンは顔を上げた。
「あの……! 私をあなたの家で雇ってはくれないでしょうか?」
「まあ。どうして?」
「……私は自立したいんです」
愛妾の子の自分がいるから、この家はおかしくなった。自分が離れれば……元の家族の形に戻るに違いない。
その言葉を聞いて、彼女は笑うことなく「そう」と言った。
「いいわ。歓迎します。……私の家にいらっしゃい、リリー」
婦人は早速、両親に話をつけてくれた。貴族の依頼は命令と同じだ。親は嫌と言うこともできず、リリアンを引き渡した。
去り際、リリアンは眠っているロイの部屋に行った。彼は自殺未遂をしてから目を覚まさない。そんな彼に別れを言う。
「兄さん、いままでありがとう」
リリアンが荷物をまとめると、店の前まで馬車が出迎えてくれた。特別待遇に驚きながらも婦人の家に行くと、綺麗で大きな部屋に通された。
「今日からここがあなたの部屋よ」
その言葉の意味がわからなかった。
「これは、どういうことですか?」
婦人に問うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「だって、あなたは今日から家族の一員でしょう?」
彼女はリリアンの肩に手を置いて、ニコリと微笑む。
「あなたは今日から私の娘よ」
「そんな、私は……下働きとしてここに来て……」
「そう言ったって……もう養子としての契約は済んでいるもの」
「え……」
驚きのあまり何も言えずにいると、婦人は「そうだわ!」と嬉しそうな声をあげた。
「これをあなたに渡したかったの」
彼女が取り出したのは、先日店で購入した耳飾りだった。
「でもこれは、お嬢様への贈り物では……」
「ええ、そうよ。だって、あなたは私の娘でしょう? とても似合っていたものね」
父親が言っていたことを思い出す。婦人には娘がいないはず……ということは、この耳飾りは最初から……。
「リリー」
婦人は親しげな呼び方でリリアンを呼ぶ。
「これ、もらってくれるかしら?」
もらえないと断ろうとした。だが、婦人の瞳が揺れていることに気がついた。
「あ……」
あの時の兄を思い出す。彼もこうやって不安そうな瞳をしていた。彼女は不安定な状況にあるのだろう。
自分が離れたら、この人はどうなるだろうか。
「……わかりました」
自分はこの場にいてはいけないと分かっていても、兄のように命を絶ってしまいそうな気がして、リリアンは彼女から離れることができなかった。
婦人……ナタリアは第一子であるアレクシスを産んでから、子をなせない体になっていたという。彼女は二人目の子を産むことができず、その罪悪感で日に日におかしくなっていたことを聞かされた。
親族はおかしくなった婦人のことを隠したがった。本当は突然現れた平民の娘のことを切り離したかったが、彼女はその娘と一緒にいるときはいつものように振る舞えた。仕方がなく、彼女を子爵家の娘として迎えることになった。
こうして、リリアンは子爵家の娘となった。




