1−8 ナディア
体の中に入り込もうとする謎の靄を払いのけようとして、蝋燭の火が消えて眼の前が真っ暗になった。
まるで暗闇に光る稲妻のように、若い女性の切迫した声が響く。
『助けて!』
一瞬の暗闇の後、目の前に遺跡でみた広間があらわれた。
両端にずらりと並ぶ円柱の柱が、幻想的な光を放っている。
驚いて周囲を見回そうするが、体が動かない。焦っていると、自分の意思に反して視界が動き出した。
柱や床の一部に、赤黒い液体を撒き散らしたような汚れがある。嫌な予感に鼓動がさらにはやくなり、床に転がった人間の腕らしきものに悲鳴をあげたくなるが、やはり体は少しもいうことをきかない。
ぽたぽたとリコの左肩から何かが滴り落ちている気配がする。背筋に冷たいものが走る。確かめたい衝動にかられるが、それもかなわない。だが幸い、そこに痛みはなかった。
痛みがないことに、これが現実ではなく夢なのではないかという考えが頭をもたげる。
視界の動きが止まる。柱の光が広間を照らす中、そこには闇があった。漆黒の長い体でとぐろを巻き、興奮した様子で長い舌をちらつかせている。真紅の瞳が、愉しそうに煌めく。
夢。リコは自分に言い聞かせる。どんなに怖くてもこれは夢だ。大丈夫。しかし、恐怖は少しも拭えない。
一刻も早くここから逃げ去りたいと本能が叫ぶ。だが、今のリコには目を見開いて恐怖に震えることも、悲鳴をあげることすらもできない。自分よりもはるかに大きな大蛇に狙われている状況だとしても。
「ナディア」
性別も年齢も窺い知れない声で大蛇が誰かの名を呼ぶと、体がわずかに震えた。絶望を体現したような漆黒の鱗は、光を反射して輝いているようにも見える。
恐怖で手に汗が滲んで喉がゴクリと音を立てた。リコの意思と体がようやく通じ合ったように思えた。しかしすぐに、勝手に動いた手が胸元の服ごと拳を握りしめた。射抜くような力強い視線を大蛇に向け、恐怖に丸まった背筋が伸びる。
自分の口がひらいたかと思うと、張りのある力強い声が溢れ出た。リコの意思でも、リコの声ですらない。
「私はナディア=エレファウスト! 神から愛された証を受け継ぐ私には、民を守る責務がある! お前に、私の力の欠片もくれてやる気はないっ!」
彼女の言葉に、この体がナディアという女性の意思により動いているのだと知る。
口の端が持ち上げられ、大蛇を前にナディアが笑みを浮かべているのだとわかった。
彼女が、右手を突き出した。
「氷短槍」
突き出した手のひらを中心に空気が渦を巻き、美しい輝きを放つ氷の短槍が現れた。両端が鋭く尖った短槍をそのまま右手でつかみとる。
大蛇から溢れていた自信と余裕はすっかり鳴りを潜め、距離を保ったままナディアに警戒を示している。
何が起きているのかわからない緊張の中で、リコは心臓が熱くなっていることに気がついた。恐怖で鼓動がはやいからだけではなく、本当に熱い。あまりに熱くて燃えだしそうだ。
ナディアは氷の槍を大蛇に向け、槍を握る手に力を込める。次の瞬間、何かを察知した大蛇が焦りの色を浮かべて飛びかかってきた。かなりの距離があったにもかかわらず、一瞬で距離は縮まり、人間をやすやすと丸呑みできるほどの大きな口が視界いっぱいに広がる。
『ごめんなさい』
脳に、ナディアと呼ばれた女性が謝る声がはっきりと聞こえた。
大蛇に向けられた反対の槍先は、ナディアの心臓へと向いている。その状態から、何のためらいもなく腕を引き寄せ、冷たい槍先が心臓を貫いた。
驚きと衝撃が体を突き抜ける。意思をなくした体はぐにゃりと床に崩れ落ち、蛇の牙が空を裂いた。怒りに満ちた唸り声のように、大蛇のシューッとたてる音が遺跡に響き渡った。
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