1−4 ここではないどこかへ
ダイニングにある壁掛け時計の針は、午後5時すぎをさしていた。適当につけたテレビからは、明日の天気予報が流れている。窓から入る日差しは弱まり、室内は陰り始めていた。2階にある自分の部屋から降りてきたリコは、ダイニングテーブルの上にあったロールパンを口にくわえてさらに冷蔵庫の中をあさる。
両親と顔を合わせなくてすむように、この時間に小腹を満たすのがリコの習慣となっていた。
窓は閉めているというのに、どこからか小学生の元気な「ただいまっ!」という声がして、リコの虚ろな瞳が影を増した。
みんなが当たり前に行く学校に行かなくなり、1ヶ月が過ぎていた。
冷蔵庫の上段から固形チーズを取り出して、必要のない天気予報を聞き流しながらロールパンをかじる。続いて固形チーズを2回に分けて口に放り込み、今日の夕食とする。不登校になってから、食べるという行為が億劫になった。咀嚼する感覚にも喉を通る感覚にも嫌悪感を抱くようになり、味もしない。
グラスに水道水を注いで一気に飲み干すと、リコは生気のない黒い瞳を四人がけのテーブルに向けた。
姉が県外の医学部に進学するために一人暮らしを始める前、そこには母の手料理が並び、家族4人で食卓を囲んでいた。姉が家を出てからは、惣菜や冷凍食品が並ぶようになり、両親の喧嘩も増えて家の空気は重くなった。それでも、姉が帰省する数日間は、食卓が姉の好物で埋め尽くされ、楽しい会話が繰り広げられる。まるで、この家の子どもは姉だけのようだとリコは心の中で自嘲する。
チーズの包み紙をゴミ箱に放り投げ、グラスを洗う。テレビからは、脱走したペットのニシキヘビが無事に捕獲されたとアナウンサーが原稿を読み上げていた。3メートルを超える蛇がテレビ画面に映し出され、この世で最も苦手な生き物にリコは顔をしかめる。
手に残った雫をタオルで拭い、リモコンの電源ボタンを押すと部屋が静まり返った。廊下に出ようとして、見なければいいのに視線が向かいにあるリビングの一角に吸い寄せられ、リコはまたもや自己嫌悪に陥る。
リビングの棚にはピアノコンクールのトロフィーが誇らしげに並び、壁には作文や絵画で受賞した賞状が額に入れられて飾られている。そしてその全てに、リコの姉の名がある。それらを見ると、リコの胸は締め付けられて悲しい気分になる。
わかっている。自分と違って、姉は優秀だ。物語の主人公のように明るく前向きで、さらに完璧でなんでもできてしまう。小学生のころからリーダーシップを発揮して目立つタイプだった。児童会長や生徒会長を務め、成績も良く医者を目指す姉は両親の自慢の娘なのだ。だからしかたない。愛されて当然の存在なのだから、自分との対応に差があっても仕方がないと自分に言い聞かせながら、ぐりぐりと胸の傷は深くなっていく。
もう1階へ降りなくていいように、トイレをすませて冷蔵庫からペットボトルの水を手にとって部屋に戻る。
部屋のドアをあけると、ずっとしめられたままのカーテンの隙間からわずかな光が差し込み、埃が照らされて舞っていた。姉のおさがりの制服は、ずっとクローゼットにしまったままで、カバンは机の横に無造作に放り投げたままだ。姉と3年間輝かしい青春をともにしたそれらを使うことは二度とないだろう。
中学生の時、自分には人より秀でたものはなく、憧れの姉には微塵も及ばないのだとようやく自覚した。それでも、勉強は努力すれば結果がついてきた。テストの結果を見るときは、両親も嬉しそうで満足そうな表情を向けてくれる。だからがむしゃらに励み、そして姉と同じ有名な私立高校に合格したときは嬉しくて自分が誇らしかった。
しかし高校に入学してからというもの、成績は思うようにふるわなくなった。テレビも漫画も、友人の付き合いでさえ、弊害に思えて遠ざけた。学校と家を往復し、机にかじりつく。だがそれだけしても、そこには見えない壁があるように点数は伸び悩み、順位は真ん中あたりを上下するだけだ。
自分が唯一、自分の価値を示せるものがなくなってしまう。リコは焦燥感に駆られた。
ーー2人目は男の子が良かったわよ。
偶然聞いた母の電話の声は、脳内で勝手にリピートされ、リコを執拗に追い詰める。
その言葉から、生まれたときから期待外れで望まれていなかったことを知った。だからせめて勉強だけでも両親の自慢になれる娘でいたいと願っていたが、それも叶わないのだと知り、喪失感にさいなまれた。
なんの取り柄もない自分の存在価値がわからない。誰からも愛されず、必要とされず、なんのために生きているのかわからない。自分が無意味な人生を送っているのだと気がついた。息をしているだけで孤独が増していくような、苦しみに似た何かを抱えるようになっていった。
体を引きずるようにして学校に行く毎日。だがそれも、教室の前で過呼吸を起こしたことをきっかけに終わりを告げた。
学校にすら通えない、弱くて情けない恥ずかしい娘になってしまった。不登校になって数週間後、荒々しく足音をたてて階段を登ってきた母が、リコの部屋のドアをあけて言い放った。
「いつまで休むの!? いい加減にしてよ。お母さん情けなくてもう学校に電話できないわ!」
胸が苦しくて気持ち悪くて消えたい気持ちでいっぱいになる。
母は、自分よりも世間体が大事なのだ。誰も自分を見てくれない。必要としてくれない。この世界に、自分を愛してくれる人はいない。
自分が、出来損ないで必要のない人間だからしかたのないことなのだと思うと孤独で涙がこぼれた。
夜、寝付けずに布団で寝返りをうつ。暗くて陰鬱な夜は、ずるずると引きずり込まれるように同じことを考えてしまう。
みんなが当たり前に行く学校にすら行けない、欠陥品の自分が生きている意味を見いだせず、早く終わりにしたいと考える。いつもそう願っているのに、結局は終わらせる覚悟がない意気地なしの自分を責めた。
リコは布団の中から暗闇に浮かぶ常夜灯を見上げた。できることなら、ここではないどこかへ行きたい、といつもの現実逃避を始める。息苦しい家を捨てて、自分のことを知る人のいない世界へ行きたい。誰かが自分を必要とし、連れ出してくれる日を想像する。そんな誰かがいてくれたのならーー。
リコは深いため息をついて、スマホに手を伸ばす。そんな人がいないことは十分に理解していた。毎日家に引きこもり、自分はダメ人間になる一方だ。なのに学校に行くことも出来ず、どうしていいのかわからない。ゴールのない迷路に投げ出されたみたいに、将来が真っ暗で何も見えない。あるのは苦しみさえ感じる孤独感だけだ。
スマホの電源ボタンを押せば、深夜2時を過ぎていた。布団から抜け出して、机の上に出しっぱなしの紙の小袋に手を伸ばす。中には精神科で処方された睡眠薬が入っている。睡眠薬は寝る前にも飲んだが、処方された量では満足できなくなっていた。
足りない。リコは無心で丸い錠剤を包装から出していく。量さえ増やせば、眠れることはわかっていた。副作用や体に与える影響には関心がなかった。こんな体、どうなってもいい。感覚を全て手放して眠ってしまいたい一心だった。そうすれば、すべてから解放される。
2〜3個ずつ口に含み、ペットボトルの水で流し込む。しばらくすると、頭の中でざわめいていた自己嫌悪がなくなり、どろっと粘りつくような睡魔がやってきた。
ふわふわとした思考の中で、リコはようやく安堵する。布団に倒れ込み、目を閉じる。だが、すぐに温かな光を感じてリコは不思議に思った。誰かが自分を呼ぶ声がする。
『やっと見つけた、ぼくの愛しい人』
まだ声変わりもしていない男の子の声が、リコを呼んでいた。