1−30 悪あがき
ルーフスはこちらを見下ろす石像を見上げた。己の作った魔物に全てを飲み込まれてしまった憐れな人間の像が、事の終わりを見届けようとしている。
ルーフスは革袋から魔石を手のひらに取り出し、滑らかに加工された魔石を転がしながら、石碑の前に立った。
遺跡に残された記録を解読し、この石碑に魔石をはめることで封印を解除する魔術式が発動することはわかっていた。
ルーフスは魔石の一つをつまんで窪みにはめ込む。わずかな音を立てて石がおさまると、石が光った。
表情は一切変わらないが、彼の心臓が大きく鼓動し、緊張が走った。今から、不浄の魔物を解き放つ。万が一にでも自分が負ければ、多くの者が命を落とすことになる。
「ルーフス!」
耳の奥で、ジルドが呼ぶ声がした。もちろん幻聴だ。彼が死に、すでに何百年も経つのだから。
神だと崇められていた白蛇に、無礼にも名をつけたのは彼だった。
「名前がないと不便だろ?」
そしてジルドは人間よりも遥かに長い寿命と強大な力を持つ生き物に対して哀れみの目を向けた。
「お前たちはそれぞれが唯一無二な存在で、家族はいないんだろ? 寂しくないのか?」
ルーフスはジルドのことを目障りなハエくらいに思っていた。
「お前たちみたいな弱い者と馴れ合う気はない。私はただ自分の寝床を守りたいだけだ」
魔族は嫌いだった。人間を追い立てるために自分が住処にしていた森に火を放ったからだ。だからといって人間を守るつもりもなかった。ただ自分を崇め、貢物をしていた人間たちを利用しただけだった。
二つ目の魔石をはめこむ。
ルーフスの耳にこびりついて離れない人間たちの絶叫が聞こえる。怖がりなジャンは、枝になった自分の手を見て叫んでいた。ドリーは樹木化して動かなくなった恋人を抱きしめて泣き叫んだ。赤ん坊は、母親の腕の中で泣きながら木に変わった。
ルーフスは呼吸を荒くして胸を抑えた。人間は弱い。どうせすぐに死ぬものだ。なのに胸が押しつぶされる苦しみはあれからずっと消えない。
彼らの叫喚と哄笑、希望に満ちた顔と絶望と恐怖に染まった顔が交互に思い出される。
彼らを苦しめたのは誰だ? 無駄に希望を与え、奪ったのは誰だ?
「ルーフス?」
ジルドの足は根に変わって土の中に潜り、彼は体が樹木に変わっていく光景に恐怖と驚きを露わにしながら、ルーフスを見た。これは何だと彼の目がルーフスに説明を求めていた。騙したのかと責められているような気がした。
知らなかった。人間と関わることなんてほとんどしてこなかったのだ。それまで一人で静かに生きてきたルーフスは、初めて自分の感情が大きく揺らぐのを感じた。
もう何も失いたくない。無駄な争いを早く終わらせたい。その一心で、ルーフスは魔族を統率しているという魔王に交渉を持ちかけることにした。
魔王はまだ子供だった。先代の魔王は数日前に死に、ジルドとたいして歳の変わらない子供が魔族を率いていた。
震える手を小さな体で隠し、不安で泳ぐ目は伏せることで誤魔化し、虚勢を張って偉そうにする生意気な子供だった。
魔力を使い果たせば死ぬというのに、彼は仲間のためならば躊躇しなかった。呼吸するのもやっとな状態で、彼は言った。
「皆を無事に楽園に連れていき、魔族の安寧をはかる。それが私のすべきことだ。だからお前も、約束を果たせ」
沖合で船を沈没させても、自分の毒で全滅させても良かった。しかし、魔族の未来と責任を背負って懸命に生きる彼を裏切ることなどルーフスにはできなかった。
何が違う? ルーフスは自問する。あの魔王の子供は、ジルドたち人間と何が違う? 彼の中で再び感情が大きく揺れ動いた。
魔族のふりをする生活が始まっても、ルーフスは可能な限りジルドの姿を形を借りて過ごした。自分の住処として与えられた森には、戒めとして力に呑まれた人間の成れの果てを模した木々を作った。
ニグレオスが気まぐれに放つ毒を浄化し、ルーフスは魔族に豊かな大地を与え続けた。それが、自分にできる唯一の贖罪だと思っていた。
ルーフスは最後の魔石をはめ込んだ。三つの魔石が共鳴するように光だし、魔力が液体のように溝を流れていく。石碑の魔術式に魔力が行き渡れば、ニグレオスは解き放たれる。
魔力の光が、ルーフスの顔を緑に染めていた。
長い年月を経て彼の前に現れた人間は、奇妙な少女だった。自分の両頬を引っ叩き、その痛みを感じて喜びに目を輝かせたのだ。
「現実だ! 私、本当に違う世界にいるんだ!」
ここが魔族の国だということも知らない能天気な人間の子供。
守らなくては。ルーフスは決心した。今度こそ、必ず。
「ルーフスさん!」
今度は幻聴ではない少女の声がルーフスの耳に届いた。振り向けば、リコが走ってくるのが見える。
「なぜここにいる! 帰れ!」」
ルーフスは即座に彼女を追い払おうと声を上げた。
少女がなぜこんなにも早く目覚めたのかわからなかった。それにここは、彼女にとって恐ろしい場所のはずだ。
「やっぱり、封印を解くつもりなんですね? 無茶ですよ! 私、止めに――」
リコは言葉を最後まで言わずに固まった。石碑に気づいたらしく、彼女の視線がそちらに向けられる。石碑に刻まれた模様をなぞるように広がっていく魔力の意味を悟ったらしく、彼女は驚愕して石碑に飛びついた。
「ダ、ダメ!」
リコは魔石を取り外そうとするが、指先は滑らかな魔石の表面を滑るばかりでうまくいかない。
「ダメ、ダメ、ダメ! まだ間に合うよね!? これ外せば、止められるよね!?」
リコは誰に言うでもなく叫んだ。
「よせ、早くここから逃げろ!」
腕を引っ張って石碑から引き剥がそうとしたが、乱暴に振り払われる。彼女は一心不乱に魔石をはずそうと奮闘しているが、その間にも魔力の光は根を張るように広がり続け、魔術式は完成に近づいていった。
切迫した状況に追い詰められたせいか、堰を切ったようにリコが声を荒げる。
「逃げてどうすんのよ! アンタは絶対にあれに勝てんの!? アンタが負けたら、私もここに住む魔族も全員が死ぬんだからね! わかってる!? ナターシャさんみたいなすごい魔術師が味方にいるじゃない! なのに一人で暴走して何考えてるのよ!」
「早く、早く屋敷に戻れ」
少しも聞く耳を持ってくれないリコに、ルーフスは焦りを覚える。一刻も早くこの場から離れてほしくて、また腕を掴んだ。説得しようとして出てきた声は、もはや懇願に近かった。
「大丈夫。今度は絶対に守ってみせる。大丈夫だ。だから早く、屋敷に」
石碑の前から一歩も動かないリコから突き飛ばされ、ルーフスはあっけなく後ろによろめいた。
樹木化していく人間たちの姿が脳裏に蘇り、ルーフスは再び人間を失うかもしれない恐怖に涙が溢れる。リコの顔が失った彼らと重なった。すぐ死ぬ運命だとわかっていても、死なせたくなかった。
「大丈夫だ。俺が絶対に守るから。頼む。戻ってくれ」
リコはわずかに意思が揺らいだような表情を見せたが、すぐに決意したように右手を突き出した。
「氷短槍」
周囲の空気が冷え込み、白い空気が渦を巻いたかと思えば、その中から美しい氷の短槍が現れた。リコはそれを素早く掴み取ると、ルーフスに見せつけるように掲げた。彼女は必死に訴えかける。
「よく見て! 私はただの人間じゃない。魔術を使えるの。お願いだから、協力してよ! 私は変わりたいの! ナディアとの約束を果たしたいの! そのためにはまだ時間が必要なのよ」
リコの力にルーフスは恐怖を覚えた。
「そんな力は使うな! 不相応な力はお前の身を滅ぼすことになるぞ」
リコは怒りに顔を歪めた。目をカッと見開いて短槍を振り回す。
「んなこと言っても、もうしょうがないでしょう! 私がこんなとこに来たことも、魔術が使えることも! 何とかする方法が今のアンタにあるの? ないでしょ! それなら、やれることをやるしかないでしょ!」
リコのあまりの豹変ぶりにルーフスは呆然とした。ニグレオスの存在に恐怖して怯えていただけの少女が、今ではどうにかしようと必死に抗っている。その姿が、忘れていたジルドと重なった。
「頼む! 力を貸してくれ! このまま全てを奪われて怯えながら生きるなんてできない! 少しでも望みがあるなら、できることは全部やりたいんだ」
あの強い目の輝きを忘れていた。彼らは最後まで死に物狂いで生きていた。力が抜けていたルーフスの指先がかすかに動いた。
思いっきり怒鳴りつけたリコは石碑に向き直り、氷短槍を大きく振り上げた。
「外せないなら、こんなの――!」
切っ先が魔石に振り下ろされたと同時に、三つの魔石が弾けるように外れ落ちた。間に合ったとルーフスは安堵する。窪みにはめた魔石の下から植物を生やして押し上げたが、うまくいった。
魔石を失った石碑は急速に光を失った。リコは脱力したように槍を持ち上げていた腕を下げた。彼女の手から、氷短槍が霧散する。
ルーフスは背後から近づき、彼女に注意する。
「それは貴重なものだ。無闇に壊すな」
「できるんなら早く止めてくださいよ! 怖かったんですからねっ」
振り返ったリコは咎めるような視線を投げつける。
緊張が解けた二人のもとに、遠くの方から間の抜けた声が聞こえてきた。
「リコちゃーん。どーこにいるんスかー?」
キースの声だった。
「キースさん! こっちですよ!」
リコが声がする方向に声を張り上げると、前方からキースの姿が見えた。キースは魔力の盾で全身を覆い、その中で恐怖に顔を強張らせている。
後ろからでもリコが驚いたのがわかった。魔物たちが敵意を剥き出しにして彼の盾を攻撃しているせいだろう。
ルーフスは落ちた魔石を拾いながら説明してやった。
「不審な魔力に侵入者だと判断されたようだな」
「え!? あ、あの、怪しい人じゃないの。攻撃しないで」
いつの間に仲良くなったのか、リコが頼むと遺跡の魔物たちはキースから離れていった。
「あ、ありがとう。リコちゃん」
「いいえ。探しに来てくれたんですね。ありがとうございます。あの、ナターシャさんは?」
「あの人なら、魔物に襲われるからって外で待ってます」
リコが苦笑する。キースはまだ安心できないらしく盾をはったままだ。
「帰るぞ」
三つの魔石を拾い上げ、ルーフスはリコの横を平然と通り過ぎた。リコが追ってくる気配がしないので、ルーフスは立ち止まって振り返る。
「行くぞ。力を貸して欲しいんだろう?」
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