1−3 知らない世界
足元の草が揺れる。石畳に生い茂った植物が、力が抜けたように次々と魔物たちを解放していた。自由を得た奇妙な生き物たちは青年の言葉を理解したのか、名残惜しそうに二人の前から遠ざかっていく。
魔物を開放し終えた植物は、するすると石垣の間へと身を隠すようにして引っ込んでいった。まるで植物が意思を持っているかのようだ。
青年に声をかけようとして振り返ると、彼はすでに背を向けて歩きはじめていた。リコは慌てて追いかける。
「あの、植物を操れるんですか?」
背中に向かって問いかけたが、白髪の青年は冷たい視線を一瞬向けただけで、何も答えてはくれない。好奇心に駆られたリコは、構わず弾む声で質問を重ねる。
「もしかして魔法ですか? 私にも、できるようになりますか?」
「おまえには無理だ」
「そう……ですか」
前を向いたままの青年に冷たく断言され、落胆した声をもらしてリコは肩を落とした。
ーーもう、あんたには無理だって言ったでしょう。
ーーあんたって子はなんにもできないんだから。
脳裏にいつかの母の言葉が蘇り、どくどくと心拍数があがる。リコは嫌な記憶を追い出すように大きく息を吐き出した。
それからどれくらい歩いたのか、額に汗がにじみ、ふくらはぎの筋肉が悲鳴を上げ始めた。
リコの歩く速度は落ちているはずだが、青年との距離は一定をたもっている。
リコは額の汗を手の甲で拭った。
赤い瞳に白い髪。これまでいた世界ではみたこともない珍しい容姿は、人間よりも妖精だと言われたほうが腑に落ちる。
何度か会話を試みたが、短い返事が返ってくればいいほうだった。しかたなく足元に視線を落として黙々と歩いていると、急に視界がひらけるのを感じた。
顔をあげると、体育館2つ分くらいのだだっぴろい広間が広がっている。両端には大きな円柱が並び、どういう仕組みかその柱の下部が白い輝きを発して幻想的な雰囲気が漂っていた。
リコは息を呑むとともに、全身が金縛りのように硬直した。考えるよりも先に、体が恐怖を感じて震えだし、今すぐにでも立ち去りたい衝動に駆られる。
引きこもりの自分が知っているはずがないのに、見覚えがある。赤い瞳を見たときと同じように、脳内が揺れて気持ち悪さに思考を邪魔される。
「大丈夫か?」
ルーフスの言葉に、ふっと全身の力が抜けて我に返った。目を向けると、先を歩いていた青年がこちらを振り返っている。
咄嗟に、心配をかけまいと強張る顔に無理やり笑顔を貼り付ける。
「大丈夫です。早く、外へ出ましょう」
気のせいだと自分を納得させて、青年に追いつこうと歩調を速める。すると青年の人間離れした赤い瞳にわずかに悲嘆の色が滲んだ。
ほとんど迷惑そうな表情しか見せない青年だが、もしかしたら知らない世界に放り込まれた自分に対して同情や哀れみを抱いているのかもしれない。そうだとしたら、家族から離れることができて安堵しているリコは、少しいたたまれない気持ちになる。
追いついても歩き出そうとしない青年に、リコは遠慮気味に声をかける。
「行きましょう?」
見慣れない赤い瞳に、自分の姿が映っている。青年が危険ではないのは理解しているつもりなのに、その瞳を見るとなぜか背筋に悪寒が走った。
白髪の青年はリコをまっすぐに見つめ、淡々と話し始める。
「わたしは、おまえがどうしてここに現れたのか、原因を突き止めなくてはならない。ゆえに、思い出したことや心当たりがあるなら話せ。それが、おまえが家に帰る方法に繋がるかもしれない」
ルーフスの言葉に、帰ることなど微塵も考えていなかったリコは面食らったように戸惑った。
「えっと、あの、実は私、帰りたいと思ってないんです。あの家、嫌いだったから、ここに来られて嬉しいくらいです」
自分の家が嫌いだなんて、どう思われるだろうか。リコは気まずくなって、話しながら視線をそらせた。
不思議な生き物や魔法のある世界。むしろ、こうなることを望んでいた。家族、学校、家、すべてをなかったことにして、新しく人生をやり直したい。
ここでなら、何か変わるかも知れない。ここに来た意味こそが、自分が生まれた意味、生きる意味なのかもしれない。ここが、自分の居場所なのかもしれない。
青年の反応が気になって、上目遣いにちらりと視線を向ける。すると赤い瞳が怒りに鋭さを増していた。
「何を言っているんだ?」
説明しようと口をひらいたが、頭の中が真っ白で言葉が出なかった。青年が自分の言葉を待っているのに、何も思いつかない。しびれを切らした青年は苛立ったように外套をひるがえし、歩きだしてしまった。
厄介だと見限られてしまうかもしれない。不安が沸き起こり、リコはすがるような思いで彼を追いかける。
ーー原因究明には協力します!
リコがそう言うよりも早く、白髪の青年が先に口をひらいた。
「ここは、おまえのいるべき場所ではない!」
歩みをやめることなく、ルーフスはきっぱりと告げた。背を向けた青年が、どんな気持ちでそれを言ったのか、リコにはわからない。だが彼の言葉は確実にリコの期待を打ち砕いた。
顔がひきつり、リコの歩調はゆっくりと落ちていく。真っ黒な瞳は光を失い、どこまでも底なしのように暗い闇をまとう。
リビングに飾られた姉の残した賞状の数々、姉が帰ってきたときだけ美味しそうなご馳走が並ぶ食卓、姉にだけ向けられる両親の笑顔。かつて自分がいた場所のことを思うと、胸が苦しい。
どこにも、自分の居場所なんてない。
「はっ……はっ……はぁ」
気持ちが悪い。リコはその場にへたり込んだ。体が勝手に大きく息を吸い込む。吸ってはいけない。何度も経験してわかっているのに、体が吸気を繰り返す。弱くて情けない自分に嫌気がさす。
過度な酸素を取り入れた体は、手足が痺れ、思考が鈍っていく。頭が、体が、思考を拒絶している。ルーフスが自分を呼んでいる声がする。応えたいのに、その声は次第に遠ざかり、そのまま意識を手放した。
最後までお読み頂きありがとうございます。
よろしければ、☆〜☆☆☆☆☆で評価頂けたら嬉しいです。