1−27 別れ
リコは差し出された短剣に視線を落とした。
この短剣で傷ついたままうずくまるだけの自分と決別すれば、ナディアに体を譲ることができるということなのだろう。
呆然と眺めているだけのリコの手に、ナディアは決断を迫るように短剣を握らせた。リコの視線が、短剣からもう一人の自分に移る。
両親に認められたくて努力を重ねても、自慢の娘になることはできなかった。生まれたときから期待外れの存在だった。自分は、望まれてもいない、いなくてもいい子だ。
リコは震える足で立ち上がると、自分に近づいた。
食欲がなくなり体重が減っても、夜眠れなくても、笑えなくなっても、それでも必死に普通でいようと学校に通い続けて壊れてしまった哀れな自分。弱くて情けなくて、ずっと大嫌いだった自分が、そこにいる。
手に握った短剣がカタカタと揺れる。リコはうつむき、何度も荒い呼吸を繰り返した後で、短剣を投げ捨てた。
飛び込むように、哀れな自分を抱きしめる。
「ごめん。頑張ったけど、母さんたちの自慢の娘にはなれなかったね。ずっと、苦しかったよね。私が自分を傷つけてたことに気付けなかった。全部自分が悪いからどうしようもないんだって諦めた方が楽だったから。ごめん」
どんなに努力しても姉みたいにはなれないから、自分で自分を否定して、欠陥品の烙印を自分で押した。最初から、自分以外の誰かになるなんてできないのに。
涙があふれて震える唇から嗚咽が漏れる。抱きしめていたものがふっとなくなり、リコは膝をついて涙を拭った。
「自慢できる特技があるわけじゃないし、私なんてどこにでもいる平凡な人間だけど、でもやっぱり、この体は譲れない。あなたのことは本当に気の毒だと……」
ナディアの指先が優しく頬に触れ、リコは言葉を切った。
顔を上げると、ナディアの黒い影がはらはらと剥がれ落ちている。影が剥がれ落ちたその下から、鮮明なナディアの姿が現れる。彼女の角、ドレス、髪の毛の一本に至るまでよく見える。
深い森を思わせるような深緑の瞳がリコを愛おしそうに見つめ、色づきのよい唇が微笑みをたたえていた。
「良かった」
怒ってなんていない。恨んでなんていない。
穏やかなその表情に、リコは言葉を失う。
美しい深緑の瞳が涙で潤み、やがて端からそっと流れ出した。安堵の表情が崩れて悲しそうに顔が歪む。
「ごめんなさい。あなたを巻き込むつもりなんてなかったの。私は取り返しのつかないことをしてしまった。こんな謝罪が何の慰めにもならないのはわかっているけれど、ごめんなさい」
熱くこみ上げてくる感情に、リコはナディアをそっと抱きしめた。
「わかってるよ。守りたかったんだよね? 大丈夫。わかってるから」
ナディアだってたくさん傷ついたでしょ。失ったでしょ。わかってるよ。
本当は言葉にして伝えたいのに、気持ちが溢れて出てこなかった。
大蛇を前にしても毅然とした態度だったナディアが、泣いている。すべてを奪われ、傷ついているはずの彼女が、自分のことを心配して後悔している。
最初から体を奪うつもりなんてないのに、嘘をついてここまで連れてきてくれた。
ここで踏み出さなければ、一生変われないとリコは自分に言い聞かせる。
抱きしめていたナディアから少しだけ体を離し、気持ちを落ち着かせようと深呼吸する。
伝えないといけない。
「ナディア。大丈夫だよ。ニグレオスは私がなんとかするから」
もっと頼もしく堂々と言いたいのに、声が震えてしまう。上手に笑えているのか自信もない。
ナディアは目を丸くした。安心して欲しくて、リコはもっと口角を上げる。
「だから、大丈夫」
これ以上、彼女が泣く必要はない。後悔する必要もない。
「ありがとう」
ナディアは瞳に涙を湛えたままにっこりと笑うと消えていった。
◇ ◇ ◇
薄く透明になっていくナディアに手を伸ばして捕まえようしたはずなのに、リコはベッドの上で目が覚めた。
十字の格子窓から日がしている。
「夢……」
呟いたのと同時に、ドアが開く音がした。振り返ると、食事を手にしたルーフスが立っていた。何かを察したのか、わずかに目を見開いている。
リコはルーフスに体を向き直した。
「私をナターシャ様に会わせてください」
「何があった?」
ルーフスは食事のトレイをベッドの上に置き、リコの顔を覗き込む。心配しているような驚いているような彼の様子に、リコはこれまでの行動を反省して口をひらいた。
「たくさん、ご迷惑をおかけしました。八つ当たりしたことも、本当にごめんなさい。私、やっとやりたいことが見つかったんです」
「体調はもういいのか?」
痛みもめまいもない。ナディアのおかげだろうと思いながら、リコは頷く。
「もう何ともないです。なので、ナターシャ様に会いたいんです」
「何のために?」
リコは息を呑んだ。心配していると思っていた青年の顔をよく見れば、やつれて顔色が悪くなっている。瞳孔も開ききっていて様子が変だ。体が危険を察知して緊張が走る。
「力になりたいと思って」
「人間のお前に何ができる!?」
怒鳴ると同時にルーフスの瞳孔が蛇の目のようにカッと縦長になり、肌の一部も白い鱗に変化した。怯えながらも、リコは声を上げる。
「私は魔術が使えるし、何か役に立てるかもしれません」
ミシミシと何かが軋むような音が響き、急に部屋が暗くなった。驚いて窓を振り返ると、窓に木の根が這い、日光を遮っている。
「え?」
「外は危険だ」
腕をつかまれ、リコは抵抗する。
「ルーフスさん、やめて! 話を聞いて!」
説得する時間すら与えてもらえず、リコの腕に痛みが走った。
体から力が抜け、崩れ落ちそうになる体をルーフスに支えられる。降りてくる瞼に必死で対抗していると、ルーフスの声が聞こえた。
「大丈夫。お前のことは守る」
優しく髪を撫でられ、リコは眠りに落ちるしかなかった。




