1−26 決断の時
リコは一人で住宅街の道路を歩いていた。視界は涙でぼやけている。下唇を噛んで声を我慢しようと耐えているのに、それでも時折嗚咽が漏れた。
いくら歩いても知らない場所で、目的の場所にはたどり着けない。もう二度と家に帰ることも姉に会うこともできないのではないかという不安で、心はぐちゃぐちゃだった。
「リコ!」
後ろから聞き覚えのある声に呼ばれて振り返ると、ランドセルを揺らしながら走ってくる姉の姿があった。その姿を見て、リコははたと思い出す。
これはあの日だ。小学一年生のとき、一人ぼっちで家にいるのが耐えられず、姉を学校まで迎えに行こうとして迷子になったあの日。
帰宅して自分がいないことに驚いたのであろう姉が探しに来てくれたあの日。
どうして今さら思い出すのか。リコの胸はざわめいた。
「もう! 探したんだからね!」
怒鳴っているのに姉はいまにも泣きそうな顔をしていて、張り詰めていた緊張が溶けて声をあげて泣いた。
強く抱きしめられ、頭をなでられる。
「勝手にいなくなったら心配するでしょう。ほら、泣かないで。もう大丈夫だから」
泣き止まないリコに、姉は何度も言ってくれる。
「大丈夫だから」
ここには、もう迎えに来てくれる人はいないというのに。
まるで海の波に砂の城が一瞬でさらわれるように、住宅街の光景も姉の姿も消えて無だけが広がる。
孤独と喪失感の中で声がした。うまく聞き取れず、声の主を探す。
「代わって」
今度ははっきりと聞こえたその声に、リコははっとした。
目の前に真っ黒な影があった。長くうねった髪とドレスのような服のシルエットから女性だろうと判断できたが、人間の形によく似たその影には頭から二本の角が伸びている。
影は目も鼻の形もない顔をリコに近づけた。
「死ぬまで屋敷に閉じこもっているだけの人生なら、私と代わってちょうだい」
黒い手がリコの腕をつかみ、リコは驚きと恐怖で目を丸くした。
「ナディア……なの?」
そんな姿でも、声で彼女だとわかる。
「正確には、魔術式に刻まれたナディアの記憶よ」
リコの腕をつかむ手にぐっと力がこめられるが、ナディアはすぐに力を弱めた。落ち着いた穏やかな声で、彼女は続ける。
「提案があって来たの。私とあなた、ふたつの記憶で脳が混乱しているのなら、どちらか一人になれば、この不調も終わると思うの。そこで、この体を私に譲ってくれない?」
ナディアの手が、リコの頬に優しく触れる。
考えるまでもなく、そうするべきだ。リコは真っ黒な彼女の顔を見つめ返す。意味もなく惰性のように生きているだけならば、彼女に譲ったほうがいいに決まっている。
頷くだけでいい。それで、全てが丸く収まる。
自分の人生になんの意味がある?
そう思っているのに、体が動かなかった。
「ねぇ、いらないんでしょう? ずっと、終わらせたいと思ってきたんでしょう?」
急かすようにナディアは質問を重ねる。しかしそれでも答えないリコに嫌気が指したのか、彼女はぱっとリコの頬から手を離すと冷たい声色で言った。
「嘘つき」
リコは金縛りがとけたように首を横にふり、ようやく声を絞り出した。
「嘘じゃない! 私よりも、あなたがふさわしいって思ってる。何にもないわたしよりも……」
気づけば、涙が頬の上を流れていた。言葉にすると、胸が張り裂けそうな痛みを感じた。何もない。誰にも望まれていない。リコは震える声で続ける。
「あなたは私よりもずっと勇敢で、かっこよくて、誰かのために頑張れるから、私よりも、あなたのほうが……」
「嘘つき」
どこか寂しげで悲しそうなナディアの声を最後に、世界がぐるんとまわって乗り物酔いをしたときのように気持ち悪かった。
気がついたときには、ナディアは消えていた。
呆れて、消えてしまったのだろうか。
真っ暗闇の中に、リコは一人立っていた。
「ナディア? いるんでしょう?」
ナディアを探そうと歩きだして呼びかけるが、返事はない。さっきはどうしてナディアに答えられなかったのか、自分でもわからなかった。ただ死に恐怖して眠り続けるくらいなら、同族を救いたいと願う彼女に体を譲るべきだった。それが、間違いなく正解だった。
さまよい歩くリコの元に、女の子のすすり泣く声が聞こえてきた。その声を目指してリコの歩調ははやくなる。
「何の取り柄もないつまらない人間」
「お姉ちゃんは何でもできるのに、どうしてあなたはできないの?」
聞き慣れた声がして、リコは凍りついたように足を止めた。
そこにナディアはいなかった。
前方に複数の背中が見えている。その隙間から、しゃがみ込んで身を守るように手で頭を抱えている子が見える。泣いていたのは、あの子だ。
彼女の周囲に立つ者たちから言葉が降り注ぐ。
「欠陥品」
「誰もあんたのことなんて見てない」
「生きてる価値なんてない」
「生まれたときから、みんなをがっかりさせたのよ」
鋭い刃物のような、もしくは岩を砕く鈍器のような言葉に、砂の城のように脆い心が壊されていく。その痛みを知っているリコは、こみ上げてくる衝動のままに飛び出した。
うずくまる子をかばうように抱きしめて声をあげる。
「なんて酷いことを言うんですか!」
罵っていた人たちの顔を睨みつけた瞬間、リコの体から力が抜けた。リコが見上げた先には、自分と同じ顔があった。
すすり泣く声がぱたりと止み、耳元で声がする。
「自分、でしょ?」
振り向くと、うずくまっていた女の子が顔をあげた。うずくまっていた女の子もまたリコだった。黒い瞳は光を失い、絶望の色が浮かんでいる。
「私は価値がないの? 誰からも必要とされないの?」
詰められるように質問され、リコは尻もちをついて後ずさった。背中が何かにぶつかり、声が降ってくる。
「弱い自分が、嫌いなんでしょう?」
背後に、ナディアが立っていた。彼女は屈んで目線を合わせると、黒い短剣をこちらに差し出した。
「いい加減、終わりにしたらどう?」
リコはその短剣に視線を落としたまま、固まった。
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