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1−23 混乱


 黒髪の少女が、広いベッドの上で昏々と眠っている。日は高く、部屋にはたっぷりの日差しが降りそそいでいるが、少女が起きる気配はまだない。


 そこにノックもなしに部屋の扉が開けられ、年老いた魔族の男が入ってきた。


 すらりと背が高く、室内だというのに黒い外套を羽織っている。歳は軽く七十を超えているだろう。髪は真っ白で、シワだらけの顔には長い年月を重ねた貫禄や渋みがある。しかし、伸びた背筋や動作からは少しも衰えというものを感じさせない男だった。


 無表情で近寄り難い雰囲気もさることながら、特徴的なのは透き通った赤い瞳だ。


 男がベッドの縁に腰を下ろし、少女の安定した呼吸を確認していると、少女の瞼が動いた。


「セ……ドラ?」


 ゆっくりと瞼を持ち上げ、少女は焦点も合わないうちから乾いた声で誰かの名を呼んだ。


 さまよっていた少女の視線が赤い瞳の魔族の顔に行き着くと、たちまち真っ黒な瞳が大きく見開かれ、一瞬だけ息を呑んだ後で、飛びつくようにして男の腕にすがりついた。


「助けてください! 赤の魔術師さま!」


 緊迫した様子で少女は懇願する。


「不浄の魔物が、魔族の核を奪って力を蓄えているのです! このままでは、いずれ封印は解かれ、国が滅んでしまいます!」


 少女が必死で訴えているのに、老父は表情を微動だにせず、少女をただじっと見下ろしていた。少女は戸惑ったように押し黙った後で、なにかに気付いたように慌ててベッドから降りて深く頭を下げた。


「申し訳ございませんっ! 私は、ナディア=エレファウストと申します。お目にかかれて光栄に存じます。不浄の魔物から助けてくださった……のですよね? まだ頭が混乱しているようで……申し訳ございません。命を救って頂き、心から感謝申し上げます」


「そうか」


 関心がなさそうな相槌しか返ってこず、少女は違和感を感じ取った。大事な何かを忘れているような気がするが、思い出せない。


 考え込んでいると、扉がノックされた。赤い瞳の男が返事をすると、扉が開いた。


 最初に食べ物をのせたサービスワゴンが顔を出し、ついでそれを押す二十代半ばほどの魔族の男が姿を現した。


 ワゴンを押すには不相応な、貴族が正式な場で着用する豪奢なジェケットに身を包み、黄金を溶かしたような色の髪は、両サイドを刈り上げている。精悍な顔立ちをしているが、その表情は柔らかく緊張感はない。


 黒髪の少女は思わず男の首筋を凝視する。最初は影なのかと思ったが、耳の後ろから首筋の皮膚が赤黒く変色している。なにかの病気か、もしくは傷跡なのかもしれない。


 身なりから高貴な身分であることは間違いないが、男は少女を見るなり、これまた貴族に似つかわしくない人懐っこい笑みを浮かべた。


「起きたんですね、リコちゃん」


「え?」


「え?」


 少女の驚愕の表情に、ワゴンを押す男も思わず固まって聞き返してしまう。数秒おいて、少女は頭を抱えて叫んだ。


「あ……あぁぁ……ああああああ!」


 男は驚きながらも素早い身のこなしで赤い瞳の老夫を背中にかばうようにして混乱する少女の間に割って入った。


「オレ、なんかまずいこと言いました!?」


 少女から視線を動かさず、男は確認する。


「どけ、キース」


 赤い瞳の男は答えず、背後から肩をつかむ。


「この娘、魔術使うンすよね? 暴走でもしたら大変ッすよ!」


「邪魔だ」


 怒りのこもった声に、キースと呼ばれた男は警戒したまま渋々下がった。


 黒髪の少女はどこか一点を見つめて、荒い呼吸を繰り返している。落ち着いたのを見計らって、赤い瞳の男は静かに声をかけた。


「リコという名に聞き覚えはあるか?」


 少女は顔を上げ、警戒と怯えの混じった視線を男に向ける。


「それは、私の名前です。あなたは誰ですか? (人間)を助けてくれたんですか?」


 少女が取り乱しても動じなかったシワだらけの顔が、少しだけ和らいだように見えた。そして何の前触れもなく、老体が一瞬で若返り、額から角が消えた。


 リコは見覚えのあるその姿に、こぼれんばかりに目を見開いて驚いた。


 白髪に、赤い瞳。無愛想な表情で彼は名乗る。


「わたしはルーフス。魔物の番人をしている者だ」


◇ ◇ ◇


 リコはふかふかのソファの上で、居心地が悪そうに視線を動かした。


 ルーフスは青年の姿のままリコの隣に深く腰掛け、キースはベテランウェイターのように両腕いっぱいにもった皿をテーブルに並べていく。


「オレはキースといいます! イーストンの代理統治者をしてるッス!」


 手際よく並べながら、キースはリコに爽やかに微笑んだ。


 リコはその笑顔にぎこちない笑みを返しながら、ナディアの記憶をたぐりよせる。


 自分たちの国土を手に入れた魔族の王は、ともに戦った四人の救世主にそれぞれ領地を与え、赤の魔術師は東の地(イーストン)を任された。しかし、魔物封印の勤めがあるため、彼が表舞台に出ることはなく、その領地は代々彼から選ばれた代理統治者がおさめている。


 つまり、目の前の威厳の欠片もない男は、貴族の中でもトップクラスの権力者なのだ。


「はじめまして。リコといいます」


 うわずった声で名乗り、リコは二人に交互に視線を向けた。


 魔族の中で赤瞳をもつ者は、神に最も愛された赤の魔術師しかいない。魔物の番人という言葉からも、彼が魔族の救世主の中心人物の一人、赤の魔術師なのだろう。だが、彼からは魔力を感じない。


 この世界において、魔力もないのに特別な力を持つ存在は、人間に味方をした邪神だけである。つまり、人間に力を与えた邪神が、魔族のふりをして英雄として讃えられているということになる。


 情報を並べても理解が追いつかず、思考が複雑に絡まった糸のように混乱する。リコは悩んだ末に根本にある不安を拭い去ろうと口をひらいた。


「私のこと、助けてくれたんですよね?」


 拘束もされずにベッドの上で寝かされ、朝食まで用意されている。彼らが自分に危害を加えるつもりがないように思えるが、確認せずにはいられなかった。


「だから、屋敷にから出るなといったんだ」


 ソファの背もたれによりかかり、ルーフスが盛大なため息を吐き出した。


「すみません。まさか人間の国ではないなんて思わなくて……」


 最初からそう説明してくれれば良かったのに。そんな言葉をぐっと飲み込み、リコは謝罪する。


「魔族の国だと説明したら、おとなしく屋敷にいたとでもいうのか?」


 言葉の意図を敏感に汲み取ったルーフスに、リコは口をつぐんだ。


 青年が最初からすべてを話してくれていても、自分を屋敷から出さないための嘘だと疑ったかもしれない。


「あ、あの、それよりも」とリコは無理やり話題を変えて、助けを求めるようにキースに目をやった。


「それよりも、どうして私を助けてくれたんですか? 魔族にとって、人間は敵ですよね?」


「確かに、人間は魔族にとって敵ッス。でも、これはルーフス様を守るためでもありますから」


 意味が理解できずにきょとんとするリコに、キースは続ける。


「魔族の国は海に囲まれ、人間の住む大陸から遠く離れています。しかも、魔術師たちの幻影魔術によって隠されてますから、稀に難破船が海岸に打ち上がることがあっても、無傷の人間が森のど真ん中で見つかるなんてこと、まずないんスよ。だからあのまま捕まっていれば、どこからどうやって来たのか徹底的に調べられたでしょう。そこで、ルーフス様のことを喋られたら困るんスよ」


 これまでの社交的な雰囲気がかき消え、キースの瞳に鋭い光が宿る。


 当然だ。いくら赤の魔術師といえど、人間を匿っていたとなると、魔族の反感を買い、その立場すら危うくなるだろう。


 リコの喉がごくりとなった。


「つまり、私が秘密をもらさないために……」


 不安が大きく膨らんだ。彼らにとって、自分は危険要因でしかない。しかも、言いつけを破って屋敷を抜け出したのだから、このまま処分されてもおかしくない。


 急に目の前の朝食が最後の食事に思えて、あったはずの食欲が失せていく。


 ところが、返ってきたのは弾ける笑顔と元気な肯定の声だった。


「はい! ルーフス様に関する情報が漏れないように、俺らで救出しました。いやーうまくいってよかったッス! リコちゃんは魔族の生まれ変わりなんでしょう? 大変でしたね。でも、もう大丈夫ですから安心してください。リコちゃんのことは、オレらで守るッス」


 呆気にとられながらも、リコはどうして彼らが前世の話を知っているのかが気にかかった。ルーフスは魔力にすら気づいていなかったはずだ。


 リコが疑問を口にしようとしたとき、不自然に葉がゆれる音がした。ここは室内で、風などない。不思議に思って音源を探すと、キースの背後にある観葉植物が、風もないのに揺れていた。


 揺れは次第に激しくなり、キースの座る隣に植物の枝葉が伸びてきた。


 リコは驚きのあまり短い悲鳴を上げてソファの上で身を小さくしたが、あとの二人は慣れた様子でただ見守っているだけだ。


 枝葉はみるみるうちにソファに座る魔族の女性を形作っていく。唇も鼻も表現されているのに目元だけは葉で覆い隠され、美しく華奢な容姿は先日会ったばかりの女性魔術師にそっくりだ。


「こほん、あー、あー、私の声、聞こえていますでしょうか?」


 まるでマイクを試すかのように咳払いをして、ナターシャにそっくりな顔がにっこりと微笑んだ。

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