1−22 絶望
月明かりに照らされた絨毯の上に、涙の雫がいくつもこぼれ落ちた。
リコは腕輪に視線を落とした。これまでとは違い、この腕輪から魔力を取り込んだことでナディアの記憶が完全なものとなった。だからこそわかる。腕輪にはめ込まれた魔石から感じる気配は、間違いなくナディアのものだ。
どうしてそんなものが城にあるのかはわからない。
リコはどうにか涙を拭い、頭の中を整理した。
自分は不浄の魔物が魔族の核を喰らって力を取り戻していることを知り、死を目前に〈輪廻転生の刻印〉を試みた。自分の核を魔物から守るため、そして記憶を持ったまま生まれ変わり、魔族の危機を外に知らせるために。
しかしその結果、ナディアは魔族ではなく人間にーーそれも別世界で人間に生まれ変わってしまった。
その影響か、記憶は完全な形で受け継がれず、普通の人間として生きてきたが、この世界で魔力を取り込んで魔術式が発動したということは、不完全ながら魂にはナディアの魔術式が刻み込まれているということになる。
悪寒がリコの背筋を駆け抜ける。
ニグレオスは魂に残ったナディアの痕跡から自分にたどり着いたのかもしれない。
リコは自分の両肩を抱きしめた。
特別な存在だから、必要とされて、ここに来たのだと思っていた。
召喚者である男の子は、リコを見つけて本当に喜んでいた。そこに愛があるのではないかと思うほどに、慈しむように愛おしそうに。
ーーやっと見つけた。
リコはその声を追い出そうと頭を横にふった。
何度思い返しても、召喚者の声はナディアを追い詰めた魔物の声とよく似ている。
呼吸が乱れ、苦しくて胸に手をあてれば、心臓の鼓動が手のひらを押し返した。
二グレオスがリコをこの世界に召喚したのだとすれば、その目的はナディアの心臓に他ならない。
しかし、人間のリコには魔力を生産する臓器はない。
「あ……ああ……」
悲痛な声が、震える唇からもれる。
頭に、両親のように落胆する二グレオスの顔が浮かぶ。
「そんな……」
どうして自分が召喚者に会えないのか、その答えにたどり着いた気がして、リコは膝から崩れ落ちた。
捨てられた。
ナディアの核を狙っていた二グレオスは、リコに残る彼女の気配を感じ取って召喚した。しかし、現れたのは核を持たない人間だった。
捨てられた。
だから、誰もいない場所で目が覚めた。誰も迎えに来ないのは、誰も探してないから。誰にも、必要とされていないから。
カチャっとドアノブを回し押し開くような音に、リコは顔を上げる。誰かが隣の部屋に入ってきた気配に、急激に現実に引き戻された。
急いで視線を巡らせる。窓ははめ殺し、扉は隣の部屋に通じるものしかない。ベッドの下にもぐりこもうと身を屈めたが、縁が邪魔で肩でつっかえてしまう。どんなにねじこんでも入らず、追い詰められたリコは、寝室の扉を凝視したまま後退りした。
息を殺していると、こちらに向かってくるわずかな足音を耳が拾ったコツ、コツ、コツ、と迫る音に、心臓が飛び出るかと思うほど強く脈打った。
コツ、コツ、コツ、コツ、コツ。その時、隣の部屋でノックの音がしたかと思うと、足音が一瞬やみ、今度は遠ざかっていった。
来客なのか、内容までは分からないが、二人の女性が話す声がする。すがるような思いでもう一度部屋を見渡せば、壁にかかったタペストリーのユニコーンと目があった。
見覚えのあるタペストリーに、リコはよろめきながら立ち上がる。ユニコーンと魔族の女性が描かれたタペストリーだ。
夜中、ベッドに寝かせた途端に泣き出すレリアナを抱え、途方に暮れてそのユニコーンを眺めていた。王族に嫁いだ夫の祖母により、特別に城に招かれ、産前産後を過ごしたときのことだ。
思い出したリコは、飛びつくようにタペストリーに向かった。
王族が過ごす部屋には、万が一に備えて緊急用の避難経路がある。この部屋の場合は、ユニコーンのタペストリーの下の壁にーー。
タペストリーをめくり、ただの壁を両手で必死に探ると、引手のようなへこみがあった。指に力を入れると、壁がかたんと小さな音をたてて動き出した。
◇ ◇ ◇
壁の奥に通路が現れた。通路は狭く真っ暗だったが、リコが足を踏み出すと足元の石が淡く光りだした。ナディアの記憶によれば、この道は国が管理する森に出るはずだ。
薄暗い道を音を立てないように注意しながら走った。しばらく進んで追手が来ていないことを確信すると、足早だったリコの足も、次第に速度を落としていった。急いでここを出たところで、頼れる人もなく、行く宛もない。
黙々と歩き続け、天井からたれた蔦に頭をなでられて顔を上げれば、道の先に植物に覆われた出口が見えた。かすかな光がさす出口を目にした途端、不安が大きく膨れ上がる。寝る場所はどうする? 食べるものは? これから先、魔族に怯えながらどうやって生きろというのか。
人間は魔族にとって敵である。その人間が前世が魔族だと正面から説明しても、真剣に聞いてもらえるわけがない。
重くのしかかる不安は怒りに変わり、その矛先はナディアに向けられた。すべて、彼女のせいだ。彼女のせいで、こんな世界に召喚されてしまった! 彼女があんな魔術さえ使わなければ、自分が狙われることはなかった! 彼女のせいで! 彼女のっ!
立ち止まることなく、リコは進んだ。
ナディアに怒りをぶつけるたびに、リコは自分の胸が締め付けられた。彼女が失ったもの、守りたかったもの、どうしようもなかったことは充分わかっている。
ようやく外に出ると、目の前には木々が広がっていた。頭上の満月に照らされ、夜なのに明るい。
リコが出てくるのを見計らったように、木々の影から黒い外套を目深にかぶった人物が前に進み出てきた。
はらってもはらっても、不運が自分につきまとってくるようで、リコは腹立たしさに顔をしかめた。
「あなたはなんなの?」
風に外套がはためき、目深に被っていたフードが後方へとずれ落ちる。月光の下にさらされた白い髪は、輝いているようにも見えた。感情の読めない赤い瞳が、じっとこちらを見据えている。
「ここは、おまえのいるべき場所ではないと言ったはずだ」
魔力の気配がないので、魔族でも魔物でもない。ましてや、この青年が人間であるはずがない。
そのとき、ニグレオスの言葉がリコの脳裏をよぎった。
「人間では到底太刀打ちできない強大な力を持つ生き物だよ」
いた。この世界には、魔物でも魔族でも、人間でもない生き物が。
「もしかして、邪神なの?」
気づけば、青年が手を伸ばせば届く距離にいた。
リコは魅入られたように彼の赤い瞳を見上げる。透き通った綺麗な赤い瞳に、自分が映っている。
青年は、宝石のような瞳を悲しそうに細めた。
「最初から、こうしておけばよかった」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
青年の肩が、リコの顎の下にある。体の前後を何かに挟まれ、体は圧迫されている。横目に映るのは、彼のうなじにかかる白髪。抱きしめられているのだと理解するのと同時に、首筋に鋭い痛みが走った。
「いっ!」
突然の痛みに顔を歪めて声をあげ、リコは乱暴にルーフスの体を突き飛ばした。
反射的に噛まれた首筋に手をあてると、手のひらにわずかに血がついていた。
噛まれたのだとすぐに理解する。
青年が再び近づいてくる気配にリコは全身に力を入れて警戒するが、体がふらついてまともに立っていられなかった。
ルーフスは予期していたかのように、崩れ落ちかけたリコの体を支えた。
体に力が入らず、ただただ体を預けるしかない。思考がぼやけて、瞼が重い。必死の抵抗も虚しく、リコの意識はそこで途絶えた。
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