1−20 脱出
指輪の魔力を取り込むと景色が一瞬で変わり、大きなテーブルの片隅に座っていた。視界の端には隙間なく本が詰め込まれた背の棚がいくつも映り込んでいる。
視線は手元の本の文字に向けられ、自分の指がページをめくる音だけが聞こえる。
リコはナディアの記憶の中にいた。
彼女の指が淡々とページをめくっていると、向かい側から古めかしい本が視界に割り込んできた。顔を上げると、魔族がいた。
ナディアの記憶ではいつも黒い靄になって見えなかった頭が、初めてはっきりと見えた。歳は二十代半ば、眼鏡をかけた細身の男だ。魔族の特徴である角は額から真っ直ぐに伸び、赤みを帯びたブラウンの髪を首の後ろで一つにまとめている。
リコの心臓は恐怖で飛び跳ねたが、魔族の男は穏やかな表情で、その切れ長の瞳からは知的さと優しさが滲み出ていた。
リコの意思に反して顔の筋肉が緩み、ナディアが微笑んだのがわかる。
眼鏡の男が向かいの椅子に座るよりも先に、ナディアは興奮した様子で差し出された本を手に取った。魔術師しか閲覧が許可されない、貴重な本らしい。
貪るように速読していたナディアの顔色が次第に険しくなり、眉間にシワを寄せたまま、彼女は顔を上げた。
「これは、人間との争いで生まれた魔術ですね? 生きたままの生物から意思のない戦士を生み出す魔術など非道極まりません。なぜ今は使われいない魔術を私に見せるのですか?」
「あなたには、この国の闇を含めてすべてを知っていてほしいからですよ。それに、若いときに様々な知識を頭に入れておくことは重要です。いつどこで、何が役に立つかわかりませんからね」
ナディアは不満そうにページをめくる。今では誰も見抜きもしない忌まわしい魔術ばかりが並んでいる。死体を利用して人間に化ける〈屍装束〉などどこで使うというのか。そのおぞましい発想に、ナディアは顔を歪める。
不機嫌なナディアの視線が、とある文字でぴたりと止まった。一呼吸おいて、彼女はくたびれた本の向きをくるりと変えて、その文字を指さした。
〈輪廻転生の刻印〉
ナディアは驚いて興奮した様子で、早口でまくしたてる。
「こ、この魔術は魔力を核に集めて破壊するとありますが、実証されているのですか? 核とは魔力を作り出す心の臓、つまり自害するということですよね?」
「肉体が朽ちた後、魂に新たな肉体が与えられる転生説をもとにした魔術ですね。古い文献には、実際に魔術を使って生まれ変わったのだと名乗り出た者の記載があるのですが、残念ながらそれ以上の情報が残っておらず、現在では使うことが禁じられています。もしこの魔術が本当に実行可能だとすれば、繰り返すことで永遠の命を手に入れたといっても過言ではないでしょう。しかし、そのように記憶を持ち続けることに、肉体や脳が耐えられるのでしょうか。私としては……」
「実行した者がいるのですか……」
眼鏡の男がつらつらと己の見解を並べ立てるのを巧みに聞き流し、ナディアはうろたえながらも本を読み進めていく。
男の言葉の影響か、今度は〈不老不死〉の魔術に目がとまる。これは魔力による肉体の保存方法だ。絶えず魔力を必要とし、保存されている間は被術者は昏睡状態であることから、実際に使われることはまずない。
「壮大なわりに、使い所がないものばかりですね……」呆れて呟いた後で、ナディアは何かを探すようにページをペラペラとめくっていった。「赤の魔術師さまは本物の〈不老不死〉を完成させているのですよね? ここには記されていないのですか?」
魔族の寿命が100年程度なのに対し、赤の魔術師は300年を超えて生き続けている。最も神に愛されたあのお方は、永遠の命を手にしているはずだ。その魔術式とはいったいどんなものなのか、ナディアの心臓は高鳴った。
しかし、その本にはそれらしい記述はなかった。
ナディアは視線をあげた。
光の加減のせいか、眼鏡の奥にある男の瞳がどんよりと陰りを帯びたように見えた。寸刻前まで楽しそうに話していた落差に、ナディアは不思議そうに首をかしげる。
怒っているようにも寂しそうにも見える男は、どこか遠くを見ているようだった。
「彼が本当に生きているのだとすれば、神に愛されたお方は常識を超えていますね」
「え?」
聞き返して瞬きをした瞬間、地下牢に戻っていた。
魔力は回復している。
リコの中に小さな希望が宿った。自分を呼び出した召喚者であれば、人間であろうと力を貸してくれるかもしれない。どうやって探せばいいのか見当もつかないが、リコはすべての不安を押し込めて、ここから逃げることだけに集中した。
「気配抹消、身体強化、感覚強化」
牢屋の中には見張りはいない。リコは指先に魔力を集め、手枷に狙いを定めた。
「爆破、爆破、爆破」
加減を誤れば自らの手首を吹き飛ばす恐れがあるため、小さな衝撃を何度も加えて破壊する。手枷が音を立てて床に落ちると、今度は鉄格子の鍵の部分に両手をかざした。
「爆破」
鉄格子の扉が力なくひらき、リコは檻の外に出た。
先ほど魔族たちが帰っていった方向へと歩くと、出口と思しき扉が見えてきた。扉の向こう側に二つの魔力の気配がある。
扉の前に立つと、彼らの不服そうな声が漏れてきた。
「人間ひとりのために、こんな遅くまで残ることになっちまって、ホントについてねーなあ。もう少し到着が遅けりゃ、帰れたっつーのに……」
「まったくだ。だいたい、邪神から加護も受けていない人間のガキに、見張りなんて必要ないだろう。ああ、早く帰りたい」
外にいる魔族は2人。いきなり扉越しに不意打ち攻撃しても、仕留めそこねたり、声を出されたりしたら騒ぎになってしまう。
必死で考えていると、外で女性の悲鳴が響き渡った。
愚痴をこぼしていた見張りたちが「大丈夫ですか!?」「どうしましたか!?」と驚きの声を上げ、走り出した足音は次第に小さく遠のいていった。
今ならば、誰もいない。リコは扉を少しだけ開けて外の様子を確認すると、いっきに体を滑り込ませた。
見張りたちが駆けていく先に、誰かが倒れているのが見えた。月明かりに白い服が照らされているのを一瞥すると、月光の届かない茂みに身を隠した。
『助けて』
安堵したのも束の間、頭にナディアの声が響いた。
一刻も早くこの場から逃げたいのに、彼女は城の中から呼んでいる。
『助けて』
その声は何度もリコに呼びかけた。屋敷のときよりも鮮明で、呼ばれるたびに何かを思い出しそうな感覚が残る。
『助けて』
リコはナディアの声に抗えず、自ら城内に足を踏み入れた。廊下を歩いてすぐに拘束されたはずだが、リコには城内の景色に見覚えがあった。おぼろげだが、おおまかな地図が頭にあるようだ。
魔力を取り込むごとに、ナディアの記憶を確実に取り戻している。
リコの心臓は強く鼓動した。自分の前世がナディアならば、彼女はすでに死んでいるはずなのだが、進む道の先に彼女がいるようなそんな気がしてならなかった。
魔力を感じ取れるおかげで、リコは魔族の気配を避けながら見つかることなく進むことができた。
魔力を感じるたびに道を迂回し、気配がなくなるのを待ち、やがてリコの足は両開きの大きな扉の前で止まる。
静かに扉をあけると、そこは豪奢な作りの部屋が広がっていた。床には複雑な模様の絨毯が敷かれ、大きなソファに挟まれているガラスのテーブルは芸術品のようだ。
美術館のように絵画や調度品が並ぶ室内は静まり返り、窓からは月明かりがさしていた。
『助けて』
ナディアの声は奥の扉から聞こえる。
おずおずと扉を開いて奥の部屋に進むと、そこは寝室だった。正面の壁には左右に魔族の男性と女性の肖像画が、天蓋付きの大きなベッドを挟むようにして飾られている。ベッドの隣には、枕元にユニコーンのメリーがかけられた可愛らしいベビーベットが寄り添うように置かれ、壁には繊細に織り込まれたタペストリーが所狭しと並んでいる。
その寝室を見ただけで、リコの胸は締め付けられる痛みを発した。
頭の中で、自分の知らない記憶がちらつく。
『助けて』
体の異変を不思議に思いながらも、リコは声の導くままに窓際のチェストに手をかけた。上から二段目の引き出しをあけると、見たこともない大きさの宝石があしらわれたジュエリーが並べられている。その中で、1つだけ異質なものがあった。
「あなたが、呼んでいるの?」
リコはまっすぐに1つの腕輪に問いかけた。銀色の幅のある腕輪に大小大きさの違う魔石が4つ埋め込まれている。他より質素で、格式ばらないくだけたデザインである。懐かしいような、やっと会えたような、不思議な魔力の気配がする。
『助けて』
リコはゆっくりとその腕輪に手を伸ばした。
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