1−2 目覚め
深い眠りのなかで、リコは女の人が謝る声を聞いた気がした。
重い瞼を持ち上げ、黒く淀んだ瞳で石造りの天井を見上げる。壁に設置された灯りは、温かな色味で控えめに周囲を照らしている。
明らかに自分の部屋ではない光景に、リコは疑問を抱いた。
体は泥のように重くて、すぐに起き上がる気にはなれない。ぼんやりとした思考の中で、一つの結論に至る。
死んだ?
不眠症はひどくなるばかりで、ここ数日は処方された何倍もの錠剤に手を出していた。翌日、思考力の低下とひどい倦怠感に襲われるが、死ねるとは思っていなかった。だが、ついに死ねたのかもしれない。苦しむことなくあっけなく。そう考えると、心が軽くなった。
指先をかすかに動かすと、ざらついた石の感触がある。まだ肉体と意識があることを不思議に思いながら視線を動かすと、真っ黒な短い毛が無数に生えた細長い脚が視界に飛び込んできた。
寝ぼけたままの目を動かしてその先をたどると、黒い瞳にたちまち驚きと恐怖の色が浮かぶ。乏しい明かりの中で見えたのは、蜘蛛の脚だった。
丸々とした黒い胴体は猫ほどの大きさがあり、緑色の目玉が二列に八つ並んでいる。あまりの大きさとおぞましさに瞬時に上半身を起こして後ずさるが、背中はすぐに壁に行きついてひんやりとした固い感触が背中を襲う。
リコはこぼれんばかりに大きく目を見開き、視線を右左にせわしなく動かした。
そこにいたのは大きな蜘蛛だけではない。発光する蝶が飛んでいるかと思えば、鷲の頭に肉食獣らしき胴体がくっついている獣がいる。二本足で立つ爬虫類の腕には鳥の翼が生えているし、くらげのような半透明の風船がひれを滑らかに動かして宙を泳いでいる。見たこともない奇妙な生き物たちは、珍しいものでも見るかのようにリコを取り囲んでいた。
わけがわからず、周囲に目を向ける。どこかの通路にいるらしく、石畳の道が前後にどこまでも続いていた。窓はなく、光は左右の壁に等間隔に並ぶ灯りだけである。
記憶にぽっかりと穴があいたように、どうしてこんな場所にいるのか理解できなかった。
音もなく、ゆっくりとした動きで蜘蛛が長い脚を近づけてくるのが目の端にうつり、リコは小さな悲鳴を上げてほぼ反射的に立ち上がった。ぴったりと身体を壁にくっつけて、少しでも距離をとろうと試みる。
吐く息までが震え、心臓の鼓動が跳ね上がって振動が全身に伝わる。ここから逃げなくてはと思うのに、足に力が入らない。
近づいてくる蜘蛛に震えていると、無気質な石畳が一瞬で野原のように緑の草で覆われた。草は意思があるかのように取り囲んでいた奇妙な生き物たちに絡みつき、動きを封じる。
「寄るな! これはお前たちの主ではないぞ」
間を置かずに男の怒鳴り声が響き、リコは反射的に声のした方を振り返った。
薄灯りの中に、白髪の青年の姿が立っていた。整った顔に幼さは残っておらず、黒い外套を羽織っているせいで白い髪がより強調されている。腰には剣を携え、特徴的な赤い瞳が警戒して鋭さを増す。すると、リコの心臓が強く脈打ち、全身が強張った。その瞳に見覚えのある気がして、めまいのように脳内がぐらりと揺れる。
「お前はなんだ!? どうしてこんなところにいる!?」
敵意をむき出しにした青年が大股で詰め寄ってくる。リコは無害であることを主張しようとめまいをこらえて大きく頭を横にふった。
「め、目が覚めたらここにいたんです! たぶん、眠っている間に死んでしまって、死後のこの世界に来て……?」
自分がおかしなことを言っていることに気がついて、最後まで続けられなかった。
白髪の青年と目が合う。距離が近く、赤い虹彩に黒い瞳孔が浮かんでいるのがはっきりとわかる。
初めて目にした赤い瞳は、美しい宝石のようにも、不気味でまがまがしくも見えた。
言葉を失い、リコは立ち尽くした。何かを忘れている気がするのに、何も思い出せない。
白髪の青年は、眉を寄せて疑うような視線を向ける。
「何を言っている? お前は生きているだろ?」
「生き、てる?」
リコは我に返ったようにつぶやいた。ゆっくりと自分を見下ろす。いつものくたびれた灰色のスウェットに、足元は裸足だ。
生きている? だとしたらーー。
「なに、ここ」
リコは正気を取り戻したように、石造りの通路を見回した。どうにか抜け出そうと体を動かす大きすぎる蜘蛛、いたずらに複数の生き物を混ぜ込んだ奇妙な生き物たち、言葉がわかる青年でさえも、リコの知る世界とは異なっている。生きているのだとしたら、この現状の説明がつかない。
混乱するリコを見て、白髪の青年はわずかに警戒心をゆるめて迷惑そうに顔を歪めた。
「ここは遺跡だ。死後の世界などではない。名前はあるのか?」
「リコです。赤塚 リコ」
「わたしの名はルーフス。この遺跡の管理と研究をしている。何も覚えていないのか?」
リコは頷き、どうにか信じてもらおうと言葉を探した。
「どうしても眠れなかったから、薬をたくさん飲んだんです。そのせいで死んでしまったんだと思ったんですが……」
言葉を最後まで続けることなく、周囲に目を向ける。自分の部屋からどうやって移動したのか検討もつかない。視線はやがて、動きを封じられて窮屈そうに手足を動かす生き物たちにいきついた。
自分の目を疑いたくなるほど奇妙な生き物に、リコは瞬きを繰り返した。
「こいつらは人間が作り出した魔物だ。しばらく人間を見ていないから、お前を主だと思って反応したのだろう」
リコの視線に気づいたルーフスが淡々と説明した。表情は相変わらず厳しいが、リコの言葉を信じてくたらしい。
「まもの?」
青年の言葉にわずかな違和感を覚えたものの、それが何かわからないままリコは聞き慣れない単語を繰り返した。
「魔力が結晶化した魔石を動力源に作られた生き物のことだ」
ルーフスは、リコが魔物を知らないことを不思議そうにしながらも説明してくれた。
馴染みのない単語がぐるぐると頭の中で周り、リコは勢いよく自分の両頬を両手で叩いた。静寂の中にバチンと鈍い音が響く。
「な、なにをしている!?」
ルーフスが少女の奇行に驚いて声をあげる。しかしリコはまるで聞こえていないように、どこか一点を見つめて小さく口を動かした。
「痛い」
「当たり前だろ!」
「痛い! 夢じゃない!」
リコは顔を上げて叫び、ルーフスは表情を引きつらせて一歩だけ後ずさった。
「何言ってるんだ、お前」
先程まで怯えていた黒い瞳が、嬉しそうにきらめいている。
「現実だ! 私、本当に違う世界にいるんだ!」
リコは一人、大発見でもしたかのように叫ぶ。困惑よりも嬉しさをはらんだ声に、白髪の青年は呆れて腰に手を当てた。
「喜んでいるところ申し訳ないが、わたしはお前がなぜここにいるのか、原因を突き止めなければならない。そのために、不本意ながらお前をうちで預かることにする」
不本意ながら、の部分がやけに強調されたように聞こえたが、リコにとっては渡りに船だ。すべてが用意された物語のように動き出した気がして、胸が高鳴る。
「ありがとうございますっ!」
「これはわたしのためだ。早く原因を究明しなければならない。お前のような侵入者が次から次へと現れたらたまったものではないからな」
白髪の青年は突き放すような冷たい口調で言うと、赤い瞳を鋭くさせて「ただし」と続けた。「ただし、屋敷の外へは出るな。身の安全を保証できるのは屋敷の中だけだ。外に出たら、命はないと思え」
脅すような青年の言葉に、目の前にいる奇天烈な生き物たちに目をやる。外では何が自分を待っているのか。未知の世界に心を躍らせ、リコは笑顔で頷いた。
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