挿話 変えられるもの(1)
セドラが使用人に案内されて部屋に入ると、ソファでくつろぐ淑女の姿が目に入った。
目を引くような美貌の持ち主だが、傲慢を具現化したような笑みからは、油断した途端に噛みつかれそうな危険なものを感じる。
それも、彼女につきまとう噂のせいかもしれない。その昔、自らの不貞により婚約破棄を言い渡され、その美貌を武器にどうにかグラチェス家に転がり込んで贅沢を極める毒婦。一部では、娘を有力貴族に嫁入りさせるために厳しい教育を無理強いしたとも言われている。
セドラも、最初は噂通りの人物だと思っていた。自らの人脈づくりのために娘を利用する浅ましい母親なのだと。
彼女の名はディーレ=グラチェス。ナディアの母親であり、セドラにとっては義母である。すでに四〇も半ばに差し掛かろうという年齢だが、その美貌は衰えることを知らない。
慣例的な挨拶をすませて勧められたソファに座ると、使用人が慣れた手付きで紅茶を淹れ始めた。
ディーレは紅茶を待たずに口をひらいた。
「ナディアは産前から王都で至れり尽くせりの対応をして頂いたそうで、お心遣いに感謝いたしますわ」
「いいえ、祖母の我が儘でナディアには負担を強いてしまいました」
セドラは困ったように眉尻を下げた。
王都に嫁いだ祖母の計らいにより、ナディアは半ば強制的に王城で産前産後を過ごした。最高峰の医師が揃っているのは安心だが、慣れない場所での生活は何かと気を揉んだだろう。
「そんなことないわ。王族でもないのに王城で出産できるなんて有り難い話だもの。それで? 領地に戻ってからも体調に問題はないと聞いていたのだけれど、わざわざ会って話がしたいだなんて、あの子たちに何かあったの?」
先程と変わらない真っ直ぐな視線に、動揺している様子はない。
「ナディアもレリアナも元気ですよ」
穏やかに答えたが、義息の訪問の意図が掴めずに困惑しているのか、ディーレはわずかに眉間にシワを寄せてぎこちなく頷いた。
「そう……?」
目の前に淹れたての紅茶が置かれたのを合図に、セドラは本題に入る。
「今日お伺いしたのは、あなたの婚約破棄の原因についてです」
紅茶に落とされていた瞳が、相手の意図を探ろうと向けられる。まるで自分の縄張りに足を踏み入れた侵入者を睨む野獣のように、ディーレの深緑の瞳には警戒の炎が灯っていた。
「もう20年以上も昔の話ですよ。こんなところでそんな昔の話を掘り返して、騎士団長とは思ったよりもずっとお暇なようね」
穏やかな口調の中に、警戒と怒りの感情が読み取れるが、セドラは動じることなく、淡々と話を進める。
「幼少期からの知り合いで、本人同士の意思で婚約したにも関わらず、急に婚約破棄になったという話をお聞きしました」
「ですから、今さらどうしてその話を蒸し返すのですか? 何か不都合でもございました?」
「不都合など、何もありませんよ。私は、婚約破棄に至った本当の理由が知りたいだけです」
ディーレは荒々しく息を吐き出し、顔を歪めた。
「わざわざそんな昔の話をして何になるというのでしょう? 私のことなら、ナディアと婚約する前にしっかり調べたでしょうに」
「もちろんです。婚約破棄の原因はあなたの不貞だと一時期社交界で噂があったようですが、調査の結果、それはすべて事実無根であることがわかりました。その他にあったよからぬ噂もすべて、なんの証拠もなく、出処も不明でした。ですから、エレファウスト家はあなたからの提案を受け入れたのです」セドラは一呼吸おくと、身を乗り出した「婚約破棄の本当の原因、それはあなたの魔力ではないですか? あなたはナディアと同じく、複数の属性を操る能力を持ち、それが原因で婚約破棄された。あなたは同じようにナディアが傷つくのを恐れてーー」
ディーレはもういいと言わんばかりに手をふりあげて言葉を遮ると、ため息とともに肩を落とした。
セドラに向けられた深緑の瞳が、心の奥底を探るように細められる。
「あなたを選んで、正解だったわ。あなたのような男は、妻としての役目を果たしさえすれば、お飾りの妻に興味を持たずに自由にさせてくれると思っていたの。本当は、それだけで十分だった。けれど、あなたは真実を知ってなお、あの子を愛してくれた」
穏やかで温かい視線が、セドラに向けられていた。アカデミーに入学した優秀な娘を意気揚々と売り込みに来たときのしたたかな女性とは別人だった。しかし、彼女はすぐに傲慢な淑女の仮面をかぶってしまう。
「あなたが今すべきことは、ここで呑気に昔話を掘り返してお茶を飲むことではないわ。早くおかえりなさい」
「ナディアに、話すつもりはないのですか?」
セドラの問いかけに、ディーレは冷たい笑みを作る。
「おかしなことを言うのね。過去は変えられないのよ。あの子にしてきたことは、何一つ変わらないわ」
反論しようと口をひらいたが、ディーレの瞳が水面のように揺れるのを見て、セドラは言葉を飲み込んだ。ディーレの表情は相手を突き放す冷たいものに見えるが、よく見れば唇を噛んで涙を耐え忍んでいる。セドラはいたたまれない気持ちになり、視線をそらして立ち上がった。
「長居をしてしまいました。見送りは不要ですので、これで」
ナディアは実の母に対して他人行儀で、本人は取り繕っているつもりなのだろうが、居心地の悪さが顔に出ている。その理由である幼少期の話を聞いたセドラは、ナディアの特異的な能力と義母の行動から仮説をたて、真相を確かめに来たのだった。
最初の印象こそ噂通りのものだったが、ナディアが火事で負傷したことを知らせたとき、ディーレは光の速さで屋敷に押しかけ、彼女の側を離れることなくずっと介抱していたのだから。あの時の様子は、間違いなく娘の身を案じる母親だった。
しかし、ナディアはその話をしても悲しそうな笑みを浮かべて、世間体だの金づるが死ぬからだのとセドラの話を聞き入れなかった。自己防衛のために、母親を拒絶することが染み付いている。もちろん、彼女が傷つくくらいなら、その方がいいと断言できるがーー。
自分の考えは正しかったとセドラは帰りの馬車に揺られながら考えた。魔力の性質は、ほとんどが遺伝で決まる。ナディアの魔力の性質は母から受け継いだものだろう。魔力が原因で慕っていた人物から裏切られ、ディーレは深く傷ついたに違いない。その結果、自分と同じように魔力に長けた娘の不幸を恐れ、その苦しみを娘に与えまいと魔力から遠ざけた。
「贖罪のつもりか」
セドラはひとりつぶやいた。
これまで娘にしてきた行動の理由を話すことは、義母にとって許しを請う行動であり、彼女はそれを望んでいない。娘の幸せのためだとはいえ、傷つけた罪を許されようなどとは考えていないのだ。
神から授けられた力。それはもてはやされる一方で、女性が男性よりも魔力に優れることをよしとしない風潮がある。
何を隠そう、セドラもその一人だった。ディーレの身に起きたことは気の毒だと思うが、義母の元婚約者の気持ちもよくわかる。
火事の現場で、ナディアは気持ちだけで突っ走り、知識もないままにパニックに陥った。なんの感情も示さなかった彼女が自分の胸の内を明かし、不器用で真っ直ぐな彼女にセドラが心を惹かれて力になりたいと思ったのは本当だ。
だが、蓋を開けてみれば、彼女は魔力も魔術の能力もセドラの想像以上だった。特に複数の属性を操る魔術は、かつて救世主が持っていたと言われるどの属性にも属さない特殊属性と呼ばれるものの可能性が高い。
ぽっと出の銀の魔術師の存在を知った時と同様に、いやそれ以上に、セドラの中に醜悪なものが生まれた。妬み、恐怖、屈辱感……。それでもセドラがナディアとともにいるのは、単に彼女を失う恐怖心のためだ。
ようやく心をひらいてくれた彼女を絶望させることはしたくない。
セドラは目を閉じ、背もたれに体を預けた。
ディーレの言う通り、過去は変えられない。ナディアが傷ついたことも間違いない。理由を知ったところで、彼女がすんなり受け入れられるはずがない。そんなことで解決するほど、彼女の傷は浅くない。
それに、ディーレは自分に罰を課しているように許されるとも、母娘関係が改善することも望んでいない。
散々悩んだ末、セドラはそれでも知るべきだと決断する。
明日、皆に平等に朝が来るとは限らない。何も変わらないとしても、知るべきだ。
過去が変えられずとも、未来は変えられるのだから。
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