挿話 猛進
いつものようにハンナに促され、ナディアは庭園を歩いていた。木の枝は、葉を落として寒々としている。
「今日は風が冷たいですね。そろそろ戻りましょうか」
冷たい風に思わず目を閉じて耐えるナディアに、隣に立つハンナが声を震わせて提案した。
日差しはあるのに、今日は特に冷える。空気は乾燥し、今朝化粧油を塗ったナディアの唇もかさついていた。
「そうね」
頷いて屋敷に戻ろうと向きを変えたとき、風にのって運ばれてきた焦げ臭い臭いに、ナディアは眉をひそめた。
「なんでしょう?」
同じく異変を感じ取ったハンナが、声に緊張感を滲ませて言った。
視線を巡らせれば、池の方角の空に黒い煙が天に向かって伸びている。
ナディアは驚き、すぐさまドレスの裾を持ち上げて走り出した。背後で驚いたハンナが叫ぶが、その声は彼女の耳には届かなかった。
走るほどに嫌な臭いは濃くなり、騒がしい人の声が聞こえてきた。
池のほとりにあった小屋が燃えている。
ナディアは休むことなく小屋に向かって走った。
使用人たちが燃え盛る小屋から池まで一列に並んで池の水を汲んで消火活動にあたっているが、鎮火する気配はない。
「奥様! 下がりましょう!」
背後から追いかけてきたハンナが呼吸を乱しながら叫ぶ。
ナディアは小屋を茫然と眺めながら、頭の中でこちらを真っ直ぐに見つめる若草色の瞳を思い返していた。
ーー君の魔術が好きだからさ。
彼の言葉の意味は、今でもわからない。弱い者を助けるために強くなるのだと息巻いていたのに、自分の魔力を暴走させた挙げ句、自分を守るために他人の人生を犠牲にする弱い自分を許せるはずもなかった。
中途半端なこの力さえなかったら、と何度も悔やんだ。
「感覚強化」
気がつけば、もう二度と魔力は使わないと決めていた覚悟をあっさりと手放していた。
あの夜明けの空のような色をした髪の青年は、幻想を抱いているのだとナディアは思う。
長年、母に反抗するために鍛えていたような魔術だ。努力はしたけれど、結局は暴走させて周囲を危険にさらした力だ。
しかし同時に、その幻想を現実にできたらと願った。自分も、自分の魔術を、そして自分自身を好きになれなら、と。
小屋全体から煙があがり、1階の割れた窓からは踊るように燃え盛る炎が見える。
「危ないので下がってください! 奥様!?」
突き進むナディアに驚いて、誰かが素っ頓狂な声を上げる。
ナディアは自分を止めようとする腕を避け、燃え盛る小屋から視線を外さずに、まっすぐに邁進する。
2階の角に、2人の子供の気配がある。
「身体強化、盾、爆破」
身体機能を強化し見えない魔力の膜で身を守ると、ナディアは手をかざして壁の一部を破壊した。途端に室内に充満していた黒煙が溢れ出る。
使用人たちのどよめきを背中に感じながら、ナディアは小屋の中に足を踏み入れた。
子供たちを救えば、自分の能力が公になってしまう。その後、周囲がどんな反応をするのか想像もできない。以前は、それが恐ろしくて動けなかった。
室内は煙が充満して視界が悪く、炎に包まれていた。
魔術で保護しているのに、それでも肌がひりひりと焼けるような熱さがある。
「氷雨」
消火しようと試みたが、高温の環境のせいか氷を作り出すことができなかった。ナディアは諦めて火の海に沈む階段を駆け上がり、子供の気配がある部屋のドアを蹴破るようにして中に押し入った。
煙の奥に、10歳くらいの男の子がすすだらけの顔で座り込んでいるのが見えた。腕にはさらに幼い女の子を抱きかかえている。
「大丈夫!?」
駆け寄ると、顔には乾いた涙の跡がいくつも残っていた。彼がどれだけの不安と恐怖を抱えてここにいたのか、考えるだけでナディアの胸は締め付けられる。
「たす、けて……」
小さな口からかすれた声を必死で絞り出し、男の子の体ががくんと倒れた。
「盾」
急いで盾の範囲を子供たちにまで広げると、近くの炎が一瞬だけ勢いを増し、喉が焼けるような煙も一緒に内側に入り込んだ。
急に燃え盛った炎に驚きながらも、ナディアは子供たちの体をゆすって呼びかける。だが、二人に反応はない。
どうにか2人を両脇に抱えると、目眩を感じて足がふらついた。どくどくと心臓が異常に早い鼓動をうっている。
先程、ほんの一瞬だけ勢いを増した炎に、ナディアははっとした。
酸素! 盾を広げた際に内側にあった酸素が逃げ出し、炎の勢いが増したのだ。
以前、魔術で火を取り扱う際の注意事項をリンセントに教わった。付近の可燃物質や可燃ガス、そして狭い場所では二酸化炭素中毒に注意が必要だと。空気中の二酸化炭素濃度が高い場合、体内の二酸化炭素を排出できずに中毒症状を起こすからだ。
ナディアは息苦しさを感じて呼吸を繰り返す。
最初に体を覆った盾内にあった酸素が、盾を広げたことで逃げ出し、さらに薄まってしまったに違いない。
まだ倒れるなとナディアは華奢な足に力を込める。
一階に降りる猶予はあるのか? いっそのこと、窓から子供たちと飛び降りた方が助かるだろうか。
自分の判断一つで、自分と子供たちの生死が決まる重圧と戦いながら、ナディアは子供たちを抱え直した。その時、窓が割れる音とともに何かが部屋に転がり込んできた。
黒い煙が立ち込める部屋の中で、白い騎士服が眩しくナディアの目に映る。普段は威嚇するように冷たい眼光を飛ばす目が、ナディアの姿に驚いて大きく見開かれていた。
ナディアは二階の窓を割って飛び込んできた夫に向かって叫んだ。
「子供がふたり! 意識がないの!」
いつの間にか、足から力が抜けて床に膝をついていた。少しでも盾の魔術が続くように、ナディアは子供たちを庇うように抱える。
ごうっと風が吹いて、黒煙が部屋から追い払われる。風がやむと再びナディアたちに襲いかかろうと迫ってきたが、見えない何かに行く手を邪魔をされ、もどかしそうに揺れるだけだった。
その煙を見ながら、盾の魔術だとナディアはすぐに察した。盾の保護膜で煙を遠ざけている。薄れゆく意識の中で盾の使い方に関心しながら、ナディアは瞼を閉じた。
真っ暗な中で、呆れ果てた自分の声がした。
「馬鹿ね。あんたが飛び出す必要なんてなかったじゃない。結局助けられてないし。必死で隠したのに、これでみんなにばれてしまったわ」
「いいでしょう?」とすねる自分をなだめるようにナディアは言った。「無力ではあったけど、今はこんなにも清々しい。口をつぐんだときよりも、引きこもっていたときよりも、今はずっと、いい気分でしょう?」
「そうね」
すねた自分が、にっこりと笑みを浮かべた気がした。
次に感じた感覚は、痛みだった。誰かが強く手を握りしめている。その痛みから逃れようと手をわずかに動かすと、歓声があがって騒がしくなった。
目を開けると頭痛に襲われ、乾いたうめき声がもれた。ぼやけた視界のピントが合うと、目の前に涙でぐしゃぐしゃの母の顔があらわれて、喉から変な声があがる。
「んぇ?」
「ナディア!」
手は解放されたが、今度はベッドに横たわったままの上半身に抱きつかれる。
「どうして、お母様が?」
そこはナディアの寝室だった。部屋を見回すと、主治医や泣き顔のハンナ、見たこともない情けない表情を浮かべたセドラの姿があった。頭がぼうっとして状況が飲み込めない。
「あなた、仕事は?」
痛む頭を抑えながら、夫に問う。状況を整理しようと思考を巡らせ、ナディアは目を大きくさせて体を起こした。
「子供たちは!?」
「2人とも、無事ですよ」
ベッドの足元に立ったハンナが、涙をこらえながら笑顔で報告した。
「そう」
それを聞いて安心したナディアは体をベッドに戻した。全身から力が抜ける。目が覚めたばかりなのに、意識は再び深い眠りへと落ちていった。
火事騒動から5日後、すっかり回復したナディアは、セドラから何の策もなく飛び出した無鉄砲な行動についてくどくどと説教を受けた。しかし、ナディアの魔力については触れることも、責めることもない。それが不思議で、ナディアは遠慮がちに口をひらいた。
「あの、嫌ではないのですか?」
「何がだ?」
説教を中断されて不服そうなセドラが聞き返す。
「女の私が、魔力を使えることが、です」
気まずくて視線をそらせたのに、セドラがでかい顔をずいっと近づけて瞳を覗き込んできたので、ナディアは思わず頭を後ろにひいた。眼前でセドラが口の端を曲げてにやりと笑みを浮かべるとやっと顔を離した。
「魔力が使える? 何を言っているんだ? 火事からおまえと子供たちを救ったのは俺だぞ? 自分の魔力を過信して突っ走るだけでは誰も救えず、むしろ迷惑だ。もっと鍛えなければ、使いものにはならないぞ」
これまで必死に積み上げてきた努力を馬鹿にされたのに言い返す言葉もなく、ナディアは口を結んでセドラを下からにらみつけた。
どういうわけか、セドラは腕組をしながらもどこか楽しんでいるように見える。
「俺が教えてやる」
夫の言葉に、ナディアは驚いて瞬きを繰り返す。
セドラの意地の悪い笑みが、いつの間にか優しいものに変わっていた。
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