1−17 聖女
暗闇の中で、懐かしい姉の声が聞こえた。
「ほら、もっと腕を引き寄せて、勢いを付けて地面を蹴るの」
目の前に鉄棒があらわれ、かたわらには小学生の姉がいて、逆上がりを練習している。苛立ちを募らせたリコは、天に向かって吠えた。
「もういい! できない!」
「リコならできるよ。あと少しだから。ほら、しっかり握って」
渋々言われた通りにするが、あと少しのところで足が逆回転してしまい、地に足が着いた。できない悔しさから、リコはうなり声を上げる。
姉はいとも簡単にやってのけるのだから、より悔しさと苛立ちが増す。
そんな不機嫌なリコの肩を姉は励ますようにぽんと叩いた。
「惜しいねっ! もう少し。リコならできるよ。あきらめるな」
目の前にあったはずの鉄棒と姉が一瞬で消えたかと思うと、リコの体も急に成長して高校の制服姿になっていた。
無茶苦茶な展開に、これが夢だとリコは理解する。今は夜で、現実の自分は、カーテンのない部屋で寝ているに違いない。もうそろそろ、朝日で目が覚めるはずだ。
カーテンが、ない?
リコは唐突に疑問に襲われる。
自分の部屋には、閉め切ったままのカーテンがあるから、朝日で目覚めることはない。
記憶に空白があるような気持ち悪い違和感に、焦りと不安が沸き起こった。
頭に浮かぶ広い調理場は? お金持ちのお屋敷みたいなL字の階段は、どこで見た?
迷子の子どものような横顔のリコに、優しく諭すような声がかけられる。
「違うよ、リコ。リコはもう、私たちとは違う世界にいるんだよ」
声に振り返れば、姉がいた。最後に会話した時と同じ服装をしている。少し寂しそうに眉を下げた姉が、ゆっくりと微笑んで口をひらいた。
「そこで、変わるんでしょ? あきらめるな」
姉の足は動いていないのに、暗闇の中でどんどん姿が遠ざかっていく。リコは離れて小さくなる姉に向かって手を伸ばした。
「お姉ちゃんっ!」
騒がしい気配を感じ取り、リコの意識が急速に現実に引き戻される。
同時に、微弱ではあるが多数の魔力の気配がして忘れていた記憶を思い出した。
遺跡で目が覚め、ルーフスの正体を知って必死な思いで森を逃げ回り、子供たちに出会った。角の生えた、奇妙な子供だ。
目をあけて何度か瞬きを繰り返すと、地面に横たわった重い体をゆっくり起こした。それにともなって周囲でどよめきが起こる。
状況を理解しようと視線を巡らせると、そこは森だった。意識を失う前と同じ場所で、移動した様子はない。
だが、子供たちの代わりに、警戒、怯え、驚愕、様々な表情を浮かべる大人たちが集まっていた。全部で五十名ほどの集団は、リコから距離をとって不躾な視線を送っている。
魔石でも持っているのか、魔力の気配は取り囲む彼らからしている。しかし冷静に分析する前に、思考は吹き飛んでいた。
リコもまた、遠慮のない視線を彼らに向ける。驚きのあまり口は半開きのまま、目を大きく見張る。
年老いた者、まだ顔立ちに幼さが残っている者、体格が良い者、大半が男だが、取り囲む集団には女も混じっていた。誰もがよく日に焼けた小麦色の肌をしていて、誰もが額から二本の角を生やしていた。
黒い二本の角はカーブを描くように天に向かって伸び、先端は尖っている。悪魔を思わせるその容姿に、リコは言葉を失った。
「あの」
突然の声にびくりと肩を震わせて振り向けば、そばで片膝をつく男性の姿があった。角の生えた額は後退し、顔には深いシワが目立っている。右手を左を肩にあてた姿勢に、困惑した様子はあっても敵意や悪意は感じられない。
「町の代表を務めているセオ=エバンと申します」
自分の娘ほど年の離れた少女に対して緊張を露わにして、人柄が良さそうな人相の男が名乗った。
「ど、どうも。わ、私は赤瀬リコです」
つられて自己紹介をすると、近くの町の住人らしい集団から安堵するようなため息がいくつももれた。目の前のセオも、硬く緊張した表情が少しだけ和らいだように見えた。
「あぁ。言葉が通じて良かった。あなたは、ニンゲンですよね?」
リコは無言で頷いくと、思わず男の額から伸びる角に目をやる。
「あなたたちは……?」
「わたしたちは、魔族です」
はっきりと言われ、自分でも表情が強張るのがわかった。
物語の中でしか聞いたことがない単語だが、物語ではいつも人間と敵対している存在だ。彼らが敵か味方か決めかねていると、セオがたどたどしい口調で説明を始める。
「人間は、国が保護する決まりになっておりますので、担当の者に連絡を致しました。迎えが来ますので、しばらくお待ちください。その間に、ささやかながら食料と飲み物を用意しました。良ければ、お召し上がりください」
セオの言葉に合わせるように、彼の後ろからパンや果物の入ったカゴをもった女性が現れ、恭しく膝をついてカゴをリコに差し出した。
「ありがとうございます!」
一気に警戒を解いたリコはカゴに飛びつき、真っ先に瓶入りの飲み物をつかんでグラスにもつがずに喉に流し込んだ。周囲から刺すような視線を向けられるが、気にかける余裕はない。喉の乾きがおさまると、今度は空腹を満たそうと果物を頬張る。
まさか召喚された場所が魔族の国だったとは驚いたが、彼らと人間は良好な関係を築いているようだ。ルーフスの警告が頭に浮かんでいたリコは安心する。彼は外に出たら命の保証はないなどと言っていたが、あの屋敷に閉じ込めておくための虚言だったのだろう。
もしかしたら、召喚者も人間ではなく魔族なのかもしれない。
リコは黄色の果実から口を離し、口元を汚したままセオにたずねた。
「私、召喚者を探しているんですが、心当たりはありませんか?」
「ショウ、カンシャ? 申し訳ありませんが、そのような名前の者はおりません」
彼が召喚者を名前だと勘違いしていることに気付いたリコは訂正しようと口を開いたが、魔族の集団の後方が騒がしくなった。
その場にいた全員の視線が何事かと同じ方向に向けられ、わずかの時間差で集団が二つに分かれて道ができた。
魔族が次々に片膝を地面につけ、右手を左肩へあてて頭をたれる。
リコのそばにいたセオも、驚きながらも即座に体の向きを変えて深い礼をとった。リコに向けられたものよりもずっと深く、畏敬の念が感じとれた。
魔族たちがつくった道の先に、一人の魔族の女が立っていた。
額から伸びる角は後方に向かってねじれており、くるぶしまである露出の少ない白い衣には植物を模した銀の刺繍が施されている。
編み込んだ銀髪は後頭部ですっきりとまとめ、目元は黒い光沢のある布で完全に覆っていた。視界を完全に奪われているはずなのに、彼女は迷いのない足取りでリコに向かって歩いてきた。
手には杖すらなく、後方に一人の従者を従えている。
明らかに他とは違う雰囲気を放ち、彼女の周囲は明るく輝いているようにリコには感じられた。まるで後光でもさしているようだ。
彼女が現れたことで、あたりは先ほどとは別の緊張感に包まれた。
リコの前まで来ると、その人は微笑んだ。
額から角が生えていれば、鬼や悪魔に見えて然るべきだが、彼女の美貌と穏やかな雰囲気は悪の象徴である角の存在を相殺し、むしろ清らかなものを感じる。
セオが緊張を濃くしているのにも頷ける。
「わ、わわたくしは、この街の代表でセオと申します。先程、連絡いたしましたのは、わたくしめでございます。おはやいご対応に、感謝を申し上げたてまつります。こちらが、報告した人間でございまする」
重圧に押しつぶされ、混乱したセオの言葉にも、美しい魔族の女は寛大な微笑みを向けて頷いた。
「国民の義務をよく果たしてくださいました。私は国家魔術師のナターシャ=デランシーと申します。我が君主の命により、人間を迎えに参りました」
凛としながらも優しくすべてを包み込んでくれそうな慈悲深い声だ。彼女は真面目な顔を崩すと茶目っ気たっぷりに「可愛いお嬢さんだと聞いて、飛んで参りましたわ」と付け加えた。
ナターシャと名乗った美女は、リコに向き直ると、軽く膝を折って魔族式に礼をした。
「初めまして。ナターシャと申します。お話の通り、お迎えに参りました。どうぞ、私とともに王都までお越しいただけますか?」
地面につけたままだった尻を急いで持ち上げ、母国式に頭を深々と下げた。
「赤瀬リコです! よろしくお願いします!」
「リコ様とおっしゃるのですね。お会いできて、光栄ですわ」
胸に手をあて、ナターシャは嬉しそうに声を弾ませた。
美しい笑顔に、リコは思わず見惚れてしまう。天女、女神、聖女、といった言葉は、彼女のために存在しているとさえ思った。
聖女ナターシャは、リコをうながすように自分が今来た道に体を向けた。
「さあ、詳しいお話は馬車の中でいたしましょう。今は、少しの時間も惜しいですから」
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