1−16 警告
霧は次第に晴れていき、周囲の状況がはっきりと見えるようになってきた。リコは湿った地面に足を取られながら、懸命に走り続ける。
「感覚強化」
五感を研ぎ澄ませれば、背後からずるずるとこすれるような奇妙な音が迫ってくる。
リコには、死神が鎌を引きずりながら自分に近づいて来るように思えた。
ナディアと同じように、あれも自分の命を狙っているのかもしれない。
リコは震える足に力を込める。
〈気配抹消〉は、すでに相手の視界に入っている状態では効果が得られないが、距離をとって相手の視界から外れてからなら、逃げ切る可能性がある。
しかし、自分の速度が落ちているのか、相手が速いのか、距離が縮んでいる。
リコは手を胸の前で握りしめる。手の甲に魔術式が浮かび上がり、魔力を凝縮させてそれを後方に向けて放った。
「爆破」
相手を狙う余裕はないが、少しでも怯んで速度が落ちることを願った。少し遅れて、後方からばりばりと木が倒れる音が聞こえる。
「気配抹消」
土埃に期待して己の気配を消す。なりふり構わず走る足音をどこまで誤魔化せるのかはわからない。だが、それらを気にして走る余裕はなかった。
体内の魔力量がみるみる減っていくのがわかる。リコは魔力を補充しようと走りながらナイフを入れたポケットに手を突っ込んだ。
自分の体が横になっている感覚があった。体の下には硬い床ではなく、柔らかく寝心地のいい弾力がある。
誰かが手を握っているが、目を開けることも、握り返すこともできない。
「ナディア……ごめんね……」
聞き覚えのある声だ。すすり泣きの合間に、その人は声を絞り出すようにして言った。
「私のせいで……ごめんね」
手に、生ぬるい液体が落ちてきた。額をなでられ、髪を触られる。
カーテンが動くような音に続き、気まずそうな若い女性の声がする。
「すみません、学長から説明がありますので、こちらへどうぞ。ナディアさんには、私がついていますので」
名残惜しそうに手が離れ、カーテンと扉の開閉音の後に静けさが訪れた。
ぱっと視界が明るくなり、目の前に木々が広がっていた。ナディアの記憶から現実に意識が戻ってきたのだ。
景色が後ろに飛び去る中、リコはおかしな感覚に気がついた。これまでよりも、自分の魔力を鮮明に感じる。
リコの黒い瞳が、自分でも知らない間に緑色に染まる。
自分が何をしようとしているのか理解する前に体が動いた。
右足で強く大地を蹴ると、体操選手のように体が空中で大きく弧を描いて宙返りする。
時間がゆっくりと流れているようだった。体が逆さまになって真後ろを向いた瞬間、リコは両手を突き出した。
「氷壁」
手のひらからこれまでに体験したことのない量の魔力が放出される。
空気が振動し、巨大な冷蔵庫を開けたみたいに冷気が一帯に広がった。地響きとともに、幅が数キロに渡る巨大な氷の壁が木々を投げ倒してリコとルーフスの間に立ちはだかる。
一度に大量の魔力を消費した影響か、一瞬ぐらりと体から力が抜けるが、どうにか持ちこたえて走り続けた。緑色に染まった瞳は、元の黒い色に戻っている。
背後から迫る気配が遠のいている。あの氷の壁に阻まれているのだろう。
しかし安心したのも束の間、目の前の木々がお辞儀をするように壁を作った。ありえないことだが、リコはすぐにこれが彼の仕業であり、まだ諦めていないのだと悟る。
拳を握り、魔力を溜め込んで前方に放つ。
「爆破」
諦められないのはリコも同じだった。
ここを出れば、召喚者に会えるという根拠のない自信があった。
この世界こそが、自分の居場所なのだから。
「爆破」
何度も繰り返し作られる木の壁に、リコは魔力を放つ。
せっかく突き放した距離を徐々に詰められてしまう。どういう理由か、〈気配抹消〉の効果がない。
草を踏みつけ、視界を邪魔する枝を払いのけてリコは不安を抱いた。もしかしたら、彼は植物を操るだけでなく、植物の感覚を共有できるのかもしれない。
それが事実だとすれば、絶望的だ。リコには再び〈氷壁〉をする魔力もなく、補充もできないのだ。
体力の限界が見え始めたその時、視界を遮っていた木々が消え、視界がひらけた。
「あっ……」
驚きのあまり声がもれる。地面が、数メートル先で消えていた。その下は鋭角な斜面になっており、ごつごつした岩肌が露わになっている。
ここで落ちて死ぬか、捕まって死ぬか。
リコは不安と恐怖を振り払い、駆け出した。
残り少ない魔力で、どこまでできるかはわからない。自分でも狂っているとさえ思った。
召喚者に会いたい。どうして自分を探していたのか、この世界に呼んだのか。自分は何のために生まれてきたのか。
何に縛られることもなく、思いっきり空中へと身を投げ出す。
視界が、下へ下へと流れていく。
風は頬の肉を揺らし、眼球に直接吹きつけてくるので瞼をあけておくこともできない。風の音が鼓膜を激しく振動させた。
遠ざけたはずの恐怖が全身に絡みつく。
地面までの距離がわからない。次の瞬間には、地面に衝突して死ぬかも知れない。怖い。怖い。怖い。怖い。体が震え、呼吸が乱れる。
恐怖に抗うように、リコは上を見上げる。ナディアが眺めていた夜空とは違う青い空が、そこには広がっていた。
頭の中で、リコの視界とナディアの記憶の夜空が重なる。その時、残りわずかな魔力を鮮明に感じ、黒い瞳が一瞬だけ緑色に染まった。
「浮遊」
リコの体を持ち上げるように、風が下から吹き上がり、急降下の速度が徐々に落ちた。風は安定せず、体は不安定に揺れながら高度を落とし、最後には集中力が尽きて乱暴に地面へと放り投げられた。
転がりながらどうにか着地し、その勢いのまま体勢を起こして上を警戒する。だが、ルーフスが追ってくる様子はなかった。
崖を降りられないのかもしれない。
どうにか大蛇から逃げ切れたと安堵したリコは頬を緩ませて確信する。
ここは自分に与えられた世界であり、多少の危険があったとしても自分は死なないのかもしれない。物語の主人公が死なないように、めでたしめでたしで終わるのだと。
◇ ◇ ◇
その後は、自分の勘だけを頼りに歩くしかなかった。
服は土埃と汗で汚れ、体はすり傷と打ち身だらけだ。
体感では、もう何時間も歩き続けている。喉が乾いた。お腹も空いた。死ぬことはないはずだが、疲労や苦痛が和らぐことはない。
ふらつく足取りで木々に体をもたれて休みながら進むリコの耳に、微かに人の声が聞こえた。楽しそうに笑う子どもたちの声だ。
憔悴しきった表情に希望が宿り、わずかに歩く速度があがる。
視界の先に、小さな人影が見えた。さらに近づくと、花を積んだり虫を捕まえようと網を振り回している子どもたちの姿が見えた。
リコが声を発するより先に、一人の男の子がこちらに気がついて駆け寄って来た。5歳くらいの男の子で、髪の毛が子犬のようにふわふわとゆれている。
嬉しさのあまり、目の端に涙が浮かぶ。限界を迎えていた足が崩れるように膝が地面についた。
「助けてほしいの」リコはかすれた声で男の子に訴えた。「喉も乾いてて、誰か大人の人を呼んできてくれない?」
顔がわかる距離まで来ると、男の子の足がピタリと止まった。男の子は目を大きく見開き、驚いた顔で声をあげる。
「お姉ちゃん! 大丈夫!?」
急に声をあげて心配する男の子を疑問に思いながら、リコは頷いた。
「大丈夫。誰か、大人の人を……」
他の子どもたちも、こちらに気がついて視線を向けている。その中で、年長者らしき少年が、慌てた様子で男の子を追いかけてきた。黒髪を刈り上げた吊り目の少年だ。
「おいっ!」
少年が叫ぶが、男の子の耳には聞こえておらず、ただ心配そうにリコを見つめて近寄ってくる。
「お姉ちゃん、角はどうしちゃったの? 何かに襲われたの?」
「え? なに?」
「おい! 離れろ!」
意味がわからずに聞き返すと、男の子を追いかけてきた少年がかばうように自分の背中に男の子を隠した。
離れた場所にいる子どもたちも身を寄せ合い、怯えた表情を浮かべている。
「あの、怪しい者じゃないの。ただ、たす……」
不審者と警戒されていると思ったリコは、少年を説得しようと話しかけたが、途中で言葉を失ってしまった。
少年の刈り上げられた額の生え際から、親指大ほどの黒いものが突き出ている。角だ。少年の額から、角が生えている。
小さな角を生やした少年は、威嚇するような眼差しをリコに向けた。
「こいつ、人間だぞ」
少年は、他の子どもたちに向かって警戒をうながすように言った。
リコの視界がぐにゃりと曲がる。体が限界を迎え、力が抜けて強制的に目の前が暗くなる。意識を失う直前、ルーフスが遺跡で言っていた言葉が頭の中に響いた。
ーーここは、お前のいるべき場所ではない。
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