1−15 尾行
夜、期待と不安でリコが寝付けずにいると、優しく心地よい雨音が部屋を満たし始めた。穏やかな恵みの雨は、緊張する心をときほぐし、やがて眠りへといざなった。
朝起きると窓の外は霧雨だったが、リコが朝食と片付けを終えて部屋に戻ってきたときには、霧に変わっていた。
窓から見える森は、白い霧に包まれて幻想的な雰囲気をまとっている。
朝食の席にルーフスはいたものの、やはり体調がすぐれないのか何も食べなかった。リコもぼろがでそうで会話する気になれず、緊張から食欲はなかったが勘付かれないように口に押し込んだ。
隣の部屋のドアの開閉音を聞き、リコはポケットの上からナイフに触れて確認する。
玄関ホールに降りると、ルーフスは外套を羽織っていた。
振り返ってこちらを見る顔は、いつものように無表情だ。
「三日で戻る」
「わかりました。気をつけてくださいね」
玄関に体を向けたルーフスの体が静止したかと思うと、またリコを振り返った。
「帰りになにか旨いものを買って帰ろう。肉か魚か、どちらがいい?」
「え? それなら、えーっと、お肉、ですかね」
突然の問いに返事を絞り出すと、胸の奥がうずいた。彼が帰ってきたとき、この屋敷には誰もいない。その時、無表情な彼はどんな顔をするのだろうか? ヒリヒリと痛む胸に、優しい言葉は屋敷につなぎとめておくための演技だと言い聞かせる。
リコは口角を少しだけ持ち上げると、真っ直ぐにルーフスを見返した。
「楽しみにしてますね。行ってらっしゃい」
何も疑うことなく、ルーフスは屋敷を後にした。扉が閉まる音を最後に、屋敷は静寂に包まれる。
リコは心を沈めて集中する。
「感覚強化、気配抹消、身体強化」
リコの言葉に続き、全身に黒い文字が三度浮かび上がる。三つの魔術同時発動は、実験済みだ。問題は、三倍の速度で魔力が消費されることだが、状況に合わせて組み合わせを変えていくつもりだ。
黒い瞳に強い光を宿し、リコは大きな一歩を踏み出した。
◇ ◇ ◇
霧のせいで三十メートル先は真っ白な空間が広がっているだけだが、ルーフスに足に迷いはない。
前方の木々は霧でぼやけ、進むにつれてその姿がはっきりとあらわれる。
調節が苦手な〈感覚強化〉は、悩んだ末にすべての感覚を少しだけあげることにした。これなら、他の魔術と同時に発動しても調整に四苦八苦することなく、魔力消費も最小限に抑えられて多少の異変には気がつけるはずだ。
ルーフスに勘付かれる様子もなく、彼の歩く速度にもついていける。これなら、無事に町まで辿り着けそうだとリコは安堵する。
視界のはじに輪郭のぼやけた木がうつる。近づいていくと木の輪郭が明確になり、苦痛の表情を浮かべる若い男性が顔を出した。リコは足を止めて、とっさに悲鳴を押し殺した。よく見れば、それは人ではなく木の幹だった。
リコは自分が屋敷に来た日のことを思い出した。木の幹に苦悶する人面がある不気味な森。今また、そこにいるのだ。
気味の悪い森を抜け、やがて地面は草から土へ、そして石や岩が目立つようになってきた。霧で見えないが、近くに川があるのか水が流れる音が聞こえる。
見失うまいとルーフスの背中を見ていたリコの体が震える。霧のせいで着ているワンピースが水分を含み、知らない間に体温が奪い取られていた。
寒さに凍え始めたリコの足が、急に立ち止まる。黒い背中が数メートル上に移動したかと思えば、そのまま浮いている。警戒しながら近づくと、ルーフスの足元に巨大な岩陰が見えてきた。
目を凝らせば、霧に隠れて大きな岩陰があちらこちらに見える。自分が小さくなってしまったような感覚に陥るほどに大きな岩だ。
ルーフスが岩の向こう側に飛び降り、姿が見えなくなった。気づかれる不安を抱えながら、リコも後を追って岩の上へと跳躍する。ところが、そこで問題に直面した。
岩に囲まれているせいで風の流れが悪いらしく、行き場を失った濃い霧に包まれ、ルーフスの姿はどこにも見当たらない。聴覚の感度をあげても、足音は聞こえず、完全に見失ってしまった。
悩んだ末に、リコは一か八か岩の下へと飛び降りた。少し歩いて周囲を凝視するが、岩の間の霧は濃く、どこを見ても真っ白だ。
落胆して視線を落としたリコの目に、地面に落ちた黒の外套が映った。周囲には見覚えのある他の服も落ちているが、彼の姿はない。
リコは狼狽した。突然、外で素っ裸になった理由など見当もつかない。 本当に青年のものなのか、外套に手を伸ばそうとして、不気味な音に動きをとめた。ずるずると何かを引きずるような、こすれるような音が聞こえて、背筋に悪寒が走った。
音はすぐ近くから聞こえ、大きなものが動く気配がしている。全身が恐怖に押しつぶされそうになる。今まで気が付かなかったのが不思議なほどに、巨大なものが近くにいる。外套をとるために屈みかけた姿勢を戻して視線を巡らせるが、霧のせいで何も見えない。
音はリコを囲むように聞こえてくる。不安と恐怖に襲われ、鼓動が速くなる。
ふと、リコは目の前の霧がきらきらと光を反射していることに気がついた。不思議に思って一歩前に出て目を凝らすと、それが気の所為でないことがわかった。さらに一歩進み、眉間にシワを寄せてじっと目を凝らすと、白い鱗がいくつも重なって輝いているのが見えた。驚いて後ずさると、ずるずると白い鱗が横に流れるように動き出した。
リコは叫びそうになるのを両手で口を押さえて小刻みに体を震わせる。
その時、肌寒い風が岩場を吹き抜け、岩に閉じ込められていた霧が散った。視界がひらけ、ぼやけていた周囲の大きな岩の輪郭が明らかになる。
目の前に、白い胴体があった。その体の先を視線で辿ると、長い体は岩場の隙間を抜け、ずっと続いている。岩と胴体の間に、白乳色の皮が波打つように挟まっていた。
巨大なヘビが脱皮をしている姿を目の当たりにして、リコは驚倒する。
大蛇だ。胴体は人間よりも太い。色は違うが、遺跡でナディアを襲った大蛇と同じくらいの大きさだった。
脱ぎ散らかされた服に、突然姿を消した青年。
リコは自分の考えが信じられず、振り払うように首を横にふる。
この大蛇はルーフスなのか。
リコは視線を感じてゆっくりと顔を動かした。赤い瞳が、はっきりとこちらを見ている。
胸が押しつぶされるような感覚とともに、驚きと恐怖で魔力が効力を失っていることに気がついた。
「身体強化」
リコは急いで魔術をかけ直し、巨大な岩の上に跳躍する。
岩から岩へ飛び乗って移動すると、大きな川がすぐ隣を流れていた。水面から頭を出す石を足場に、川を飛び越える。
ずるずると背後から聞こえてくる不気味な音に追われながら、リコは森の中を疾走しはじめた。
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