1−1 終わりと始まり
助けて!
ナディアは心の中で何度もそう叫んだ。
赤の魔術師さま。私を導き、お救いください。
そう祈りながらも、助けが来ないことはわかっていた。先程まで寝室で娘を寝かしつけていたのに、光に包まれたと思ったら一瞬でこんな場所にいたのだから。
石造りの広い空間には、両側に円柱の柱が並び、円柱の下部が白く発光している。こんな造りの建築物をナディアは見たことがない。
出口を求めてひた走る彼女の背後には、流れる水のように滑らかに床を這い、柱を縫うようにして迫る黒い大蛇の姿があった。
どこにも出口は見当たらない。完全に閉鎖された空間に、ナディアは焦りを覚える。
「爆破」
魔力を手のひらに溜め込み、壁に向けて放つ。爆風がナディアの艶やかな黒髪を揺らすが、壁に傷ひとつつくことなく、蜂の巣状の模様に光っただけだ。普通の空間ではない。
ナディアは振り返り、大蛇を睨みつけた。10メートルはある悠然とした肉体が、とぐろを巻き、深い闇の中に浮かぶ赤い瞳が「逃げるのはおしまいか?」と言わんばかりに静かにナディアを見据えている。
まだ1歳になっていない娘や夫の顔が脳裏をよぎる。もう会えない。その事実を突きつけられ、目の前が真っ暗になるのを必死で耐える。絶望している時間はない。早く、外へこの事実を伝えなければならない。このままでは、この国が滅びてしまう。
ぐらっと視界が揺れる。手足には痺れ。この空間にいるだけで、自分の体が毒で侵されているのだと気づいた。
不浄の魔物。
幼い頃、何度も聞かされた建国伝説の話が思い出す。邪悪な力に虐げられ、我々の祖先が海を越えてやっとの思いでたどり着いた大地には、古の魔物が住み着いていた。その魔物は草木を枯らし、あらゆる生命を奪ってその大陸を命の芽吹かぬ不浄の大地と化すほどの力を持っていた。始祖であるバルリエさまをはじめとする救世主さま5人は勇敢にも戦われ、魔物の力を削いで封印することに成功した。そうして、我々はようやく自分たちの国を手に入れ、平穏の時代が訪れたのだ。
魔術により強化した知覚が、大蛇のわずかな動きを感じ取って、ナディアは予期した攻撃を避けようと大きく跳び上がった。だが、大蛇は彼女の動きを見計らっていたかのように、空中で無防備となったタイミングを狙って牙を剥いた。
一瞬だった。鋭い痛みが左肩を襲い、空中でバランスを失う。うまく着地できずに石造りの床に叩きつけられるが、すぐさま体勢を立て直して顔を上げる。自分の体に感じた大きな違和感よりも、宙を舞う、細長い物体に注意が吸い寄せられる。
それは、回転しながら赤い雫を床や円柱に撒き散らし、鈍い音をたてて床へ落下した。先程まで自分の体の一部だった左腕を唖然として見つめ、ようやく理解が追いついた。ぎりぎりと奥歯を噛み締めて勇気を奮い立たせる。
今この瞬間にも仕留める機会があるにも関わらず、大蛇はゆったりと構えている。もっと楽しみたいとばかりに、とどめを刺そうとしない。圧倒的な強さを前に、ナディアは双眼をさらに鋭くさせる。勝てるわけがない。
考えろ! 考えろ! ナディアは必死に自分を鼓舞する。この事実を外に伝えられるのは、自分しかいない。国を守るために、これまで力を鍛えてきたのでしょうっ!
大蛇は、興奮した様子で長い舌をちらつかせる。絶望を体現したような漆黒の顔に、真紅の瞳が愉しそうに煌めいている。
「ナディア」
性別も年齢も察することができない声で大蛇に呼ばれ、鼓動が早まり、恐怖で手に汗が滲んで、喉がごくりと音をたてた。
嫌だ。死にたくない。帰りたい。娘を抱きしめたい。どうして、どうしてこんなことに? 恐怖が後悔と悲しみと絶望を引き連れて、思考が感情に呑まれる。どうして?
窮地に陥った頭に、恩人の声が響いた。
ーー君の魔術が好きだからさ。
その声に心のざわめきが静まり、血流が体内をどっと駆け巡った。大切なものを確かめるように、胸にあてた手をぎゅっと掴む。
背筋が自然と伸びて、不思議と恐怖が消えていた。自分のすべきことだけが、はっきりと見える。彼に、そして自分に恥じない生き方をしなくてはならない。貴族として、この国を守らなければならない。
ただ死んでやるつもりはない。
ナディアは顔を上げ、真っ直ぐに魔物と対峙した。彼女の瞳からは別人のように怯えの色が消え失せ、代わりに力強い光が宿っている。
「私はナディア=エレファウスト! 神から愛された証を受け継ぐ私には、民を守る責務がある! お前に、私の力の欠片もくれてやる気はないっ!」
口の端を持ち上げ、ナディアは悠然と笑みを浮かべた。追い詰められて漏れる笑みは、狂気じみていて得体の知れない恐怖がある。
大蛇は警戒し、身を固くして距離を保ったまま動かない。
ナディアは右手を前に突き出した。
「氷短槍」
右手を中心に、冷たい空気が動いて渦を巻いていく。空気が白く輝き、渦の中から両端が鋭く尖った氷の短槍が現れ、右手で掴み取る。
心臓が焼けるほどに熱い。しかし、ナディアはできるだけ多くの魔力を心臓に集めることに集中する。鼓動が熱く、力強く拍動する。
短槍を大蛇へと向け、槍を握る手にさらに力を込めた。この事実を外へ伝えなければならない。それだけを考える。
大蛇が何かを察して、大きく赤い目を見開いてナディアに飛びかかった。かなりの距離があるにもかかわらず、一瞬で距離は縮まり、丸呑みできるほどの大きな口が視界いっぱいに広がる。
「ごめんなさい」
ナディアは胸のうちで、自分の記憶を引き継ぐであろう誰かに謝った。この魔術はきっと、誰かを苦しめる。
大蛇に向けられた反対の槍先は、ナディアの心臓に向いていた。現世の執念に捕らわれないよう、ナディアはずっと先にあるであろう国の未来に思いを馳せる。そこでは娘も夫も笑っている。大丈夫。
希望と願いを胸に、槍を己の心臓に突き立てた。
赤の魔術師さま、どうか私達をお導きください。再び、悪の手からお救いください。どうか、私達に未来をーー。
希望を最後に、彼女の意識は永遠の闇に落ちていった。
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