挿話 異才
教室に並ぶ長机の上に、年季の入った書物がいくつも山をつくり、端に分厚い本がひらいたままの状態で広げられている。
物静かな教室は講義中とはほど遠く、今は本の山を前に二人の人影しかない。
一人は眼鏡をかけた男で、赤みをおびた茶色の長髪を後ろで一つに結いあげ、国家魔術師の証である襟詰型の黒服に身を包んでいる。くるぶしまである制服には、青色の刺繍糸で植物を模した刺繍が施されていた。
顎に手をあて、脳内で充分に吟味した上で、男は口をひらいた。
「トーナメント戦で、全勝する必要はないと思います」
「いいえ、先生。私が目指すのは、完全勝利です」
アンティークローズの学生服に身を包んだ少女が、凛とした声で教師の意見を否定した。黒髪をおおざっぱにお団子にまとめ、横顔には余った髪の束が垂れている。
先生と呼ばれた長髪の教師は、不機嫌な顔で眼鏡のブリッジ部分を押し上げた。
「君が目指しているのは、女性初の国家魔術師でしょう?」
「だからこそ、完全勝利なのです。女性は男性よりも魔力が劣っているなどという馬鹿げた世論を覆し、皆に認めさせる。それには、完全勝利しかありません」
呆れた声で指摘すれば、彼女からは狂気めいた強い意思で反論が返ってきた。猪突猛進に突き進もうとする危なっかしい少女に、教師はもう一度提言する。
「対戦相手全員に勝利する必要はありません。君のその魔力量と魔術さえあれば、誰もが君を認めざる負えないのですから」
二人の話しているトーナメント戦とは、アカデミーを卒業する希望者で行われる魔術を用いた戦闘対決である。そこで優秀さを認められた生徒は、そのまま魔術師や騎士として採用されるのが学園の恒例となっていた。
魔力が弱いとされる女性が出場するなど前代未聞だが、ルール上禁止されていることではない。ナディアの目標はそこで己の魔力を売り込み、女性として初めての国家魔術師への道を切り開くことだった。
アカデミーは男女共学だが、女性は基本的な魔術の授業を受けるだけで、専門的で高度な魔術の授業を選択する女子生徒はいない。
勝ち気な瞳の少女も目の前の教師がいなければ、男子生徒の授業を盗み見たり、図書室で書籍を読み漁ることでしかその知識に触れることができなかっただろう。
お団子頭の生徒は、鋭い眼光で教師を見上げる。
「少し他人より優れている程度では、不十分です。魔術を愛する国家魔術師であっても、そこに女性蔑視は存在していますよね? 圧倒的な力の差が必要です。私が国家魔術師になった後にも、口を出す隙を与えないような圧倒的な差が」
熱く語る少女を前に、教師は呆れた表情を浮かべる。
「それで、作戦はあるのですか?」
「私の課題は属性魔術を使う際に多くの魔力を消費してしまうことと時間がかかることです。ですから、初戦は魔力消費の少ない詠唱魔術を的確に相手に打ち込み、勝ち進んだところで属性魔術を開放しようと考えています」
会場で観客が驚き、どよめく姿でも想像しているのか、少女の目が星のように輝いた。
属性魔術は生まれながらに会得した術式とも呼ばれ、詠唱も術式も必要とせずに魔力をエネルギー変換できる能力のことだ。これは各々能力が異なっており、一部の例外を除いて水、炎、風、氷、雷のいずれかに属する術式を持っている。
魔術式を省略して使うことができるので、魔術発動までの時間が短く、操作性が高いなどの利点があげられるのだが、少女の持つ属性魔術には変わっていた。魔力の消費量が多く、発動までに時間はかかる上に細かい操作性に欠ける。欠点だらけのようだが、それでも彼女は特別だった。
長髪の教師は、眼鏡の奥で目を細めた。
「いいえ、ナディア。最初から多くの注目を集めることになりますから、あなたの属性魔術を一番に見せるべきです。例え初戦で敗退しようが、誰もが一つしかもたない属性魔術を二つ見せれば、それだけであなたは優勝に等しいものが得られます」
通常、属性魔術は一つしか持たないが、ナディアは氷と風の二つの属性魔術を持っていた。
ナディアはいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「私が初戦で負けてもいいようにですか?」
「とんでもない。初戦で、皆を君の虜にするためですよ」
長髪の教師は自分でも気づかないうちに悪魔的で妖艶な笑みをこぼしていた。
六つ目の属性魔術。極稀に、五大属性以外の魔術式を持って生まれる者がいる。偉大なる救世主たちは皆六つ目の属性魔術を持っていたと言われている。
教師はナディアが二種類の属性魔術を使えるのは、六つ目の属性魔術に当てはまるからではないかと考えていた。
つまり彼女は、女でありながら救世主に値する逸材なのだ。
ナディアは自信に満ちた表情で拳を胸にあてる。
「この前ご教授頂いた身体強化と盾、気配抹消もすでに使えるようになりましたから、大丈夫です。もっとも、気配を消してから不意打ちなど、あまり使いたくはないのですが……」
不服そうにナディアはうつむく。教師はため息交じりに彼女を諭した。
「正々堂々戦うのは結構ですが、それでどうにかなる相手だけありません。戦う手段はいくらでも持っていたほうがいいですよ。優勝を目指すのならなおのことね」
自分の言葉にナディアが力強く頷くのを確認すると、教師は提案する。
「すでにその三つがつかえるのなら、実際の現場を視野に入れて、卒業までに感覚強化を覚えておくといいですよ。国家魔術師の最初の任務である救助活動の現場で、救助者の発見に役立ちます。最初の任務で手柄を立てれば、周囲に圧倒的な差を見せつけることもできるでしょう?」
愉しそうに目元を緩める教師に、ナディアは真剣な表情で瞳をうるませた。
「誰にも頼ることができなかった私がここまでこれたのはウィントス先生のおかげです。心から感謝致します」
ナディアは制服の端を持ち上げて深く礼の姿勢をとった。
「そう思うのでしたら、もう出会ったときのような無茶はしてはいけませんよ」
教師がナディアに出会ったのは、一年前の夏至の祭りの夜だった。自分の意思に反し、借金返済のために任期付教師になったその日、彼女が塔から飛び降りた現場に居合わせた。あとから、無許可で風を操る魔術を試していたのだと聞かされて仰天した。
「帰省や夏至の祭りで人がいない日を狙ったのですが……」
ナディアに悪びれた様子は微塵もない。
「何を言っているのですが、考えるべきはそこではないですよ。失敗していたら、大惨事だったんですからね!」
思い出して冷や汗を浮かべる教師をよそに、ナディアはにっこりと満面の笑みを浮かべる。
「そんなことにはなりません。実際、ウィントス先生が来られなくても、大丈夫でしたし」
自信をもって言い切る少女に、苛立ちを覚えて教師の眉がぴくりと動くが、過去を振り返ると呆れ果てて遠い目になった。
「そうですね。君は邪魔するなと僕を叱責したくらいですからね」
「恥ずかしいですわ」
ナディアは頬に手をあててはにかんでみせるが、恥じらいは微塵も感じられず、むしろ茶化して楽しんでいるように見えた。
「さて、今日は最後に風の属性魔術をみて終わりにしましょう。使えるといっても、問題点だらけですからね」
教師の言葉にナディアは真剣な表情で頷いた。体を本の山に向け、唯一開きっぱなしの本に向けて手をかざす。魔力にそよ風のイメージをのせる。
教師の結った髪の先が揺れたかと思うと、部屋に風が吹き抜け、ナディアの制服の裾がはためいた。ひらいた本のページが次々にめくれて、山になっていた本が斜めに姿勢を崩した。
ナディアは悔しそうに唇を噛み締めた。二つの属性魔術が使えると言っても、属性魔術の利点である速さと正確性に欠けている状態では誰も認めてくれないかもしれない。
そんな焦りを見せまいと、ナディアは教師に背を向けて崩れ落ちそうな本の山を片付け始める。
女子生徒の後ろ姿を見つめたまま、教師は表情を険しくした。まだ形になっていないとはいえ、彼女は生まれながらにして才能に恵まれ、女にしてここまでの力を手に入れている。魔術を探求する者として、その恵まれた才能は妬ましく胸の奥深くにふつふつと沸き起こる感情があった。
しかし同時に、彼女は教師の希望でもあった。たぐいまれなる才能を持つ彼女なら、この世界を変えてくれると期待していた。
彼女が、あの事件を起こすまでは。
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