挿話 野心
ナディアは形の良い唇を品良く曲げ、にっこりと淑女の微笑みを浮かべてみせた。
「これもすべて、不出来な私をずっと支えてくださったお母様のお陰です。心から、感謝いたします」
そう言いながら、ナディアは感激のあまり手を握りしめてきた母の手を握り返した。
顔を間近に寄せて見つめ合うと、シワの増えた母の目尻に水が玉を作っているのがわかる。それを見て、自分のためならば流す涙も残っていたのかとナディアは胸の内で母を嘲笑った。
母の後ろに控える年老いた女の使用人に視線を向ける。幼い頃からナディアの世話を焼いてくれている彼女も涙ぐみ、鼻をすすっている。かすかに震えるその手には、蛇が自分の尾をくわえる紋章の封蝋印がおされた手紙が握られていた。その紋章に、ナディアの笑みが不敵なものを含むが、すぐに純粋で清らかな微笑みに戻る。
不意に母に手をさすられて視線を戻すと、母は小さく頭を左右にふった。
「違うわ、あなたの努力の賜物よ。まさか本当に合格するなんて、誇らしいわ、ナディア」うっとりと告げた後で、母の顔が真剣なものに変わる。「私も、あなたの努力に見合う縁談を用意しなくては。今日はこれで失礼するわね。あなたはこれから、お父様に挨拶に行くのでしょう?」
「はい」
父はもうずいぶんとナディアと母の住むこの館へ足を踏み入れていない。そして今夜の食事にも母が呼ばれていないことを察したナディアは余計なことは言わずに短く返した。
使用人が母のために部屋の扉を開けると、廊下の壁に控える男の姿があった。体格はいいが、騎士や兵士というには軽装な格好の男だ。護衛という名目で雇っている者の一人であり、母のお気に入りである。
そんな男に視線をやることなく、ナディアはお手本通りの淑女の礼で母に別れを告げる。
ナディアをひとり部屋に残して、扉は閉まった。扉が閉まる音の余韻を楽しんだ後、ナディアはスキップしてそのままくるくると楽しげに回った。藍色の仕立ての良いドレスの裾が広がり、ふわふわと揺れる。
今日、ナディアの元に王都のアカデミーへの入学許可証が正式に届いた。本来、王都のアカデミーは王族そして不浄の魔物と戦ったとされる救世主の血筋をひく有能な者たちのための学び舎である。それが数年前から、優れた魔力をもつ者や学業成績が優秀な令嬢にその門をひらいており、ナディアは見事その成績が認められたのだ。
母の去った後の閉ざされた扉を見つめながら、ナディアは悪女のような笑みをたたえる。彼女の心は母の監視下からようやく抜け出せるという開放感に満ち溢れていた。
幼い頃から一方的に魔力を使うことを禁じられ、8歳のときには父に内緒で結晶化まで受けさせられた。なぜ神から愛された証である魔力を奪われるのか、理解できなかった。けれども幼い子供が母に逆らえるわけがなく、ただ従うしかなかった。
母の真意を知ったのはその翌年だ。母と参加したお茶会で、少し年上の令嬢が大人たちの目を盗んでこっそりと教えてくれた。
「女の子は、魔力を勉強しても無駄よ。ほどほどでいいの」
そう言われ、ナディアは眉間にシワを寄せてたずねた。
「どうしてですか? 魔力は、民を守るための力でしょう?」
令嬢は待ってましたとばかりに笑みを浮かべて、幼いナディアにもわかるように説明してくれた。
「ダメなのよ。魔力が優れていると、いい殿方に巡り会えないもの。私達はいつか素敵な殿方と結婚するでしょ? その時、殿方よりも強かったら、断られちゃうわ。だって、強い女と結婚したがる男はいないもの。プリンセスは、か弱くて守ってあげたくなるような可愛げがある方がいいのよ」
くっだらない。
そのとき抱いた嫌悪感は、今でも変わらぬままナディアの中に根付いている。
更に歳を重ねて、家督を継ぐ男の子を産めなかった母の家庭内での立場というものも理解した。第二夫人が待望の長男と次男を産み、父の愛情は一気にそちらに向けられて、さぞかし肩身の狭い思いをしただろう。
娘が名家に嫁ぐことによってーーグラチェス家に貢献することによって、己の待遇も変わってくるのだから、必死にもなるというものだ。
所詮、あの人は娘を道具としてしか見ていない。
ナディアの深緑の瞳がより一層深みを増した。
だから、彼女は復讐を誓った。母には聞き分けの良い操り人形のような娘を演じ、ひたすらに勉学に励んで家から堂々と出ていけるように努力した。これでもっと魔力の勉強に時間を割ける。
そうしてアカデミーで十分な力を得たら、性別に関係なく魔力を扱えることを証明し、くだらない風習を終わらせてやるのだと心に決めていた。この力は、バカバカしい理由のために押さえつけて良いものではないのだから。
母親や意地悪な同級生たちの顔は、彼女の胸の奥に熱くて行き場のない感情を巻き起こし、彼女の使命感に火をつけた。
女として魔眼を持って生まれた自分にしかできないことだ。ナディアは背筋を伸ばすと、父にアカデミー合格を報告するために扉を開いた。
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