1−12 異変
カーテンがない窓のせいで、リコは瞼越しの朝日に顔をしかめた。目もろくにあけないまま、感覚だけを頼りに枕元の靴下を掴みとり、ベッドの縁に座って素足を靴下とブーツに突っ込んでいく。
日中は掃除と洗濯、そして情報収集と魔力操作に体力を使い果たしてしまうせいか、リコは自然と規則正しい生活を送っている。
ルーフスとの同居生活が始まって二週間が経ち、外に出ることがない肌は色白のままだが、顔の血色は良く健康的な体つきになってきた。
灰色だけだったクローゼットには、彼女の要望により新たに落ち着いた色のワンピースが数枚加わった。リコは買ってもらったばかりの群青色のワンピースを手に取り、同じく買い与えられたヘアブラシと銀色の髪留めで黒髪をまとめて身支度を整える。
部屋を出る直前、リコは先日まで空だった本棚に視線を向けた。今は新たに増えた手芸用品や一人用のボードゲームが陳列されている。どれも頼みもしないのにルーフスが買ってきたものだ。一人で屋敷にいるのは暇だろうから、ということらしい。
「絶対に、この屋敷から出したくないのね」
リコは呟くと足早に階段を降りて調理場へと向かった。
「おはようございます」
調理場に足を踏み入れると、卵とチーズそしてハムの焼ける匂いが出迎えてくれた。窓から差し込む朝日を浴び、ルーフスはこちらに背を向けてコンロの前に立っている。フライパンに視線を落としたまま「あぁ」と短い返事をして、フライパンを巧みに操ってオムレツを返した。
リコは青年の後ろを通り過ぎ、大皿を2枚取りだすと調理台の上で放置されていたサラダを皿の隅に盛り付けて、仕上げをしやすいようにルーフスの近くに置いた。
グラスに飲水を用意していると、ルーフスが大皿に手を伸ばしてチーズ入りオムレツと厚切りのハムを盛り付け始める。リコがテーブルにグラスとカトラリーを並べ終えたタイミングで、彩りの良い朝食のプレートがテーブルの上で定位置についた。二人は流れるような共同作業を終えて、無言のまま各々の席に腰をおろした。
実に息の合った行動だが、彼らは目配せをしたり笑顔を浮かべたりといったことは一切しない。穏やかというより冷え切った空気の中、同じタイミングで食べ始め、最初に沈黙を破ったのはリコだった。
「新しい服、ありがとうございました。すごく気に入りました。ブラシも髪留めも嬉しいです」
リコは落ち着いた様子で淡々と感謝を述べる。
最初は彼に自分の本心を見抜かれてはいけないと緊張していたが、心を無にして何も知らない従順な少女を演じていたらいつの間にか馴染んでいた。
ルーフスはにこりともせずに口をひらく。
「欲しいものがあるなら、なんでも言うといい」
容姿端麗で冷たい雰囲気を漂わせる青年は、リコのために毎日手料理を振る舞い、あれこれ買い与えてくれる。
しかしただ一つ、屋敷から出ることだけは許してくれない。
そして外出だけでなく、ルーフスは町のことを含めてこの世界について教えることを拒み、質問の大半を「必要ないこと」として切り捨てた。
「もう一切れ、いるか?」
視線をあげると、ルーフスが自分のハムとリコに交互に目をやった。まるで子どもを気遣う親のようだが、リコの目には太らせてから食べようと舌舐めずりしている怪物に映る。
「いいえ。ずっと家の中にいるだけなのでこれで十分です」
「遠慮するな。食べたいだけ食べればいい。おまえはもう少し、肉をつけた方がいい」
嫌味のつもりで言ったのだが、通じた様子はなかった。
「もう、お腹がいっぱいなんです」
リコは眉尻を下げ、困った表情で断った。
赤い瞳が、心配そうな哀しげな色を含む。リコはオムレツを咀嚼しながら青年の小さな変化を感じ取った。拒絶に対する悲観したものではない。遺跡で出会ったときから見せる、哀れむような視線だ。
リコは食事に視線を落とした。自分にどんな利用価値があって生かされているのか、まだはっきりとわかったわけではない。だがルーフスの哀れみの視線に、自分が大蛇に捧げられる生贄ではないかと恐怖心が煽られる。こちらを気遣うような態度はすべて贖罪の気持ちからで、いつか大蛇に食べられる自分を哀れんでいるのではないかと考えてしまうのだ。
朝食の片付けを終えて二階の自室から外に目をやると、外套を羽織ったルーフスが森に入っていくのが見えた。
ルーフスは買出し以外の日は遺跡に出かけ、帰ってくるのは夕方だ。遺跡の管理と調査とやらは彼一人で行っているらしく、他の人の話を聞いたことも見たこともない。少女の瞳に浮かぶ懐疑的な色がより深みを増した。
ルーフスの姿が見えなくなると、リコは日課である地下の倉庫に向かう。
「灯火」
暗闇に足を踏み入れると同時に唱えると、炎の灯りが現れて足元を照らした。
リコは魔力を取り込むたびにナディアの記憶から魔力に関する情報を得ることができた。
この世界では、魔力と呼ばれるエネルギーを他のものに変換する行為を魔術と呼んでいる。
魔術を発動させるには魔術式というものが必要で、その方法は四つある。一つ目は言葉に術式が組み込まれている言霊で発動する、呪文。二つ目は魔力で魔術式を描く無詠唱魔術。三つ目はあらかじめ特殊な方法で布や地面などに魔術式を描いておき、そこに魔術を流す魔法陣。四つ目は神の祝福によって魂に刻まれた術式で、魔力を直に他のエネルギーに変えられる属性魔術だ。
リズミカルな足音を奏でながら、慣れた足取りでリコは階段を降りる。
さらにリコは魔力を感知する感覚も習得した。
魔力を含む石は魔石と呼ばれているが、これは大きさと含んでいる魔力量は比例しない。リコは同じ空間にいるだけで、その石が含んでいる魔力量の大小がわかるようになっていた。
そして魔術によって消費される魔力量や自分の中に残っている量を認識し、吸収する魔力量も自分でコントロールできるようになっていた。ただ唯一、自分の中の魔力が底を尽きたときには意思に関係なく、体が近づいただけで魔力を取り込んでしまう。倉庫に初めて足を踏み入れたとき、魔力を取り込んだのはその性質が原因だろう。
倉庫に入ると、目立たないように小さくてより多くの魔力を含むものを物色する。
魔力に関して目覚ましい成長がある一方で、リコがこちらの世界に呼ばれた理由についての手がかりはまだ何もなかった。
取り戻した記憶は、王都にあるアカデミーに入学するために寮生活になったことと男尊女卑な時代背景、そして母との不仲な記憶がいくつか増えただけだ。
前世でも親子関係が芳しくないことを知り、親から愛されないのはもはや運命なのかとリコは自嘲する。
〈結晶化〉は体内の魔力を集め、魔石に変える魔術だ。それは主に、反逆者から魔力を奪うために使われる。
ナディアの母親がどうして魔術から娘を遠ざけようとするのか、リコには理解できない。魔力は神様から愛された証、いわば祝福だというのに。
魔石を物色するリコの視線が止まった。考えても答えは出ない。それよりも大切なのは、召喚者を探すこと、そのために必要な力をつけることだ。リコが木箱から派手な耳飾りを選び取ると、倉庫にいるはずのリコの体を、夜風がなでるように通り過ぎていった。
リコは荒れた映像からできるだけ情報を集めようと、集中する。遺跡とは異なる堅牢な建築物の中に立っていた。太い柱が四角で天井を支えているが、壁がない。月明かりが石造りの床を照らし、夜風が賑やかな音楽と喧騒が混じったものを運んで通り過ぎていく。
周囲に人の気配はない。こんな暗い時間帯に、彼女が外にいるのは初めてだ。目線は今のリコとあまり変わらない。
ナディアの足が、ゆっくりと前に進みだした。
建物の縁に近づくと、遠くに月明かりを反射する暗い海が見えた。目もくらむような高さの塔にいる。手前には、人工的な建物や木々が濃い影をつくっているが、一箇所だけ明るい光を放っている場所がある。陽気な音楽の発生源はそこだろう。
ナディアの足は進み続け、ついには転落防止用の段差の上にのぼる。ワンピースの裾がはためいて音を立てた。
ナディアの視線が夜空に向けられる。満点の星空は幻想的な雰囲気だが、ナディアの様子がおかしい。母親との不仲、一人で高い塔に登って不安定な場所に立った彼女の心情を察して、リコは慌てふためいた。自分にダメージがないとわかっていても、恐ろしくて動くはずのない体が震えている錯覚を起こす。
リコの抵抗虚しく、まるで夜空を散歩するようにナディアの足が宙に飛び出した。両足は支えをなくし、体が空中で止まったような感覚があったかと思えば、体は重力により地上へと引き寄せられる。「助けて!」とリコは思わず声に出せない叫びをあげた。
視界がすごい勢いで下へ下へと通り過ぎ、自分の体を吹き抜けていく風の音に、鼓膜が激しく振動する。
そんな状態で唇が動いたのに気づいたのは偶然だったが、風の音で何と言ったのか全く聞き取れなかった。瞬きほどのわずかな時間、あるはずのない静寂を感じた。自分をとりまく風が不自然に動き、体を持ち上げたように思えた。
だがその直後、視界の端に黒い影が現れ、誰かの腕がナディアの背中と膝の裏を支えると、体を持ち上げようとしていた風はたちまち消えてしまった。
「何を考えている!」
凄みのある怒りに満ちた男性の声がした。息遣いを感じるほどに距離が近い。ナディアは目を丸くして驚いている。リコも同じ気持ちだ。なぜならその人物は、ナディアを抱えたまま宙に浮いているのだから。
ゴクリと喉を鳴らしたのは、リコだった。気づけば、ナディアの記憶から意識が倉庫の自分の体へと戻っている。
ナディアが人生を終わらせようとしていると思ったが、誰かが助ける直前、確かに彼女の魔力が働いていた。おそらく風を操る魔術を試したかったのだろう。
飛び出ようとする勢いで鼓動を打つ心臓をなだめるように、リコは手を胸に当てる。遅れて足から力が抜け、へなへなとその場に腰を落ち着ける。
「し、死ぬかと思った……」
声と足を恐怖に震わせ、リコはしばらくその場にうなだれた。
◇ ◇ ◇
遺跡から戻ったルーフスが、手際よく夕食を用意している。蒸したジャガイモを潰し、ソテーした鶏肉にトマトソースをかける。
リコは、その様子を背後から関心しながら見ていた。開け放たれたドアから入ってすでに10分以上が経過しているが、ルーフスがリコに気がつく様子はない。
見飽きたリコが一歩踏み出して魔力を解除した途端、驚いたルーフスが手にしたスプーンを落とし、カチャンッと金属音を響かせて振り返った。赤い瞳を大きく見開き、初めて焦りの感情をみせた。
思った以上に驚いた青年の反応にリコもまた驚くが、ごまかすためにどうにか口をひらいた。
「お、驚かせてしまいましたね。すみません」
「いつからそこに?」
ルーフスは警戒したように質問する。リコはいきなり魔術をといたことを後悔した。
「いま、来たところですよ」
リコはできるだけ顔を背けるようにしながら、自然を装って出来立ての食事をテーブルへと運ぶ。
自分の部屋から〈気配抹消〉を使ってここまで来たが、全く気取られなかった。リコの魔術が、ルーフスに対しても十分に有効であることが証明され、彼女は内心ほくそ笑む。
黒髪の少女は、この屋敷から逃げ出すための力を着実に手に入れていた。
しかし翌朝、いつものように身支度を終えて調理場に入ると、そこに青年の姿はなかった。ただテーブルの上に用意された一人分の朝食だけが、リコを待っていた。
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