1−10 囚われの身
体が重い。しかし目を閉じても、興奮して眠れる気配はない。リコはベッドから体を起こして背中を壁にもたれかけた。
いつ降り出したのか、雨音が聞こえる。厚い雨雲のせいで部屋は仄暗く、ルーフスはまだ帰宅していない。丸テーブルの上で蝋燭からロウが垂れ落ち、炎が揺らめいた。
美しい氷の槍は感動して眺めているうちに霧散してしまった。その後、魔力を使った影響なのか急激な疲労に襲われてどうにか部屋まで戻ってきたのだった。
疲れているにも関わらず、もっと魔力を使いたい衝動に駆られる。自分に与えられた特別な力。リコは衝動を紛らわそうと思考を働かせる。
『助けて』
最初に助けを求めてきた女性の声は、ナディアの声によく似ている。
脳裏に大蛇の姿が蘇り、リコの腕に鳥肌がたった。
恐らく、彼女はもうこの世界にいないだろう。
死してなお、ナディアという人物は自分に何か伝えたいことがあるに違いない。そのために自分に記憶をみせているような気がしてならなかった。そしてそれが自分がこの世界に呼ばれた理由なのだろうとリコは結論にいたる。
召喚者なら、すべてを知っている。
黒い瞳に強い意思が宿る。
召喚者に会わなくてはならない。そのためにも、町に出て情報を集める必要がある。
なぜ青年が召喚者を避けているのかわからないが、希少な魔力が使えると知れば考えを改めるかもしれない。自分がこの世界にとって必要な存在だと認めてくれるかもしれない。
この力は、神様に愛された証なのだから。
扉の開閉音を聞きつけ、燭台を手に階段を降りる。玄関ホールから水滴が点々と続いていた。雨の中を帰ってきたせいだろう。その滴は調理場のドアまで続いていた。中から物音がもれている。
ドアを開けると、タオルをかぶった姿の青年が、買ってきた品を棚に並べているところだった。
外套は椅子の背にかけられ、滴り落ちた水が床に小さな水たまりをつくっている。テーブルには大きな紙袋が2つと、火を灯した燭台が並んでいた。
「おかえりなさい。雨の中、ありがとうございました」
「あぁ、いま戻った」
振り向きもせずに素っ気ない返事が返ってくる。リコは前に進み出た。緊張と不安で鼓動が早まる。できるだけ明るく、とリコは口角をあげる。
「今日、すごいことがあったんですよ!」
ルーフスの赤い瞳が、まっすぐにリコに向けられた。せっかく作った笑顔が硬直し、冷たいものがリコの背筋を走る。
ーーナディア。
彼女を呼ぶあのおぞましい声が蘇る。血を彷彿とさせる深紅の瞳。喉に声がつっかえて出てこない。不自然に思われてしまう。早く言葉を続けなければと思い、喉を絞るようにリコは言葉を紡いだ。
「部屋を掃除したら、お鍋がいっぱいになるくらいの量の埃が出てきたんです。あんな大量の埃、初めて見ました」
とっさに出てきた言葉は、考えていたものとは違うものだった。引きつった笑顔を顔に貼り付け、ははは、と乾いた笑いを付け加える。
「長いこと使っていないからな」
青年はぎこちないリコに疑問に感じた様子はなく、テーブルの上の紙袋のひとつを渡した。
「必要そうなものを見繕ってきた」
「ありがとうございます」
緊張感を隠せないまま、リコは軽く頭をさげる。
「早く着替えてこい。すぐに夕食する」
トゲトゲしい言葉に追い出されるようにして調理場をあとにし、リコは自分の部屋に戻った。
あの赤い瞳を見たら、怖くて話せなかった。彼に自分が力を持っていることを知られてはいけない気がしてしまった。
食事も服も用意してくれて、体も気遣ってくれる。言動が冷たいだけで彼は親切なのに、あの赤い瞳はどうしても大蛇を彷彿とさせる。染み付いた恐怖を振り払うように、リコは首を横にふった。
汚れた灰色のスウェットを脱ぎ捨て、紙袋の中をあさる。ショートブーツに着替えがいくつか入っていた。
ウエストに絞りがあるワンピースに袖を通し、足の裏の汚れをはらって靴下とブーツに足を突っ込む。見事、上から下まですべてが灰色のコーデができあがった。
リコは眉間にシワを寄せて他の衣類にも目を向ける。すべて濃淡に違いはあれど地味な灰色だ。わざとこの色を選んだとしか思えない。
与えられる分際で文句を言える立場ではもちろんないのだが。
リコのネガティブモードが発動し、おまえには地味なこの色がお似合いだ、と侮蔑な眼差しを向けるルーフスの顔が頭に浮かぶ。だが、すぐに彼がそういうことを考えるはずがないと打ち消した。どちらかというと、何の関心もないだろう。
今度こそはきちんと話そうと心に決め、リコは燭台を手に階段を降りた。
遠くでごろごろと空がたてる不機嫌な音に肩が強張る。明かりは蝋燭の小さく頼りない炎だけ。森の奥にある古くて年季の入った静かなこの屋敷にはぴったりな天候に思えた。
急にすーっと寒気がして、リコはワンピースの裾を揺らしながら足早に調理場に向かった。
「どうした? 気に入らなかったか?」
調理場へ入るなり、ルーフスから声をかけられた。恐怖で顔が青ざめていたのかもしれない。
リコは慌てて否定する。
「いいえ! いいえ! そんなことはないです。シンプルで私好みのデザインです! この色は町で流行っているんですか?」
「その色が好きなんじゃないか?」
遠慮がちに聞くと、ルーフスは首を傾げながら椅子に腰掛けた。テーブルの上には美味しそうな焼色がついた魚のソテーがのっている。リコは小首をかしげる。好きな色を質問された覚えも話した覚えもない。
ルーフスの顔が不機嫌そうに歪められる。
「その色の服を着ていただろう?」
よれよれの灰色のスウェット。
合点がいったリコは思わず声をあげる。
もとの世界から着てきた部屋着のスウェットは、確かに上下とも灰色だ。そういうセットであり何の思い入れもなかったのだが、ルーフスはリコが好きな色だと思ったらしい。
「なるほど。お気遣い、ありがとうございます」
彼の意外な気遣いに、リコの緊張はほぐれた。やはり、彼は優しいのだ。
「その身を預かると約束したから、果たしたまでだ」
不満そうな表情で冷たく言い放たれるが、ルーフスの不器用な優しさに、少しでも役に立ちたいとリコは素直に思った。瞳が似ているというだけで、彼とあの大蛇は何の関係もない。
リコは弾む思いで席についた。
「次に町に行くときには、私も一緒に行きます! きっとお役に……」
「必要ない!」
ルーフスの怒号が言葉を遮り、リコは反射的に首をすくめた。
一瞬、調理場全体が真っ白になるほど明るくなり、続いて地響きのような雷の音が鳴り響いた。わずかに揺れているのは床なのか、それとも自分の足なのかリコには判別できない。
調理場の窓を叩きつけるように雨音が強まった。
ルーフスの赤い瞳には、有無を言わさぬ獰猛な強い光が宿っている。彼は低くうなるような声で続ける。
「お前は何も案ずることはない。安全なこの場所で、静かに帰る日を待てば良い」
赤い瞳は一段と鋭さを増し、危険な色が浮かんでいる。気のせいだろうか。ほんの一瞬だけ、彼の瞳孔があの大蛇のように細長く見えた。
「いいな?」
まるで喉元に刃物を突きつけられたかのように、リコの背筋は凍りついた。問いかけているのに、最初からこちらの意見などはなから求められていない。
リコが静かに頷くと、赤い瞳が満足げに細められて煌めいた。珍しく彼の口元がほころび、落ち着いた優しい声で話しかけられる。
「さぁ、食事にしよう。おまえは、もっと肉をつけた方がいい」
穏やかなその声の底にはみえない闇を含んでいるようで、自然と体が彼の言うことに従う。そこでようやく、リコは自分が囚われているのだと理解した。
はやく、逃げ出さなくてはいけない。喉がゴクリと鳴る。引きつった笑みを浮かべ、彼の手料理をぎこちなく口に運ぶ。
リコに沸き起こる恐怖と覚悟を覆い隠すように、強い雨音と雷鳴が鳴り響いていた。
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