プロローグ 日常の終わり
最近、悪い夢をみる。
夢でくらい楽しいものをみせてくれたらいいのに、私は誰もいない部屋で母に頬をぶたれる。どうして母が怒っているのかはわからない。毎回みるのはその場面だけ。
夢の中の私は幼稚園くらいの年齢で、母の激怒する様子に怯えて泣いて許しを乞うことしかできない。実際、そんな風に母に暴力を振るわれたことはない。
現実の母は、私に冷たい目を向けて深いため息をつく。そして、「本当に何にもできないわねぇ」とか「お姉ちゃんはできるのにねぇ」とか「あなたっていう子はまったく……」と心にチクチク刺さる言葉を並べる程度だ。
また別の夢では、前後を挟まれて私は暗い階段を降りていく。誰かが杖でも持っているのか、金属のカツンという特徴的な音が響いている。
案内された部屋に入ると、中には家具も何もなくて床の中央に何かが描いてある。四方からその床に円形に描かれたものの中央に向けられて伸びる鎖の拘束具を見て、背筋に悪寒が走る。
そして目が覚める。何が起きたのか記憶は曖昧だが、すごく嫌な感覚だけが残っている。周囲には人がいたのに、「やめて」「許して」と懇願しても誰も助けてはくれなかった。
出来の悪い自分を、無意識に自分で罰しているのだろう。
真冬の痛いほどに冷たい空気がやわらいできた2月、学校へ向かう私の足取りは足枷でもついているのかと思うほどに重い。
私は、何度もあくびを噛み殺しながら歩いていた。昨夜も悪夢にうなされて眠った気がしない。
しかし、朝から頭が働かないのも、体が重いのも悪夢のせいだけではない。
赤信号で、見知らぬ社会人や同じ制服の学生たちとともに立ち止まる。
バレンタインを目前に控えているせいか、周囲から聞こえてくる会話も浮足立っているように感じるものばかりだが、私には関係のない話だ。
目の前をとめどなく車が行き交っている。
今、横断歩道へ駆け込めば、全て終わるだろうか。
聞きたくもない楽しげな会話を右から左に聞き流しながら、ぼんやりと考える。
鳴り響く車のクラクションやブレーキ音、穏やかな朝を切り裂くような誰かの悲鳴。体には強い衝撃がはしり、打ちつけられた手足はあらぬ方向へ曲がり、脳みそが弾けて血溜まりが広がるだろう。
そこまで想像すると、理性が現実を訴えかけてくる。
運悪く轢いてしまった人の人生を狂わせ、この場に偶然居合わせた人々にトラウマを植え付けてしまうのは、あまりにも申し訳ない。……違う。全部後付けにすぎない。本音は、ただ死が怖い臆病者なだけだ。
苦労せず、楽に終わらせられたらいいのに。
青信号に変わり無機質な電子音がそれを知らせると、他人同士の集団が一斉に歩きだす。
その集団の中で歩きながら、自分ひとりが異質な存在に思えた。
別に、いじめられているわけじゃない。誰かに暴力をふるわれているわけでもなく、病気で苦しんでいるわけでもなく、ただ、消えたい。
生きたくても生きられない人がいるのに、どうしてこんなことを考えるのか、自分にもわからない。命がもし譲れるものならば、譲ってあげたい。私の人生を代わってあげられるのならば、代わってあげたいと思う。明日なんて、私はいらない。私に、生きている価値なんてない。
校門をくぐり、下駄箱で履き替える。朝の挨拶が飛び交い、ガヤガヤした喧騒がすぐ近くなのに遠くに感じる。
「おはよう」
明るい声に視線を向けると、同じクラスの女の子が笑顔を向けてくれていた。
ビューラーで上げられた睫毛は大きな目をさらに強調し、可愛らしい唇は色づいている。直感で、私とは違う世界で生きているのだと感じる。愛され、大事にされ、友人との楽しい時間を過ごして妬みや不安、孤独とは無縁の人生なのだろう。
私はどす黒い感情を隠して、弱々しく口角をあげて挨拶を返した。
高校1年の3学期も折り返し地点だというのに、挨拶を交わす程度の人間関係しか築けていない。いや、積極的にクラスに溶け込もうとするわけでもない自分に挨拶をしてくれる人がいるだけで有り難いと思うべきか。
クラスメイトを下駄箱に残して先に教室に向かいながら、次第に心配になって反省する。
挨拶はうまく返せていただろうか。無愛想ではなかっただろうか。
なじまなくてもいい。せめて浮いていなければそれでいい。
階段を登って教室へ向かう。
廊下の掲示板を見ると、胸が締めつけられる。人工芝を連想させるその壁には、毎回テストの順位が張り出される。
この1年で自分の実力を思い知った。中学では常に上位だったのに、姉と同じ高校に入学した途端、頑張っても順位は学年の真ん中を上下するだけ。
勉強で他人より優れていないのなら、自分にはもう何もない。
内気でクラスでも地味な存在の自分の価値について考えていたら、教室にたどり着いていた。
引き戸のドアは開いており、クラスメイトたちが楽しそうに談笑している姿が見える。
食欲がなくて朝ご飯を牛乳だけにしたのがいけなかったのか、めまいがする。いつもより、心臓の鼓動が早い。苦しくて、体が大きく息を吸い込んだ。
「どうしたの?」
教室の前で立ち止まっていた私に、背後から声をかけられた。振り返ると下駄箱で挨拶してくれたクラスメイトの心配そうな瞳と目があった。
普通に返事をしないと。
ーー大丈夫だよ。
そう返事がしたかったのに、体はただ空気を吸い込むだけだった。そのスピードが徐々にあがっていく。
目の前の女の子が動揺する気配がした。異変に気がついた周囲も、何事かと騒ぎ出している。
普通に。普通に。普通に。
しかし、呼吸はもう自分ではコントロールできなかった。吸う。吸う。吸う。吸う。吸う。吸う。吸う。吸う。吸う。吸う。
普通ですらいられない自分に落胆する。苦しくて悲しくて気づけば、涙が頬を伝っていた。
消えたい。消えてなくなってしまいたい。
惨めで愚かで格好悪い。情けない姿に、心のなかで何かがばらばらに壊れていくような感覚があった。
それが、私が高校に行った最後の日だった。
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