人間としての生活の悪癖
「昨今…世間を騒がしている…いじめについてですが…」
職員室。
昼休み、特別会議として、職員全員が集まっていた。
「我が校では、まだ目立った事例は、確認されていません」
教頭の事務的な口調に、淳はせせら笑った。
「本田先生…何か?」
教頭は、淳の方を見た。
一番端の席に座っている淳に、他の先生たちの視線が向く。
淳は肩をすくめ、
「何もないですよ…」
そして、クククッと笑うと、
「何も見てませんから…」
「本田先生!会議中です。こんな時に笑うなんて、不謹慎でしょ」
美術の先生である町田康子が、席を立った。
「失礼」
淳は右手で、口元を押さえた。
しかし、目が笑っている。
ゆうは、そんな淳をじっと見つめていた。
「…まあ…うちに、いじめは、ないと!教育委員会に、報告しておきます」
教頭の締めの言葉により、会議は、
大した議論もなく、終了した。
先生たちは、一斉に立ち上がり、次の授業に向かう。
「牧村先生」
廊下を歩いていたゆうに、淳が後ろから、声をかけてきた。
ゆうは振り返った。
ニヤニヤ笑みを浮かべながら、淳はゆうに近づいてくる。
「何か?」
ゆうは直感的に、淳の中に、嫌なものを感じていた。
それは…。
「いや〜牧村先生は…この学校の先生方の中で、特に!生徒に、人気があられる」
ゆうは無言で、淳を見つめる。
妙な上目遣いで、淳はゆうを見上げ、
「うらやましいぃ!」
大袈裟に言うと、大声で笑い出した。
「何ですか?」
もう授業だ。
馬鹿に構っている暇は、ない。
いきなり、笑うのをやめ、淳はゆうに顔を近づけ、
「いじめって…なくなると思いますかあ?」
淳の何とも言えない表情に、ゆうは眉をひそめた。
そんなゆうを見て、また淳は笑う。
「牧村先生…はいいなあ…本当…いい先生だあ」
「先を急ぎますので」
ゆうは、その場を立ち去ろうとした。
しかし、淳が腕をつかんだ。
「なくなりませんよ…いじめは」
にやっと、満面の笑みを浮かべ、
「なぜか、わかりますか?それねえ…ガキどもが、暇で、楽で、馬鹿で、責任感も何〜もないからですよ」
悪意だ…
この男は、悪意で満ち溢れている。
ゆうは、淳に危険なものを感じていた。
「今は塾がメインで、学校なんて…息抜きに来てるようなもんですよ」
(こんな男が教師…)
ゆうは、淳を見つめた。
「暇で仕方ないから…いじめるんですよ。いじめぐらいしかやることがない」
ゆうは、淳に一歩近づき、
「世間では…自殺する者もいるんだ。尊い命が、失われるんですよ」
「尊い…弱い奴は死んでいく…。自然の淘汰ですよ。今の世界、人間は増えすぎている。死ぬしか選択できないなら…死んだらいい」
「あんたは…教師なのか…」
ゆうは、目を見開き、淳を睨んだ。信じられなかった。
そんなゆうの言葉に、淳は大笑いする。
「教師ですよ!おかしいですか?」
「我々は、生徒を」
「先生になる試験に!生徒の為…なんて、ありましたか?」
淳は笑いながら、
「ただ成績が、よければ…いいだけだ。教え方なんて、学ばない」
ゆうは絶句した。
「ただ機械的に、成績がいいだけで…先生になった者が、何を教えられます。何もあるはずがない」
淳は、ゆうの耳に口を近づき、
呟いた。
「うわさが…広がってますよ…牧村先生の」
淳は、口元をわざわざ隠し、
「奥さんのこと…」
淳はうれしそうだった。
満面の笑みで、
「昔…キャバクラで働いてらしいですね…先生の奥さん。いいんですか?教師の妻が…」
淳のねちっこい笑みに、吐き気をもよおしながら、
それを我慢して、ゆうは微笑んだ。
「何の問題も、あるとは思いませんが」
「開き直りですか!?」
淳は大袈裟にのけぞり、
「確かに、キャバクラっていうのは、有名になりましたが…まだ、私たちより、上の世代には…」
ゆうに顔を近づけ、
「ただの水商売…普通の仕事じゃない…汚れています」
「偏見だ」
「偏見ねえ〜。聖職者の妻が…ククク」
淳は笑いながら、
歩き出した。
そして、振り返ると、深々と頭を下げ、
「勉強になりました」
また笑いながら、廊下を消えていった。
ゆうは拳を握りしめ、怒りを鎮めていた。
昼休み。
いつもの屋上で、
フェンスにもたれ、里緒菜は考え込んでいた。
目の前には、
香里奈と直樹、
祥子に、恵美がいた。
「どうしたのか?」
里緒菜の隣に、和也がもたれかった。
「何か悩んでるみたいだけど…」
「別に…」
「なら、いいんだが…」
和也は、里緒菜の横顔を見つめた。
「あ、あたしって…」
里緒菜は、和也の方を向いた。
「悩んでるように見える?」
「ま、まあな…」
里緒菜はまた考え込み…
「この前の…」
「この前の…何?」
和也は視線を、
直樹達に向けた。
楽しそうだ。
「あたしの演技…どうだった…?」
「演劇部の?」
里緒菜は頷いた。
「よかったよ。心がこもっていて、うまく演じていたと思う」
和也の言葉に、
里緒菜はまた、頷いた。
「そうよね…あれは、演技よ…。それなのに…」
あの女は…
多分
見抜いていた。
あのセリフたちの意味を。
わかるはずのない気持ちを…
それを感じられるということは…
あの女は…。
あの舞台の脚本は、
里緒菜が書いた。
秘めた思いとともに…。
そして、
その思いは叶うことなく、終わり、
架空の物語の中だけで、
里緒菜の心から離れ、続いていく。
もう…里緒菜自身とは関係なかった。
考え込む里緒菜を、和也はただ見つめていた。
その時…
屋上の扉が開いた。
里緒菜たちの空間に、入ってきたのは、黒い大きな瞳が印象的な一人の少女。
少女は、ちらっと香里奈たちを見ると、距離を取りながら、歩いていく。
途中で、フェンスにもたれている里緒菜の姿を認め、微笑んだ。
そして、
里緒菜と反対側のフェンスのもたれ、静かに、本を読み出した。
「あの女…」
里緒菜の呟きを、和也は聞き逃さなかった。
「知り合いか?」
「知らないわ」
里緒菜は、じっと少女を見つめた。
風になびく黒髪。少女は、本に没頭してるのか…
里緒菜たちを、見ようともしなかった。
昼休みのチャイムとともに、
里緒菜や直樹たちが、屋上に向かう姿が確認できた。
大体、いつも屋上に行っている。
雨でもないかぎりは。
そのことは、毎日確認していた。
後は、いつ動くかだ。
教科書を閉じ…優は、徐に席を立った。
もう賽は投げた。
あたしは、傍観者ではない。
(近づけるわ…あの人に)
優は、ゆっくりと教室を出た。
行き先はわかっている。
急ぐことはない。
胸の鼓動を抑えながら、屋上に向かった。
(何なの!)
心の中で叫びながら、里緒菜は無言で、真正面のフェンスにもたれる優を、軽く睨んだ。
別に、
昼休みの屋上…。
誰が来てもいいんだけど。
和也や直樹、
そして、
イエローホール事件で有名になった香里奈。
この3人がいる屋上には、みんな、遠慮や恥ずかしさで、堂々と入ってくる者はいなかった。
妙な空気を感じ、直樹が、里緒菜の近くに来た。
「どうしたの?」
香里奈と恵美、祥子は、今朝から続く…お笑い談義に、花を咲かしている。
「別に、何でもないわ」
里緒菜の口調に、直樹は、彼女の視線の先をたどった。
正面の女の子…。
女の子は本を読んで…
いなかった。
本から、瞳だけを覗かせて、真っ直ぐに、里緒菜を、
いや、
直樹を見ていた。
直樹は少し驚き、女の子と視線を合わせた。
この視線は…。
直樹には、思い出せなかった。
女の子は、本を下げた。
顔のすべてが、露わになる。
「!?」
満面の微笑み。
それが、直樹に向けられていた。
優は、直樹を見つめた。
それは意志表示だった。
まずは、あたしを知ってほしいという…。
目的は達した。
優は直樹を見つめながら、屋上を後にした。
「誰だ?」
和也は、出ていく優の背中を見つめながら、里緒菜にきいた。
「知らないわ…」
里緒菜は、正面に立ち尽くしている直樹の背中を見ていた。
「向こうは、知ってるようだったけど…」
「多分…」
里緒菜は、直樹から視線を外し、
「隣のクラスの子…だと思う」
香里奈たちは話に夢中で、今の出来事に気づいていない。
そんな香里奈の様子を見て、里緒菜はため息をついた。
そんな里緒菜を心配そうに、和也が見つめていた。
「ケッ」
生徒を見てると、気分が悪くなってくる。
淳は、殴りたい衝動を抑えながら、廊下を歩いていた。
いきなり、目の前の階段から、優が駆け降りてきた。
ぶつかる距離ではなかったが、淳は大袈裟に、飛び退いた。
「き、気をつけろ!」
怒鳴る淳を、ゆうはちらっと見ると、軽く頭を下げ、そのまま通り過ぎていく。
「なんだ…あの女は…」
去っていく優の後ろ姿を眺め…怒りよりも、
涎が出そうになった。
見事なラインだった。
「人としては、最低だが…体だけは…」
いやらしく、笑った。
そんな淳の横を、風のようにすり抜けて、里緒菜が早歩きで、廊下を歩いていく。
「如月…」
淳は、里緒菜の栗色の髪がなびく姿を認め、毒づいた。
「金持ちで…綺麗で、頭がいい…」
淳は歯ぎしりをし、
「ああいう女こそ…壊したい」
そう呟いた。