時と音の狭間で
「明日香ちゃん!あんたのファンって方が来てるぞ」
昔から来てくれている常連のお客さんが、店の扉を開けた。
ステージでは、音を取り戻した啓介と、
久々に阿部と原田、武田が演奏していた。
明日香が、カウンターから出て、扉に向かうと、
杖をついて、腰が曲がった老婆がいた。
「何でも…遠くからわざわざ、明日香ちゃんを聴きにきたらしい」
「ありがとうございます」
明日香は、老婆の手を取り…ステージ近くのテーブルまで、連れていく。
ちょうど演奏が終わる時で、ステージから、啓介も降りてきて、椅子の用意をする。
赤ん坊を連れた若い夫婦のテーブルと、相席になるしか、席は空いてなかった。
夫婦の了承を得て、
相席となる。
カウンターに戻ろうとする明日香に、老婆は言った。
「演奏されないのですかな?」
明日香は足を止め、
「はい…わざわざ来て頂いて、申し訳ないのですけど…」
頭を下げた。
「怪我でもなさったのですか?」
「いえ」
明日香は、首を横に振った。
「心の病かな?」
老婆は、明日香の顔を覗いた。
「だったら…あんたは、ステージに上がるべきじゃ」
老婆は言葉を続けた。
「ステージに上がって…トランペットを吹いてみてごらん…あんたなら、わかるはずじゃ」
「お婆さん…」
明日香は、その老婆の言葉より、
明日香を見つめる瞳に、なぜか逆らえないものと、
なつかしいものを感じた。
「明日香」
啓介は、明日香の肩に手を置き、
「カウンターは、俺が入るから…お前は、ステージに上がれ」
「啓介…」
啓介は頷いた。
啓介もまた、明日香と同じものを感じていた。
明日香は久々に、ステージに立った。
武田がカウントをとり、
原田のピアノが転がり、
曲が始まった。
バイバイ・ブラックバード。
明日香の初めての練習曲。
明日香のトランペットの音に、老婆の席にいる赤ん坊が、楽しそうに声を上げた。
楽しんでくれている。
明日香は、自然と微笑んでいた。
次の曲は、バラード。
I Fall In Love Too Easily。
奇しくも、それは…
明日香の初めてのステージと同じ曲順だった。
赤ん坊の笑い声に、誘われるように、
明日香は自然に…ステージを降りた。
明日香は、トランペットにストレートミュートをはめると、
赤ん坊に近づき、
優しい音色を奏でる。
明日香のパートから、ピアノに変わる。
赤ん坊は、明日香のトランペットに触れる。
嬉しそうに、楽しそうに、トランペットを触り、笑う。
また明日香のパートが来た。
(ごめんね)
赤ん坊から、そっとトランペットを離すと、
再びトランペットを吹く。
(明日香ちゃん…)
明日香の頭の中に声がした。
明日香は驚き、
声がした方を見た。
老婆が座るいる席…
そこにいたのは…。
明日香はトランペットを吹きながら、
心の中で叫んだ。
(ママ!)
そこに座っていたのは、
恵子だった。
恵子は微笑み、頷いた。
明日香の目から、涙が流れた。
恵子がそばにいる…。
演奏が終わると、恵子は静かに席を立ち、
扉へと歩いていく。
「な!」
ステージ上の阿部たちの動きが、止まる。
「母さん…」
啓介は目を見開き、
思わず、洗っていたグラスを落とした。
恵子は微笑みながら、
扉を開けた。
「ママ!」
明日香は、トランペットを持ったまま、
走り出した。
「ママ!」
外に飛び出したけど、
もう恵子の姿はなかった。
「どうした?誰も、出て来なかったけど」
後ろから声がして、明日香は振り返った。
「里美…」
扉の横の壁にもたれ、里美は腕を組んで立っていた。
里美は、明日香の手元を見て、
「やっぱり…あんたが、音楽を、やめれるわけがないんだよ」
「あ」
明日香は、トランペットを見つめた。
「ったく…あんたら、親子は…」
里美は頭をかくと、
「手間がかかる。あたしが、面倒みないと駄目なんだから…」
「里美!」
里美は、明日香を指差し、
「だ・け・ど!迷惑かけてるなんて…思うなよ!あんたの音は、いろんな人を幸せにしてるんだから!」
里美は扉を開け、
「そして、そんなあんたを、支えていることが…あたしの誇りなんだ」
「里美…」
明日香は、トランペットをぎゅっと抱き締めた。
里美はフゥと、息を吐くと、
「さっさとステージに戻れ!みんな、待ってる」
里美は、明日香に笑いかけた。
明日香は頷き、急いで店内に戻る。
扉が閉まる前に…
明日香は、振り返った。
「ありがとう…ママ」
明日香は、トランペットを握りしめ、ステージへと戻っていった。