試練
「で、オーディション受けることになったの」
ダブルケイの二階。
部屋でくつろいでいた香里奈は、
携帯で、直樹に電話していた。
「そうなんだ…如月さんから、何もきいてないけど」
「里緒菜は…反対してるから…」
香里奈は少し、心が痛んだ。
「でも…里緒菜を助けることになるから…」
「そうなんだ…」
「里緒菜には…言わないで」
「わかった…詳しい話はわからないけど。多分…如月さんは、香里奈さんを心配してるんだろう」
香里奈はベットに倒れ込み、
「それは…わかってるんだけど…。何か悪いことしてるのかあ〜っていうのもあるの」
直樹は少し…間をおいてから、
「通ったら…どうなるの?」
「里緒菜とこのイメージソングを、歌うことになると思う」
「CDにもなるんだ」
「通ったらだけど…」
香里奈は、天井をぼおっと見つめた。
「香里奈さんなら、通るよ」
直樹の言葉に、少し吹き出し、
「まだわかんないよ。あたしより、上手い人なんていっぱいいるだろうし…」
「いないよ」
「え」
「多分、いない。香里奈さん以上なんて」
「そ、そんなこと〜な、ないよ」
香里奈は思わず、ベットから起き上がり、照れながら言った。
「そんなことないよ…。俺は、そう思っている」
静かに、電話を切った。
直樹は、バイトの休憩中だった。
もう帰る時間だったが、次のバイトが、遅れていた。
後一時間だけ、働くことになった。
扉を開けて、店に戻ると、
カウンターに、珍しい女の人がいた。
グラスを傾けながら、
女の人は、直樹の方を見た。
「お久しぶりです」
直樹が頭を下げると、
「この前は、ありがとう。あなたには、お礼を言ってなかったわね」
カウンターに座っているのは、志乃だった。
「この前?」
カウンターの中に入ると、直樹は、志乃の前に立った。
志乃はクスッと笑い、
「ダブルケイ」
一口飲んだ。
「ああ!」
直樹は思い出した。
志乃が、病院に運ばれた時…直樹もダブルケイにいた。
「でも、驚いたわ…あなたが、香里奈の彼氏だなんて…」
「か、彼氏だなんて…」
まだ人に言われたら、照れる。
「香里奈をよろしくね」
志乃は、グラスの中身を飲み干すと、コースターの上に置き、
指先で、そっと前に押した。
「マンハッタンを」
志乃は、直樹に微笑んだ。
「かしこまりました」
直樹は、シェイカーを取り出し、カクテルを作り出す。
その様子を眺めながら、
志乃は口を開いた。
「香里奈が、オーディションに出るの…知ってる?」
カクテルグラスをコースターに置き、
「失礼します」
シェイカーから、ドリンクを注ぐ。
「先程、電話でききました」
コースターにのったグラスを、指先で、
そっと志乃の前に、差し出した。
「ありがとう」
志乃は、グラスを手に取り、一口飲むと、コースターに置いた。
「どうして…受けるのかしら?」
志乃は直樹を見、
「理由…あなた、知ってる?」
「親友を、助ける為と言ってましたけど…」
直樹の言葉に、
志乃は納得した。
「相変わらず、甘い子ね」
志乃はそう呟くと、
マンハッタンを、一気に飲み干した。
「でも…ちょうどいい」
志乃は立ち上がり、
お金を払う。
「ありがとうございます」
直樹は、頭を下げた。
志乃は店を出る前に、
振り返り、
「あたしの妹を…よろしくね」
じっと直樹を見つめ、
「香里奈に何かあっても…そばにいてあげてね」
志乃の意味深な言葉に、心の中で、首を傾げながらも、直樹は、
「はい」
と、笑顔でこたえた。
オーディションの日。
香里奈は1人で、会場に向かった。
会場は、町の中心部を抜け、湾岸近くの埠頭にある…巨大ショッピング街。
その外れにあるビルの地下のライブハウスで、開催された。
地下鉄から、モノレールに乗り換え、
海が見える駅から、
地図を片手に、
香里奈は、会場を目指す。
その一時間後に、
優が駅に着いた。
「失礼します。お客様をお連れしました」
扉がノックされ、秘書が顔を出した。
「お通ししろ」
ビルの最上階にある会長室。
時祭光太郎は、ディスクの後ろのカーテンを開き、
窓から、町を見下ろしていた。
「失礼します」
秘書に促され、入ってきた女性。
「お久しぶりです。お父様」
会長室に入ってきたのは、
明日香だった。
光太郎は振り向くと、
「来てくれるとは、思わなかった」
「呼び出しておいて、驚いているんですか?」
明日香の言葉に、光太郎は苦笑しながら、
明日香をソファに促した。
明日香が座ると、
「時間がないだろ。単刀直入に言おう」
光太郎も座る。
明日香の顔を見据え、
「私の後を継いで…会社に入ってくれないか?」
光太郎の言葉に、明日香は驚き、動きが止まった。
「音楽をやめたらしいな…」
光太郎は、明日香をじっと見つめる。
「お前ほどの者が、歌をやめて…あんな場末の店に、ずっと閉じこもるなんて…」
光太郎は話ながら、
娘の顔を眺め、
こんなにゆっくり娘をみるなんて…
赤ん坊の頃以来だと思っていた。
明日香は優しく微笑みながら、
父親の顔を見た。
「明日香…」
「お父様…」
明日香には、父の言葉が嬉しかった。
「明日香。今…会社には私の片腕がいない。信用できる者がほしいんだ!」
光太郎は、思わず身を乗り出す。
明日香は、目をつぶると…ゆっくりと目を開き、
「お父様」
「明日香!」
「あたしは…会社を継げません」
明日香は首を横に振り、
「今…あたしがいなくなれば、店を開ける者が、いません」
明日香の言葉に、
光太郎は絶句した。
「あんな店が…この会社より、大事だと」
「お父さん…あの店は、あたしにとって、特別なの」
ゆっくりと、明日香は立ち上がると、
深々と頭を下げた。
「あの店を守ることが…あたしにとって、今一番大事なことなの」
明日香は、会長室から出ていく。
1人になった会長室で、光太郎は肩を落とした。
「大切な場所か…」
光太郎は、自嘲気味に笑った。
大切な場所。
光太郎は、会長室を見回し、
やがて…
寂しげに顔を伏せた。
香里奈は、ライブハウスへの階段を降りていく。
会場から、泣きながら女の子が駆け上がってくる。
落ち込んで、ゆっくりと…沈んだ顔の女の子も、上がってくる。
オーディションを終わった人達だろう。
香里奈は、すれ違う人達の表情に、
身を引き締めた。
深呼吸をすると、
ライブハウスの扉を開いた。
何十人もの人が、フロアにたむろしており、妙な緊張感が漂っていた。
香里奈は、受付に参加票を渡すと、
変わりにリスト表を渡された。
「歌う曲を選んで下さい」
そこには、J-POP、ROCK、R&B、JAZZなどの有名曲が百曲くらい書いてあった。
どうやら、このリストから、自分で選べるらしい。
フロアに、次にオーディションを受ける人の名前が響き渡る。
呼ばれた人は、人混みをかき分けながら、
舞台への扉を開いた。
香里奈は、歌う曲を決め、受付に渡した。
2分もしない内に、さっき入った人が出てきて、
そのまま、外へ出る扉を開いて、帰っていった。
次々に名前が呼ばれ、
次々に帰っていく。
一時間もたたない内に、
香里奈の番が来た。
舞台への扉を開けた香里奈が見た光景は…
300人近く入る観客席を埋める人々。
但し、若い人はいない。
全員がスーツ姿の年配の方々。
「速水香里奈さん!ステージへ、どうぞ」
観客席の一番前には、
里緒菜のお母さんや、
メイン審査員として、志乃がいた。
「志乃ちゃん…」
香里奈はステージに上がる途中、志乃に気付いた。
ステージ上には、生バンドがスタンバイしていた。
大輔たち…。
今は、志乃のバックバンドであり、
かつては、LikeLoveYouだったメンバー。
そして、ドラムセットに座る
里美。
「さ、里美おばさん…」
唖然とする中、演奏は始まった。
アレサ・フランクリンで有名な、
I Say A Little Player。
バート・バカラック作曲の名曲が、始まった瞬間、
まるで、ナイフのように鋭いスネアの音が、
香里奈の背中を切り裂いた。
(え!)
心の中で、驚きの声を上げながらも、
香里奈は歌う。
曲の間中…
香里奈の背中は、後ろから、音のナイフで、切り刻まれていた。
曲が終わった。
香里奈は、汗だくになりながら、
ステージに膝をついた。
会場に着いた優が、扉を開き、受付に参加票を渡していると、
舞台の扉が開き、香里奈が出てきた。
香里奈は、そのまま全速力で、外への扉まで走り、
会場から出ていく。
「速水さん?」
あまりに速かったから、
優は、はっきりと確認することができなかった。
香里奈は階段を上りきり、
モノレールの駅まで続く銀杏並木道の一本の木に、しがみ付いた。
顔を伏せながら、
表情を隠し、
声を上げずに、
香里奈は泣いた。
不合格。
さっきまで、自信満々だった自分。
天狗だった自分。
くやしさより、
自分自身への恥ずかしさに、
香里奈は泣いた。