残り香
本田淳の事件より、数週間がたった。
淳は懲戒免職となり、
教師をクビになるとともに、
拘置所に入れられたが…
精神的障害がある為、
罪に問われるかは、わからなかった。
トントン。
軽くノックをすると、
里緒菜は、書斎に入った。
大きな机に、書類の山。
それに埋もれるように、
里緒菜の母親はいた。
「あなたを呼んだのは、他でもないわ」
母親は、かけていた眼鏡を外し、
里緒菜を見た。
「転校しなさい」
「え」
里緒菜は驚いた。
母親は、深くため息をつくと、
週刊誌を、里緒菜に差し出した。
「この前の事件。被害者の1人として…あなたの名前と会社の名前が載っています」
里緒菜は、記事を見た。
如月グループの令嬢…事件に巻き込まれる。
「今回は、怪我もなく、無事にすみましたが…もし、怪我でもして、傷が残ったら…」
「商品価値がなくなりますか?」
里緒菜は、母親の言葉が終わらぬ内に、口を開いた。
「里緒菜さん!」
母親の怒声が飛ぶ。
「あなたは、如月グループの跡取りなのです。もっと自覚しなさい!」
「自覚してます。自分が…商品だと」
「ああ…」
里緒菜の言葉に、母親は頭を抱える。
「あなたが…女ではなかったら…こんなに苦労することはないのに…」
「でしたら。もう1人、子供をお産みになられたら、如何ですか?」
「里緒菜さん!母親になんて口を…」
「母親でしたら…怪我をしなかった娘のことを喜ぶべきでしょ。会社の為だなんて」
「あなたは、この家に生まれ、この会社に生かされているのですよ」
「それはわかっています!だから…」
里緒菜は、拳を握り締め、
「高校だけは!あたしは、転校しません。失礼します」
里緒菜は、頭を下げると、書斎を出た。
「里緒菜さん!」
母親の声を無視して。
優はあの日から、
あの様子が、心から離れなかった。
タンカーで運ばれていく直樹と、
そばで寄り添う
香里奈。
それを、ただ見送るだけの自分。
客観的な第三者の視線が、ただ見送るだけの
何もできない自分を映していた。
(あたしは…)
優は、唇を噛み締めると、直樹のいる教室の前を、
通り過ぎる。
決して、教室の中に目をやらない。
諦めた訳じゃない。
今は…。
(あなたと、あたしの距離は離れてる)
近づくことも、交わることもないかもしれない。
優は、颯爽と廊下を歩く。
その姿を見て、男生徒が振り返る。
女は変わっていく。
それは、
恋の力によって。
そして、
彼女の体に流れる血筋が。
かつて、世界を魅了した1人の女…
安藤理恵と同じ血が、優のもう一つの才能を開花させる。
優の前から、ゆうが来た。
優は微笑み、
「牧村先生」
ゆうは優に気づき、
「高木さん」
優は笑顔を崩さず、
「先生。あたし、軽音部に入ります」
「おお…そうか!ありがと」
ゆうは、昨日までと違う優の雰囲気に戸惑っていた。
どこか艶めかしい。
そんなゆうに気づいたのか…クスッと笑う優。
「でも…まだ、人数が集まってないんだよ」
ゆうは、視線を少し逸らしながら、鼻の頭をかいた。
「活動が決まったら…教えて下さい」
優は、頭を下げると、ゆうの横を歩き去っていく。
「どうしたものか…」
ゆうは次の授業である…香里奈たちの教室に入った。
「読むよ」
放課後。
部室で、大欠伸をしていた中谷美奈子の前に、
数枚の原稿用紙が、差し出された。
「よろしくお願いします」
深々と、頭を下げたのは、
飯田直樹。
直樹は初めて、台本をいうものを書いた。
「…夕焼けの中、出会う男女の話か…」
美奈子は、熱心に、念入りに…
1つ1つの文字に、目を走らす。
「場面は、あまり変わらずに…渡り廊下をメインにして、物語を展開します」
「なかなか…良く書けてるよ」
美奈子は原稿用紙から、
顔を上げ、
「それにしても…何か、心境の変化でもあったのか?」
「いや…ただ…」
直樹は、自分が書いた原稿用紙を見つめ、
「俺も…自分で、世界をつくれるかなと…」
「世界?」
「本当は…そんな大層なものじゃなくって…」
直樹の顔を、美奈子はじっと見ていた。
「創造力なんでしょうけど…」
美奈子はやさしく笑うと、
「お前は…現実主義で、完璧過ぎるから…成長してよくなることを待てない」
美奈子はまた原稿用紙に、目をやり、
「今より、よくなりゃいい。成長と創造は、人がよくなる為に、大切なものだ。早く強く、早く完璧にならなくちゃいけない。だけど、人間1人じゃー無理だ」
部室の扉が開いた。
「おはようございます」
里緒菜が入ってきた。
「里緒菜。ちょうどよかった!直樹が本…書いてきたぜ」
美奈子は、原稿用紙を里緒菜に差し出す。
「ナオくんが」
里緒菜は少し驚きながら、原稿を受け取った。
「良くできてると思うよ」
里緒菜は、原稿に目を走らせる。
「これで、やっとー!」
美奈子は、大きく背伸びをすると、
「久々に、演劇部始動だ」
「はい」
直樹と里緒菜が、返事をした。
美奈子は頷くと、
「今、帰宅部と化している部員に召集命令だ」
「はい。ダブルケイです」
気だるい声で、
電話に出る里美。
「何だ…あんたか」
電話の主がわかった瞬間、里美の声のトーンが変わる。
「どうした?…パーフェクト・ボイスの件はニュースで知ったけど」
里美は、電話をしながら、タバコに火をつけた。
「で、何があった?こんな時間に…」
里美は、タバコを吹かす。
「来週帰ってくる?急だな…」
里美は次の言葉に、
タバコを吸う手が止まった。
「え…」
今きいた言葉が、信じられなかった。
「音楽を引退したって…うそでしょ。明日香」