壊された音
ニューヨークの外れにある
サミーのビルから、1人…
速水啓介は、楽器ケースを手に外に出た。
早朝…いきなりのメールがあった。
ティアからだ。
明日香と2人で、指定のライブハウスに来いと。
メールを見た啓介は、スタジオのみんなが寝静まっている間に、
出かける用意をした。
そばで眠る明日香に、気づかれないように。
啓介は、胸騒ぎがしていた。
もう戻れないような。
行ってはいけないと、
何かが叫んでいたが、
ミュージシャンとしてのプライドと、自信が、
逃げることを許さなかった。
もしもの為に…
明日香は、連れて行けなかった。
彼女が希望になる。
啓介は、動き始めたばかりの地下鉄に乗り込んだ。
数駅をこえて、
目的地に着いた。
駅の近くに、そのライブハウスはあった。
指定された店名の下にある階段を、啓介は迷わずに降り…分厚い扉を開いた。
営業が、終わったばかりかなのか…
まだ熱気が漂っていた。
いや、違う。
小さく、狭いライブハウスのステージで、
1人、佇む…
まだあどけない女から…漂っているのだ。
「ジュリアなのか…やっぱり…」
女は、啓介が知っているジュリアと…
少し雰囲気が違っていた。
「ああ…あのジュリアさ」
扉の横から、タバコの煙が漂ってきた。
啓介が振り向くと、
壁にもたれた男がいた。
「ジャック…」
「久し振りだな…KK」
タバコを吹かしながら…ジャックは、啓介に笑いかけた。
「やっぱり…1人で来たのね。啓介」
ステージの影から、ティアが出てきた。
「ティア…」
啓介はティアの方に、体を向けた。
「お元気そうで…怪我は、大丈夫かしら?」
「貴様…」
啓介は、ティアに刺された脇腹を押さえながら、
ティアを睨んだ。
「あら。こわい」
ティアは、クスッと笑った。
そして、ステージを降りると、啓介にゆっくりと近づいてくる。
「ティア…。お前の今回の目的は、何だ?」
「あたしの目的は、変わらないわ。でも…今回は…」
ティアは、啓介の目の前で、止まった。
「間近で、聴いてみない?」
ティアは、啓介の耳元で囁く。
「パーフェクト・ボイス…を」
啓介は、ステージ上のジュリアを見た。
「あの子に、音楽を教えたのは…啓介。あなたでしょ」
ちょっと見ない間に、見違えるように、美しくなっていた…ジュリア。
啓介は、ティアを睨み、
「音楽を教えたのは、俺じゃない!マルコだ!あの子に、音楽を教え、歌の楽しさを、最初に教えたのは…マルコだ」
「だまれ!」
ティアは、叫んだ。
物凄い形相で、啓介を睨み、
「あんたに!あの人の名前を呼ばれたくないわ」
ティアは、ジュリアの方を向き、
「あたしたちの国から、世界最高の歌手を育てたい…。彼は、そう言ってた…」
ティアは、両手を広げ、
「それは、もうすぐ叶う」
「芝居がかってるねえ〜」
端から見ながら、ジャックは笑った。
「啓介!ステージに上がりなさい。最高の歌を聴かせてあげる」
ティアの言葉に、
啓介は、鼻を鳴らすと、
楽器ケースから、アルトサックスを取り出した。
いつのまにか…ステージには、バックミュージシャンがスタンバッていた。
皆、表情が虚ろだ。
「曲は?」
ステージに上がった啓介が、ティアを見下ろした。
「あなたの得意な曲で…」
ティアは閃いた。
「そうだわ。あれがいい」
ティアはニヤッと笑い、曲名を告げた。
「LikeLoveYouのYasashisa」
啓介は、アルトサックスを構えた。
ジュリアは、啓介を見ない。
演奏が始まった。
音の中で、溺れた…。
息ができなかった。
啓介は、両膝を床につけ、倒れ込んだ…。
アルトサックスを持つ手に、力がなくなり、
首からかけた…ストラップだけで、宙に浮いていた…。
もう演奏は、終わっていた。
「どーしたの?啓介」
ティアが、ステージに上がってきた。
跪く啓介を見下ろし、
「一音も、吹かなかったじゃない…」
ティアは笑った。
ある程度のミュージシャンには、わかる。
ここに、音をいれるか…いれないべきか…。
いや、
ここに、自分の音を入れたら…
演奏が壊れてしまう。
つまり、
今、歌っている歌手と、
自分のレベルが…
まったく違うと…。
啓介が、自分の音を…そう判断したのは、
初めてだった。
ティアはしゃがみ、
真っ青になっている啓介の表情を覗き込み…楽しみながら、
耳元に囁いた。
「もう…吹かないんだったら…いらないはよね」
ティアは、啓介から、アルトサックスについてるストラップを外すと、
アルトサックスを床に落とし、
そのまま立ち上がると、
アルトサックスを、啓介の目の前で踏んづけた。
何度も。
「啓介…あんたが、あたしたちを裏切ったから、いけないの」
ティアは、ステージ中央に佇んでいるジュリアを見、
「ねえ〜あなたも、そう思うでしょ?ジュリア」
ティアの言葉に、
ジュリアは、ゆっくりと啓介に近寄り、
啓介の前に、立った。
「あなたがいけないのよ。啓介」
しばらくの間があって、
啓介は、恐る恐る顔を上げた。
さっきの口調…。
似ている。
見下ろすジュリアの瞳と、啓介の目が合った。
黒い瞳。
啓介は目を見開き、
ジュリアの瞳を凝視した。
「ま、まさか…」
啓介は、この瞳を知っていた。
「バカな…有り得ない…」
呟いた啓介に、
ティアは笑いかけた。
「あらあ…多分、正解よ」
啓介は、ジュリアの瞳から
動けない。
ティアは、楽しくって仕方がない。
「ジュリアのドナー提供者は…日本人よ」
震える啓介。
「天城百合子」
ティアは、耳元でゆっくりと話し出す。
「ジュリアの目と、心臓は、百合子のものよ」
「バカな…」
ティアは、震える啓介に
微笑みかけた。
「あなたに、もう1つ…教えてあげたいことが、あるの....。明日香が育てている…和恵だったかしら?」
「和恵が、どうした」
啓介は、力を振り絞り、ティアを睨んだ。
ティアはクスクス笑う。
おかしくてしょうがないみたいだ。
「あんたも、明日香も…和恵は、百合子とあんたの間に、できた子と思ってるみたいだけど…違うわ」
ティアは大爆笑した。
「本当は、ただの…誰の子かわからない…捨て子よ」
ティアは笑顔を、啓介に近づける。
「そんなバカな…」
さらに、ショックで崩れ落ちる啓介。
「何の為に…」
「わからない?」
ティアは笑いをとめ、
「最高だと思わなーい」
ティアは立ち上がり、
「自分の愛する男が…他の女に、産ませた子供を、育てる明日香!どんな気持ちだったかしら?」
ティアの笑いが、店内にこだまする。
「でも、その子は!まったく知らなーい、赤の他人ですから!」
啓介は絶句した。
「百合子に、提案してやったのよ。あんたがほしいって、あたしに言うから」
ティアは、啓介を見下し、
「あたしは、あんたの音がほしかった。でも、事故が起こって、百合子が死ぬことは…予想外だったけど」
ティアは、アルトサックスを蹴り飛ばし、
「でも…もういらないわ。こんな音」
サミーのスタジオに、電話があったのは、
啓介が出ていってから、数時間後だった。
スタジオ内で、心配している明日香に、
電話を取ったダイアナが言った。
「明日香ちゃん…啓介を引き取りに来いって…」
電話は、場所を告げると、すぐに切れた。
「誰からだ?」
サミーがきいた。
「わからないわ。女だったけど…」
明日香とサミー、スタジオの男、数人で、
告げられたライブハウスに、向かった。
地下にのびる長い階段を、駆け降り、
扉を開けると、
中は真っ暗で…
ステージの一部だけを…
ピンスポットが照らしていた。
明日香は、ステージまで走る。
ピンスポットに照らされ、
うずくまり…震えている啓介がいた。
「啓介!」
明日香は駆け寄った。
ライブハウスには、もう啓介しかいなかった。
サミーが、ステージに上がると、
足元に、破壊されたアルトサックスが、転がっていた。
サミーは、アルトサックスを拾い上げ、
「何が…あったんだ?」
ステージ上から、ライブハウスを見回したが、
もう誰もいなかった。