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三、狐の章⑤

(に、逃げなきゃ)


 踵を返そうとしたつららだったが、突然のことに驚いて腰を抜かして尻もちをついてしまう。

 立ち上がろうともがくつららに、猿のような生き物が近づいてくる。

 あっという間に目の前にやってきた三種類の動物を合成したような生き物が、つららの全身を舐めるように目を這わせた。


「匂うな。これは、妖怪かァ? こやつ自身はただの人間だろうが、また別の匂いがするのぅ。ふむ。最近、やけに妖怪と人間、両方の匂いのする生き物に遭遇する気がするなァ」


 チロリ、と猿顔が舌を出した。


「ワシは人間を好まんが、人間の肉が大好きな輩には高く売れるかもなァ。どおれ、捕まえてッ!?」


 目を見開いた猿顔が、驚き飛び退く。

 同時に、つららの眼前を青白い炎が通り過ぎていった。突然のことに、心臓の鼓動が速くなる。自分の呼吸が耳元で聞こえる気がした。

 続いて、つららの背後から声が響く。


「間一髪、間に合ったね」


 聞きなれた声だ。振り向くと、つららの思った通りの人物がいた。


「九十九……くん……?」

「こんばんは、瀬田さん」


 化野九十九は、顔を狐面で覆っている。その素顔はよく見えないが、声音と呼び方から、本物の化野九十九だとつららは思った。

 その時、九十九の姿を見た猿顔が、いきなり哄笑を上げた。


「くははっ! まさかまさか、また小僧に会うとはなァ。しかも今度はなんだァ? 狐の真似事をした仮面までつけているとは。ますます臭いにおいが鼻につくわい」

「鵺」


 九十九が、低い声で猿顔の生き物を呼ぶ。

 なにがおもしろいのか、鵺はまだ笑い声を上げている。笑い転げているようにも見える。その間に、九十九が近寄ってきた。


「大丈夫?」


 差し出された手を、つららは握る。フラフラした足取りながら、つららは立ち上がった。


「あ、ありがとう、九十九くん」


 無理やり笑うと、狐面が顔を逸らした。


「瀬田さん。ちょっとそこで待っていてくれる? まずは、鵺を討伐する」

「討伐? でもすっごく強そうだよ?」

「ヒトに危害を加えたんだ。討伐するのは当たり前だ。……狐じゃないのは残念だけどね」


 その声は、とても平坦だった。冷たく響くその声に、つららは、ああ、彼は本物の化野九十九だ、と改めて実感した。

 九十九は狐面で覆った顔を鵺に向けた。笑いすぎて、さらに赤くなった猿顔が九十九を見る。その顔はまだ笑っている。


「鵺。どうして彼女を……人間を、攫った?」

「攫った? ワシがか? かははっ。あいっかわらずおもしろい小僧よのォ。ワシはただ、歩いていたら人間がいたから、捕らえてヒト好きの妖怪に売りつけようとしただけじゃ。まだ、攫ってはおらん。まだ、な」


 首だけで振り向いた九十九に、つららはぎこちなく頷く。鵺の言っていることは本当だ。つららを「裏側の世界」に連れてきたのは鵺という妖怪ではない。九十九の姿に偽っていた、謎の【少年】である。

 無言の九十九。彼は軽くため息をつく。

 それからおもむろに鞘から抜いた太刀を構えた。その太刀は刃先に向けて湾曲している。


「ほう、それでもワシに挑むか、小僧。……半妖であるキサマにはわかるはずだ。ワシとの実力差がのぅ」

「それでもヒトに危害を加えようとしたことに違いはない。妖怪は狩る。それが討伐師としてのオレの務めだ」

「そうか。敵わぬと知ってもなお、挑んでくるか。おもしろい。おもしろいぞ、小僧。キサマの父とは大違いだ。あの狐は、自己保身しか考えておらん、臆病者だからのぅ」

「……」

「そういえば、先日の話は覚えておるか?」

「……なんだ」

「まだいまからでも間に合うぞ。ワシと手を組んで、狐を殺さぬか、え?」

「断る」

「そうかそうか。まだ気は変わらぬか。くははっ」


 いまだに笑い声を上げる鵺に、九十九が冷や水のような言葉を浴びせる。


「なにを、そんなにも笑っている」

「いや、なぁに。そういえば前に、小僧と同じ返答をした、ヒトじゃないモノのことを思い出していただけじゃ」

「オレと同じ……? ヒトじゃない……?」

「ああ。あやつは、父親のことを恨みながらも、父を護ると言っておったなァ。そうそう、小僧と、同じ匂いもしたぞ。ヒトでも妖怪でもないモノのな。だが、あっちはどう考えても人間には見えなかったがなァ」

「誰だ、それは?」


 九十九の声が強張っているのに、つららは気づいた。息を飲む間もなく、鵺が言う。


「人間に恋をした狐の【子供】だ。キサマと同じ、ヒトではない、妖怪の見た目をした、ヒトの匂いを漂わせる小僧だァ」



     ◆



 追いかけられたから逃げた。そして気づいたら、「裏側の世界(ここ)」に連れてきた少女の姿が無くなっていた。


「迷子になったのかな」


 化野九十九の姿に化けている【少年】はため息をついた。

 悪いことをしてしまったかもしれない。ここは、妖怪の跋扈する、「裏側の世界」だ。妖怪は、人間を恨んでいるのだという。

 その妖怪の巣窟に連れてきて、野放しにするように、彼女をひとりにさせてしまった。もしかしたら、もう彼女は食べられてしまっているのかもしれない。ここはそういうところなのだから。力のない人間なんて、「裏側の世界(こんなところ)」にいたら、すぐに死ぬ。


(悪いとは思っているよ。悪いとは。でも……)


 少年は再びため息をついた。


(オレは、ただ知りたかっただけなんだよね)


 それだけなのに。あの【半妖】が気にかけている少女を連れて、「裏側の世界」を歩いたら、何か自分も心境の変化があるのではと思ったのだけれど。

 何もなかった。少女と話しても、ヒトを好きになることはできなかった。妖怪を好きになれないのと同じに。

 ふと、子供の頃に、【父親】から言われた言葉を思い出す。


『人間には近寄るなよ。いつの世も、あいつらは、我ら妖怪を畏怖している』


 それからこんなことも、よく口にしていた。


『ヒトの世は、妖怪には有害だ。おまえは、ヒトの世では生きていけない』


 そんな言葉をかけられる度、少年は自分を否定されているのだと思った。自分の中にある人間の部分を、実の父に疎ましがられている。だから少年は、その【妖怪(父親)】のことも好きになれなかった。あの男は、自ら人間の女に近づいて恋なんてものをして自分を生んだというのに、いつも人間に対して恨み辛みを口にする。そんなこともあり、次第に少年は、父のことを本心から嫌いだと思った。……嫌いになりたかった。


 父親のことを考えると、憎悪が湧き上がってくる。

 唇を噛み、悔しげな顔で、少年は吐き捨てた。


「所詮、妖怪も、人間、最悪なんだ」


 母のことは知らない。話してくれないから、どういう人なのかはわからなかった。

 その上、父は酒に酔うといつも人間の悪口を口にした。人間は最低なのだと、そんなことばかり話してくる。

 だからかもしれない。少年が、余計に人間に興味を持ったのは。


 自分は半妖だ。見た目はヒトではない、狐のような姿をしているのに、身体の骨格はヒトそのものだった。四足歩行はできず、父である狐とは違い、二息歩行をしている半端モノ。

 ヒトの姿に偽っていないときの少年の姿は、妖怪の間でも歪な部類だった。父と違い、尻尾もない。もちろん妖力も、それに見合ったものしかなかった。臆病者の父と隠れて過ごしていたおかげで、他の妖怪と会うことこそなかったが、知性ある他の妖怪が見たら、少年の姿はあまりにも醜く映っただろう。人間から見てもそうだ。毛だらけの二息歩行の半端モノなんて、怖ろしくて仕方がないだろう。


 だから、あいつを羨ましく思った。同じ半端モノでも、姿かたちはきちんとした人間で、母と一緒に暮らしているという、化野九十九。

 彼の存在を知ったのは、ほんの一年前のことである。

 隠れながら父と一緒に暮らしていたのにとうとう嫌気がさした少年は、奥まった住処から、父が寝ている隙に外に出た。そこで、少年はほかの妖怪と遭遇して、自分の生い立ちを知った。


 狐が、人間と恋をして、子供をつくったと。

 「裏側の世界」の知性ある妖怪の間では、それはもっぱらの噂だった。

 それから少年は、父親に本当かどうか話を訊いたら、それは本当だった。そして自分に血を分かった兄がいることも知った。その兄は、「表側の世界」で人間として生きているという。

 だから、その兄のことが気になり、【少年】は何回か「表側の世界」に足を運んだ。物陰から、こっそりと観察することしかできなかったけれど、【兄】は特にここ数日、とても楽しそうにしているように見えた。


(戻ろうかな)


 どうしても、残してきた少女のことが気になる。

 踵を返すと、少年は来たばかりの道を歩いて戻った。



    ◇◆◇



「オレと、同じ?」


 仮面の下で、九十九は目を見開いた。

 いったいそれは、どういう意味なのだろうか。

 ヒトではない、妖怪の見た目をした、ヒトの匂いを漂わせる小僧。

 まるで自分のことをのようだが、少し意味が異なる気がした。体に妖怪の血が半分入っている九十九は、見た目はきちんと人間の姿をしている。狐の血が混じっているからといって、狐のようになにかに化けることもできない。しいて言えば、青白い炎――狐火を出せるぐらいである。


 鵺の言葉からすると、その【人物】は、妖怪の見た目をしているのにも関わらず、ヒトの匂いを漂わせている。それは、九十九とは正反対のように思えた。正反対だけど、同じようにも。


「それは」


 九十九は言いにくそうに口を開く。


「狐の、子供か」

「そうじゃい」


 ニヤニヤと、楽しそうに鵺が嗤う。

 九十九は、自分の動機が激しくなっていくのを感じた。

 これは鵺が語っているものだ。とうてい本当だと信じられるはずはない。妖怪は平気でヒトを騙し、喰らおうとする。これもその一環なのではないか? そう疑ってかかりたかった。

 けれどできなかった。九十九は、半分だけだけど、鵺の言葉を信じようとしていた。


「鵺」


 九十九は、息を整えながら、太刀を構える。


「狐の居場所はどこだ?」

「しらんなァ。知っていたら、とっくの昔に襲いかかっておるわい。あいつは、逃げ足と、隠れる術だけは上手いからのぅ。それも臆病者ゆえというところじゃろうな」

「そうか」


 太刀を持つ手に力を入れる。いや、これは力みすぎだ。

 九十九は深呼吸すると、切っ先を鵺に向けて構えた。


「なんじゃ、それでもワシを倒す気満々なのか?」

「妖怪は、斬る」

「くくっ。強情なところは、狐にそっくりだのう」

「一緒にするな!」


 一歩、鵺に向かい足を踏み出した時だった。


「鵺っ!」


 別方向から、鵺に呼びかける声が聞こえた。


「また、父さんを狙いにきたのか!?」


 鵺の視線が、背後に向く。九十九もそちらに目を向けた。

 そこにいたのは――。


「オレ?」


 制服姿の化野九十九だった。


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