三、狐の章②
放課後になると、九十九はつららを連れて教室を出た。クラスメイトや通りすがりの女子からかけられる言葉を適当に受け流すと、ふたりはそのまま人気のないところを探し、校舎の裏までやってきた。高い木々が邪魔をしてくれるため、よっぽど目を凝らさない限り、学校側からも、学校の外からもここは見えないだろう。
ここに来るまで、つららの表情は思案気だった。いつも考えた瞬間に言葉を喋っている印象が強かったのだけれど、いまはなにやら考えこんでいる様子だ。
九十九はそんな彼女に声をかける。
「話があるんだよね?」
答えはわかりきっているが、九十九はそう訊ねる。
「ねえ、九十九くん。いつになったら、裏側の世界に連れて行ってくれるの?」
ほら、やっぱり。九十九は笑顔を保ちながら、頭の中ではどうやって断ればいのかを考えていた。なるべく、彼女に冷たい言葉を浴びせたくはない。できることなら、当たり障りなく断りたいと思っている。
「そのことなんだけど、まだしばらくオレも忙しくてね。時間が取れそうにないんだ」
「いつになったら時間が取れるの?」
「それもわからない」
「……そう」
先延ばしにしたって意味がないのだと、九十九もわかっている。けれど上手い言葉が思い浮かばず、結局こうするしかなかった。
できればもう、諦めてほしい。ただの一般でしかない彼女は、妖怪と関わるべきではないのだから。このまま諦めて、【犬神】との約束なんか忘れて生きていて欲しい。
(あ、でも)
九十九は重大なことに気が付く。
(彼女はもう、妖怪と関わっている)
それも三年以上も、とある妖怪と一緒に暮らしている。その妖怪はつららのことを騙して、家族面をして彼女とともに暮らしていた。
けれど瀬田つららは、その妖怪の正体を知ってもなお、怖れたり、疎ましいと思うことなく、一緒に暮らす道を選んだ。
それは九十九には到底考えられないことだったけれど、彼女はいつも真剣に、目の前のことに立ち向かって行こうとしている。新田新太の時も、彼女は自ら進んで止めに入ろうとしていた。あの時は、九十九も妖怪の気配を感じたから新太を止めようとしたものの、もし妖怪の気配を感じなかったら、きっと九十九は傍観していただけだったと思う。
その点、つららはとても難儀な性格をしている。目の前にある出来事を見て見ぬ振りできぬ真っ直ぐさ。そんなつららだからこそ――純粋で真っ直ぐなつららだからこそ、あの時、【犬神】とあんな約束をしたのかもしれない。
いまも彼女は、真っ直ぐに、【犬神】との約束を果たそうとしている。
九十九は軽くため息をつく。
いまもなお、瀬田つららは真っ直ぐな瞳で九十九を見つめている。
「ねえ、九十九くん」
つららが、不安げな声を出す。彼女にしては珍しいその声に、九十九は耳を傾けた。
「もしかして……もしかして、なんだけど」
「うん?」
「その……」
言いにくそうに、彼女は言った。
「私のこと、避けてるの?」
九十九は少し間を開けてから答える。
「そんなこと、ないけど」
「……そう。そうだったらいいんだけど。でも、あの、九十九くん。できれば、はっきり言って欲しいんだ。私、先走っちゃうことあるし、あの時、そういえば九十九くんちゃんと私と約束したのかな、って最近考えていて。そういえば、九十九くんちゃんと頷かなかったようなって思って。……あの、迷惑だったら、言ってね」
つららが上目遣いに、九十九を見上げた。
「けど、できればあと一回、裏側の世界に連れて行かせてくれない?」
それに、九十九は頷くことができなかった。
(ごめんね、瀬田さん。もう君を裏の世界に連れていくことはできない。そもそも、あそこはただの人間がいていいところじゃない。最初に勝手なお願いをして、君を巻き込んで裏の世界に連れて行ったのはオレだ。悪いって、思っている。でも、もう二回目は無理だ。それに所長にもバレだからね。これ以上、君を連れていくわけにはいかない)
口にしたい言葉は、喉から先に出てくることはなかった。
九十九は代わりに微笑むと、
「時間があったらね」
叶えるつもりのない約束をした。
陰りのある顔に、いつもの笑顔を取り戻すつらら。
そんな彼女を眺めながら、九十九はまた所長の言葉を思い出していた。
(彼女の中にある妖怪の記憶を消してしまえば、こんな約束、守る必要もないのか?)
◇◆◇
(よかった。九十九くん。ちゃんと笑ってた)
胸の重みが、少し緩和された気がする。つららは晴れやかな顔で、自分の家に向かっていた。今日は帰ったら、トウジ兄ちゃんとお話ししよう。彼の話でもいいけど、できればもっと楽しい話。明日からの献立とかでもいいかもしれない。
(そうだ。明日、土曜日だから、一緒にご飯作ろうかな。私でも出来そうな料理、教えてもらおっと)
自宅近くに来た時、ちょうど家から出てきた田部のおばあちゃんと短く言葉を交わして別れると、つららは自分の家の玄関前に辿り着いた。
鞄の中から鍵を取り出そうとしていたら、後ろから声を掛けられる。
「瀬田つららさん」
聞きなれた声だということもあり驚いて振り返ると、そこには学校の校門で別れたばかりの化野九十九がいた。
「九十九くん? どうしたの?」
「うん。ちょっと瀬田さんと話をしたくてね」
彼は目を細めて微笑んでいる。先ほど話したときは少し憂いのある表情をしていたような気がしたのだけど、いまはそんなことなく、いつもの九十九に見えた。
話? それならさっきすればよかったのに。そうつららは思ったが、素直に九十九の言葉に耳を傾ける。
近くに行かなきゃ話せないのか、九十九が手招きをしてきた。つららは彼に近づいていく。
すると、九十九が待っていましたとばかりにつららの腕をとった。
「え、ちょ、ちょっと九十九くん!」
「いいからいいから。いまから瀬田さんの願いを叶えてあげるから、一緒についてきて」
「ね、願いって!?」
「きみがさっき言っていたことだよ。確か、裏側の世界に行きたい、だったかな」
「そ、そうだけどッ。でも九十九くんは忙しいって」
「それがね、これからの予定がなくなったんだ。だから、いまからなら一緒に行けるかなって」
笑顔で向けられるその言葉に、つららの気持ちが軽くなる。嬉しくって、速足で歩く九十九に歩幅を合わせるべく、自分の精いっぱいの力で早く歩いた。
(やっと、犬神に会いに行ける!)
なによりも犬神との約束を果たせるのが嬉しかった。
顔を上げて、身長の高い九十九を伺い見る。彼は、やはり目を細めて、笑っていた。
◇◆◇
夕方になると、化野九十九は【妖怪退治屋紅坂支部所】の事務所にやってきた。
事務所の中には所長がひとりだった。椅子に座って事務仕事をしている。キーボードをカタカタしながら、積み重なっている書類を一枚一枚読んでは判子を押したり、ぐちゃぐちゃにして床に放り投げたりしていた。
室内に顔を巡らせたあと、九十九は所長に訊ねる。
「所長。今日の仕事は?」
「ん? 仕事? そんなのそこにあるボードに書いてあるだろ? それを読めばわかるじゃないか」
「そうなんですけど」
九十九は再び、仕事内容の書いてあるホワイトボードに目を向ける。そこに書かれてある自分の欄を見て、九十九は顔をしかめた。
「記憶の消去――って、書いてあるように見えるんだけど」
すると、妙齢の女性は手を止めて、ニヤリと口角を吊り上げながら九十九を見た。
「そりゃそうだ。昨日は仕事が溜まっていたから妖怪退治をやってもらったが、おまえにはそれよりもやるべきことがあるだろう?」
「やはり、記憶は、消さなければいけませんか?」
不思議そうな顔になる所長。
「当り前だよ。なにを言っているんだい? 裏側の世界に連れて行った一般人の記憶は、原則的に消すことになっている。例外はないよ。ちゃんと彼女の記憶も消すんだ」
九十九は黙り込んでしまった。できれば彼女の記憶を消したくないと思っている。
けれど、やはりそう自分のわがままを通すには、この妖怪と関わる仕事は危険すぎるのだろう。いままでそうしてきたように、裏側の世界に関わった一般人の記憶は、消さなければいけない。
それはわかっている。わかっているのだけど。
九十九は、瀬田つららの記憶を消すことを、躊躇っていた。
「九十九」
所長に呼びかけられて顔を上げると、妙齢の女性はとても冷たい眼で九十九を見ていた。
その眼に憐憫の情はなく、ただ一途に、業務を全うするように問うている。
「いいかい、九十九。三年前、おまえは一度やらかしているだろ? 同級生の少女を、裏側の世界に招き入れて、危険な目に合わせた。その時も、彼女の記憶を消すことでどうにか上を黙らせることができたんだ。だから今回も、上にバレる前に、自分のやったことの落とし前ぐらいつけるがいい」
黙っていた九十九は、しばらく目を泳がせると、重々しく頭を縦に振った。
「わかりました。彼女の中から、【裏側の世界】の記憶を消したいと思います」
「早急に、頼んだよ」
「はい」
口が悪く、さらに態度も悪く、おそらく一般社会にいたら周囲から疎ましがられて、距離を開けられるだろう性格の、九十九の師匠でありこの【妖怪退治屋紅坂支部所】の所長は、それでも立派な常識人だった。ただでさえ、【半妖】ということもあり他の面々からあまりいい印象を持たれていない九十九を、退治屋として働けるように上を説き伏せてくれたのも彼女で、いままでもいろいろとお世話になっている。
おそらく、今回も彼女なりの計らいなのだろう。恩を返せ、とその目が物語っている気がした。
九十九は事務所を跡にすると、瀬田つららの家に向かった。




