温泉の町へ
短編100作品の中から、現代文学・純文学をまとめた短編集です
「佐伯君! とうとう温泉が出たよ!」
亀田康太の突然の電話に、寝ぼけ眼を擦りながら佐伯穂は立ち上がった。
休日の午前。妻や子供たちは既に出かけているようで、薄暗い廊下はしんと静まりかえっていた。
穂はさっと上着を羽織ると外に出た。車に乗り込み隣町の採石場跡へ向かう。
「ほら! 佐伯君、見てみろ!」
穂が採石場跡に到着すると、康太が嬉しそうに駆け寄ってきた。とても定年を迎えた老人の足取りとは思えなかった。空き地では掘削の為のロータリー式さく井機が、青空の下で悠然と立っている。
さく井機の側にはポンプがあった。錆びたドラム缶には濁った水が流れ込んで溢れていた。
本当に温泉が出たのか。
穂は驚きで言葉を失った。この辺りでは温泉は出ないと言われていたからだ。
康太は嬉しそうに、ヘルメットを被った作業員と話していた。
康太は実業家だった。若い頃から行動力に富み、様々な事業に手をつけては失敗と成功を繰り返し、晩年にはかなりの資産を蓄えていた。隠居した今、彼は年々過疎化の進む地元を盛り上げようと、活発に動いていた。
凄まじいバイタリティだ。穂はいつも感心させられた。
穂は湧き出る湯にそっと触れてみる。すると、温泉は予想に反してぬるい。
あれ、と首を傾げた。
「これ、康太さん、随分とぬるいじゃないですか?」
「そりゃあ、まだぬるいさ」
「これから熱くなるんですか?」
「ならんよ」
何だ、そんなもんか。穂は落胆した。
「それじゃあ、浸かれないじゃないですか。温泉というから、熱い湯が出たのかと思いましたよ」
康太は一瞬ポカンとした顔をした。そしてやれやれと肩をすくめる。
「佐伯君、熱い湯だと、冷やすために水を足して薄めなきゃならんだろ? ならぬるい湯を温めたほうが、成分が濃くていいじゃないか!」
あ、そういうものか。穂は納得させられたように頷いた。やはり康太さんには勝てないな。
実際にはどちらがいいのか分からない。ただ、早くこの温泉に入ってみたいと、穂はぬるま湯を手でかき混ぜた。