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第3.00話 ~観照篇~ 醸

 御鏡邸を後にするのは何度目になるだろうか。

 ふと暗黒寺警部は、玄関前の飛び石の上でやにわに数えだして、直後にやめた。少なくとも警官になってから何度となく顔を出しては御鏡弥生の知恵を借りて、それが出来なければ己に憑く怨霊、大原紗耶香の知恵を借り、其れすら難しそうなら第三東京帝大助教授の知恵を借り、散々に誰かの知恵を借りて今の地位にいる。


 そもそも自分が二十代を目前に警官の道を志望して心を殺したのも、御鏡弥生の入れ知恵ではなかったか?


 そんな薄らぼやけた思い出のようなものを思い出すと、本当に警察官なんて言う、若い時分には忌避感しか感じなかった職業に就いている己に、妙な据わりの悪さを感じていた。

 親とは喧嘩したっきり十年以上は顔を合わせてはいない。年賀状のやり取りすらなく、完全なる絶縁状態であり、それが何よりも、両親が己の道に迷惑を掛けぬがためにしていることだと理解していてその厚意に甘えている。

 そう、偉そうなことを言う割に、暗黒寺警部もまた大して人にお説教できるような、そんな出来た人間ではないのだ。


 そんな後悔とも諦めとも付かない妙なしこりの残る感情につい頭を掻いてしまうと、気分を入れ替えようと徐にタバコを咥えた。

 タバコは良い。独特の臭さと熱い甘い香りが口腔で渦を巻いて、それを吐き出した瞬間には下らない悩みだとかは全てその煙に乗ってどこかの誰か、どこかの何かが引き受けてくれるのではないかと、奇妙に安堵してしまう。

 そう、暗黒寺叡景警部(・・・・・・・)は、能天気でいいのだ。暗黒寺叡景警部(・・・・・・・)は、能天気そうな有能警官のフリをし続けていればいいのだ。暗黒寺叡景警部(・・・・・・・)という存在は、拗らせた十代の若者染みたセンチマンタリズムに浸ることなど、なくていいのだ。

 これはそんな、一種の精神統一の手段だと云っても良かった。

 煙草の不健康な紫煙を吞んでは吐き出す――そんな1サイクルを何度も繰り返すごとに、若いころにこうだと決めた(殺人課の暗黒寺)キャラクター(叡景警部)で居られる気がしていた。


 御鏡邸から少し離れた東屋、出入り口に近くもなく遠くもない。かと言えば出入り口から直接そこを目にすることのできるような立地かと言えばそうでもなく。

 植木や生垣が丁度よく視線を遮ってくれることに安堵しながら、予定にないほんの少し(・・・・・)のタバコ休憩に興じることとしたのは、タバコの魔力を以てしてもこの複雑な心境の整理が付かなかったからでは断じてないと、暗黒寺警部は思いたかった。

 250ccのエンジンが立てる中高域のエギゾースト音が屋敷の前で止まると、どうにも別の使用人の手に渡したのだろうか。買い物袋の擦れる音を立てて和服姿の女が飛び石を超え、彼の姿を見つけた。

 荒れはしていないが同時に平生でもない彼の内心を知ってから知らずか、それともその場所が普段彼らの逢瀬を重ねる場所だから自然な流れか、荷物を預けた彼女はやってくる。そういえば、彼女も変わった一人だったなぁと、行き場のない感慨だけが堆積していく。


 これがオトナになるということなのか。そら自分も、歳を取るわけだ。


 昭和初期のテレビ放送でよく耳にしたことのあるアナウンサーかのように、抑揚を限りなく抑えた感じで奇妙な感慨を覚えた。人生は発見ばかりであると笑い飛ばしたくなった。


「またお越しになられていたのですね、暗黒寺様。何度も申し上げておりますが、事前にアポイントを取って頂かないと。お嬢様にもお嬢様の予定があるのですから」

「ん~~、せやなぁ……。次回からはそうさして貰うわ」

「……? 本日は偉く殊勝なご様子ですが、炭酸飲料にコカインを合わせて煮詰めたものでも摂られたのですか?」

「辛辣じゃのうこの揮発しかけとった元家出娘は」


 あんなんじゃあ友達なんて出来そうにないだろ――そう思っていたが、子供というのは知らんところで成長するものか


 似たような気配をさせていた口の減らない少女が思い起こされた。あんな顔して他人のことを自分のことのように心配できる子供が友達なら、もしかしたら自分はもういらないのかもしれない。

 またそんな、暗黒寺叡景警部(・・・・・・・)らしくない(・・・・・)思索に耽りそうになるのを寸で留める。


 暗黒寺叡景警部は、能天気でいいのだ。

 暗黒寺叡景警部は、馬鹿っぽくていいのだ。

 暗黒寺叡景警部は、野望に邁進してさえいればいいのだ。

 暗黒寺叡景警部は、そうあれば幸せであるはずなのだ。

 故に暗黒寺叡景警部とは、そういった一つの単位(キャラクター)であればよいのだ。そうであれば佳いのであるなら、それ以上は要らない。


 子供らしくない笑顔で、子供らしくない頭の回転力で、子供らしくない(さと)ったような無感情で、子供らしくもなく満たされない飢えに喘ぐ姿に、そんな生意気にすらなれない子供を前に思わず取り付けた約束を未だに律義に守っているだなど、可笑しなものだと自嘲する自分がどこかにいる。

 そしてそんな自分()を見透かしたように、この腐れ縁となりつつあるハウスキーパー、世話係、メイド、家政婦、そのどれで呼んでも違和感のある特殊な立ち位置にあるこの女は、ただ淡々と、まだそうするつもりなのかと、呆れた風に見やる。

 そう、こんな大根役者の猿芝居に救われた気でいるのだから。


「また、心を殺されるおつもりですか」

「いぃやぁ? ワシも歳を取ったもんじゃなぁと、アラサー特有の焦燥感に駆られておったのよ」

「でしたら、ここに家事全般何でも出来て自動車やバイクの他に船舶重機特殊建機に戦闘機やレシプロ機からジャンボジェットまで、なんでも運転できてついでにスタイル抜群のスーパー家政婦(イイオンナ)がおりますが」


 和服姿で胸を反らして誇らしげな顔をするこの元家出娘は、オレをして信じられないことにスタイルは整っているのだよなぁ。恩を好意とはき違える残念なところさえなおりゃあ引く手数多だろうに。


 内心ため息をついているのが見透かされてしまったのか、じっとりと睨み付けられているのを躱すように出てくるのは、相も変わらず憎まれ口である。

 この門前の小僧が習わぬ経を読んでいるかの如き猿芝居も大分板についたものであり、そうであらんと勝手に口が動くのはどうにかならないものかと彼をして辟易とさせられた。

 素直に引き下がればいいものを、引き際を思わぬ伏兵に奪われてしまったものだから、もうあとは進み続けるほかにない。それが一体何故湧いてくるのか、其れすら理解できていないのに。


「へっ! もうちょい色気っちゅうものを身に着けてから云いなや! ……ワシゃあガキは抱かんぞ」

「おや、私はもう26です。云うほどガキでもないですし、もう立派に子供だって産めますし、何ならあれから15年も経っています。そろそろ色よいお返事が欲しい所ですねぇ」

「そういう意味とちゃうねんけど……けれどもまぁ、もう26か。子供が成長するんは早いのぉ」

「旦那様も奥様も、そろそろ結婚して身を固めてくれないものかと、大層心配されておりました。無論、ここで暢気そうに大して好きでもなければ美味しいと思ってすらいない煙草を格好つけて吹かしている芝居下手でどこぞの殺人課からやってきた、貴方のことですよ?」

「けっ、余計なお世話じゃい――――それよりもおどれ、その恰好でバイク乗っとったんかいな? どないして乗るんや……」


 自然と横に落ち着いていることにはすでに何も言うつもりはなかった。暗黒寺警部としても憎からず想っている仲であるし、そもそも偶にしか会わないのだから、偶にはそうして甘えてきても良いだろう。

 それよりも気になったのは、バイクに乗っていたとは思えない格好であった。

 和服姿で、袴でもなく、一般的な裾の和服姿でどのようにしてバイクに乗ったものかと気になっていた。

 もんぺを履いていた形跡もなく、ごく普通に和服。家に合わせた服装というだけでなく、主人らに合わせて目立ちすぎない柄であり、値段を概念のみで表すならば中の上くらいの価格帯に属する。

 まさか裾ごと跨っていたなどということもあるまいと思う反面、この完璧主義者がどんな奇想天外な乗り方をしていても可笑しくないとも思っていた。

 そんな彼の内心を見透かしてか、胸部にもう少し肉の付いている方がより暗黒寺警部好みであることを知らないスタイル抜群のイイオンナさんは、たっぷりと三秒以上の間をおいて質問をはぐらかすことでその答えとした。


「……………………はて、何のことでしょうか?」

「すっとぼけんなや。ありゃおどれのよ分からんバイクのやろうが、さっきのエギゾースト音は」

「よくわからないとは失礼ですね。私の二代目の愛車、エリミネーターちゃんです」

「カワサキ好きやのう。前はエスカルゴだかカルボナーラだか言うのに乗っとったし」

「エストレヤです。どっしりと腰を落ち着けられて且つエンジンの音が――」

「どおでもえぇわい……」

「それはそうと暗黒寺様、貴方のあのオンボロポルシェ、そろそろ洗いましょう。これ以上はみすぼらしすぎて車の方が可愛そうです。何なら車検も私が担当します」

「どんだけ完璧やねん……まったくこの元家出娘は」


 少なくとも暗黒寺警部は身の回りにいるほぼほぼ全員にその内実を知られているということである。そうでなければ彼女の口からそんなセリフなど、本来出てくる所以はない。完全に、少なくとも身内にだけは完膚なきまでに見透かされてしまっているのだ。

 別に暗黒寺警部とて、それが嫌なわけでもない。そもそもそうであるならば、早々頻繁(ひんぱん)に御鏡邸に踏み込みまくった挙句に、その寵児(ちょうじ)から知恵を頂戴することなんてしない。優秀なブレーンはもう一人いるのだから。

 しかしだが、彼女とこのような関係になったのはいったい何が原因だっただろうかと、グイグイと売り込み(アピール)をかけてくる女を横目に、偶には暗黒寺叡景警部らしくないことに興じてみることにした。偶には自分を甘やかしてみる気になった、だけである。




□大昭10年 某月某日 深夜


 一軒の集合住宅の周りを、ガタイのいい男たちがそれとなく通り過ぎるように見せかけて監視していた。

 視線の先にある一室には、やはりまだ一人(・・・・)しかいないことを悟ると、誰も彼も足早に去っていく。上の決定である以上、子供に威圧感を与えることは憚られた。それによって自分たちの生活が危うくなるくらいなら、素直に上の命令に従ったほうがいいという、ただそれだけ。

 別に、先ほどまで彼らがまるで覗き込むようにしてみていた部屋の少女程度、輪姦して売り飛ばしてしまったところで彼らにとって特段の問題では本来ない。多少良心が痛んでも、過ぎ去ってしまえば忘れられる。忘れてしまえば、また元通り。人間にはそういった機能があるのだから。

 ただ上の上のそのまた上、大元締めのお触れである以上、裏の表でそんなことをやる度胸、自分の生活を悪い意味で揺るがす覚悟と言い換えてもいいが、そう云ったモノ、彼らにはなかっただけの話である。


 そんな彼らの視線の先にあった部屋の一人は、彼らの下から幾重にも借金をしている女と、その娘の住む部屋である。その女を端的に表すならば、三行、いや三文節に分けられる。

 1に、多重債務に陥りながらその借金を借金で返すか、

 2に、借金をして貢ぎ、その相手に肩代わりしてもらうか、

 3に、そうでなければほとぼりが冷めるまで娘を置き去りに暫く行方を眩ますか、

 4に、そもそも借金を真っ当に返すつもりもない。

 ……これでは四文節になってしまう。


 ――そんな彼らから見ても余韻たっぷりにクソと呼んで差し支えない女は、一頻り遊び歩いた挙句にまず最初はここに立ち寄る。

 娘があわよくば死んでいてくれないだろうか、などという最低の望みが成就されているか確認しに来ているのだ。

 仮に死んでいなければすぐさま荒れ狂って暴れまわり、また姿をくらませる。その一番気の緩んで傍若無人の限りを尽くしている瞬間、即ち“集金”のチャンスを見逃さぬために人を置いている。

 それがまさしく、今の状況である。


 時には生活インフラを止められたりしているところを見かねて、集金人が一部を建て替えたこともある。毎日コンビニの廃棄弁当を受け取る姿にやり切れずに投資と称して五千円を渡した集金人もいる。

 とはいえ渦中にいる彼女、つまるところ娘に取って人生とは斯くも理不尽なものかと諦めさせるには十分で、今日もまた帰ってくるとも知れない母親を待ち続けていた。


 娘は一度、姓が変わっている。母親のホスト漁りの激しさに、母親の男遊びの激しさに嫌気の差した父親によって離婚調停裁判となり、親権が娘と父親と母親、三者の予想を大きく外れて母親のものとなった際に、母方の姓となった。

 結論のみを云うのであれば、父親の方は離婚調停で負けたのだ。母親の方は勝つつもりなく勝ってしまったのだ。

 よくある話、実像に沿わない一般的な家庭像の押し付け。実態に伴わないことなかれ。母親の方が、結婚時に取り決めた家事分担を行わない、というのはよく聞く離婚事由だが、生まれたばかりの子供への育児放棄に留まらずネグレクトや虐待、ホストを引っかけるために子供を利用すると云った行為が離婚調停事由の大本であった。

 当然父親も、当然娘も、当然母親も、親権は父親に渡すべきだという方向で纏まっていたが、家庭裁判所に曰く“ネグレクトや虐待を働くような母親であっても、子供は母親と一緒に在ることが一番幸せである”要約するならば、こういうことになる。

 当然のことながら上告したが、双方に弁護士料を払えるだけの金銭的余裕がないことは明らかであり、しばらくの後に上告は棄却された。


 それからの娘にとっての生活は最悪の一言に尽きた。

 一晩家を空ければひと月帰ってこないことはざらであった。それでもひと月で済んでいたのは娘への愛情などではなく、寝に帰る固定の住処を無くすのが割に合わないという打算であることは、誰の目にも明白であった。

 偶に帰ってくれば負けた(・・・)ことの腹いせか、罵倒されるか居ないものとして扱われた挙句、寝入ったところを狙って暴力に訴える。

 気絶するほど殴られた翌朝には、部屋中に散らばった酒の空瓶や空き缶を片付けながら謝るのだ。そうすれば娘から拒まれることなどないと知っているからだ。


 父親と住んでいた時ならば父親が料理をしていたが、母親にその手の技術は皆無に等しかった。娘も元手となる資金が手元にない状態で料理は出来ない。

 ひと月の小遣いとして残されるのは大概千円から五千円。若しくは、其れよりも少ない時もある。金額の振れ幅は馬遊び(競馬)船遊び(競艇)や法律ギリギリアウトのパチンコ屋(裏カジ)の利益率に比例する。詰まる所、殆どの場合素寒貧(すかんぴん)である。

 五千円もあれば米と味噌と浅漬けにする野菜をある程度買い込めばひと月、腹は減っても食うに困ることはなかったが、千円やそれ以下の時は悲惨であった。母親にしてみれば生きていようがいまいがどうでもいい存在なのだと、一円として残してくれないときには呪いもした。

 愛情があるかと言えば、答えは否である。母親としては邪魔者程度、都合がよい時であれば娘扱いもされるが、そういったときは大概、育児に奔走(ほんそう)する母親を演じてあまり歴の長くないホストを(たら)し込む時や、若しくはそこいらへんで引っかけてきたサラリーマン風の中年から(むし)り取るときだと相場は決まっていた。

 そんな邪魔者()に取って母親は当然の帰結ながら邪魔者であり、集金人には申し訳なさそうに母親(邪魔者)の不在を告げるその(おもて)の裏で、只管(ひたすら)帰ってこないでくれることを願った。娘にとって、母親の不在の期間だけが平和だった。


 そんな娘にも一応ながら友達と云える存在はいた。

 何度かお互いの家で泊まり込む約束を取り付けられかけるくらいには仲が良かったが、普段友達の家にお邪魔するたび、云い様のない場違い感、言い換えるならば極まり切った(・・・・・・)居心地の悪さ(・・・・・・)と称してもいいものを感じていた。

 他人の生活、他人の幸福、他人の常識、他人の地位、他人の様式――そういったものをありありと見せつけられるたびに、否応なしに自分とを比べてしまう。そして比べた末に必ず、強い自己嫌悪と(いわ)れのない強い屈辱を覚えるのだ。


 そう、他人も私とを比較しているのではないかと。


 小学校も、昨今はモンスターペアレントを恐れて教員は事なかれ主義を徹底している。虐めを仲裁しようとしなかろうと、指導を行おうが行わなかろうが問題視され、地方紙の一面を飾ってしまう世の中だからだ。

 故に通っている小学校の教員も、頼ることはできなかった。娘の耳には今も『それは家庭で解決する問題だ』という言葉が強く残っている。

 児童相談所と警察がやってきたときも、母親は外面を繕うことも面倒くさいのか、そういったそぶりは一切見せなかった。

 ネグレクト、育児放棄――広義に虐待。その行為すべてを臆面もなく、恥に思うこともなく母親は肯定したが、極論通報した段階で“問題(刑事事件)”が発生していない以上問題ないとして、警察も児童相談所もそれ以上の介入をやめた。

 娘はブラックリスト入りしたのか、適当にあしらわれて電話を切られることが目に見えて多くなった。


 電気の付いていない密閉された(・・・・・)部屋で、娘は月明かりを頼りに物をまとめて居た。

 中学校の制服や鞄などの類には手を付けず、教材だけを父親から貰った鞄に詰め、あとは数日分の着替えと、何人かの集金人が娘を憐れんでか手渡してきた都合3万円に上る5千円の束。それ以外に、何も持たない。

 余計な荷物は持たない。

 これが彼女の全財産であり、他に彼女が自分で揃えたものは極論捨てられても、いつかまた金を出せば手に入る。

 それよりも何よりも、彼女は一刻でも早くこのアパートを抜け出したかった。母親が自称ホスト兼業の自営業を名乗る男を呼び込む前に。


 いい加減飽き飽きしていた。母親の奔放さに。母親の手前勝手さに。そうして借金が嵩んだから、春休みの期間だけとはいえホスト兼業の自営業の男が経営するガールズバーで年齢を偽り、昼11:00出勤夜20:00時上がり休憩1時間基本給1545円+席料金や接待など(お触りNG)によるボーナス支給の早番勤務、所謂コンカフェの時間帯に働くだなど、真っ平御免だった。やるなら自分の身を切り売りすれば良いとさえ思っている。

 しかし当然娘に労働基準法の知識などはなく、サバを読むという部分に目を瞑れば身内が身内の店を手伝うという名目で働くとはいえ、下手な借金のカタよりは大分ましな待遇であることは知らない。


 娘にとって母親とは親愛の情を向けるべき存在ではなかった。

 例えば、自分の中に一本筋が通っていての虐待であれば納得はせずとも理解はしただろう。

 例えば、自分で責任を果たそうとしているのであれば協力する気も起きたであろう。

 例えば、産まないでくれればお互いを嫌いあうだなんてことも起きなかったであろう。

 例えば、引き取られずに捨てられていれば、どれほどありがたかったろう。


 かといって、寝床の当てがあるわけでもなかった。

 父親の許に行くというのはあまりにも論外極まりない話だった。

 父親()は既に新しい妻を迎え、新しい妻の連れ子(赤の他人)新しい妻との間の子供(異母妹)とで望み通りの幸福らしい幸福な生活を送っているらしいから、既に縁の切れている娘は、その幸福な生活にはお呼びでない。




 いや、違うのか




 数日前に窓に打ち付けられた、ホームセンターで端材として売られている針葉樹の間伐材(かんばつざい)の板切れを引き剝がしながら、考えを改めた。というより、気が付いた。


 人生において概ねの人が20年近くに渡って続くと信じる絶頂にも似たそれ(幸福)を目の当りにしたら、おそらく己の自意識を保てなさそうだったからだ。


 そう理解してしまうと、ある曲の一節を笑い飛ばしながら板切れを引き剥がした。

 彼女は早くに自立して、早くに稼ぎ、早くに母親と関係を断ちたい。少なくともそれはそう、昔からそう考えていた。

 早くに自立するためには良い成績を取り続けなければならないし、そうして良い成績を取っても高校を卒業できなければ最低限の職場環境を得ることもできないから、奨学金を得てでも通いたい。行けるのならもっと高い所まで。

 そのためには、早く大人(・・)にならなければならなかった。

 どうしてとか、いつごろ大人になるのかとか、そんな悠長にしていたら、死ぬ。

 精神的にか肉体的にかは分からずとも、どのみち死ぬと分かっている。悠長にいつごろ大人になれるのかとか、どうして大人になるのかなど、そんな哲学めいたことを考える暇、自分には残されていない。

 別に勉強が好きなわけではない。家にいる時間が暇すぎて、他に趣味に回せるお金もないからそれしかやることがないだけだ。だから娘にとって学校とは勉強のための場所でも、親交を温める場所でもなく、その本質を武器(学歴)を手に入れるための場所だと認識していた。

 だからどこだっていい。勉強を続けた末に行ける場所がそこしかなければそこだけでも良い。なるたけ一つでも多く将来に役立つ信用力(学歴)武器(教養)が欲しかった。


 ロープは窓に板切れが打ち込まれた日に、ホスト兼業の自営業の男が何の目的の為にか徐に持ってきたものだ。

 長さの計算すらできないのか無駄に5mもある長大なロープは、結局使われもせず家に置いて行かれた。それを娘は有効活用しただけだった。


 夜中の町を駆け抜けて、魅惑的な夜の闇の匂いを振り払う。

 目指す場所もアテもない。

 深夜もやっているネットカフェなど、未成年お断りを表札に掲げている。身分証明書の提示を求められる場所も多い。

 かと云えば、カラオケボックスで何時間も使うような金銭があるでもない。

 コンビニで夜を明かそうものなら業務妨害で警察に通報されかねない。

 友達(・・)の家も、この時間では寝入ってしまっている。

 深夜に逃げ出すのは軽率だったかと舌打ちをする。歓楽街が近いとはいえ、深夜から朝までやっている店というのは、通報されないよう(人畜無害)な店というのは案外少ない。

 そうして町中でふと立ち止まり、結局自分は遠くへ逃げ出すこともできないのかと、摩天楼に高みから笑われているような錯覚に陥った。不愉快で酷く癇に障る。

 今時五百円あれば片道切符とはいえ県を跨ぐレベルの移動はできる。県境までバスで移動してそこから電車でさらに遠くまで移動することだってできる。やろうと思えば、子供のお小遣い程度で遠出なんて幾らだって出来るのだ。そんな事実に、歓楽街に入ってから、終電が過ぎてから漸く気が付く自分の無能ぶりに、酷く腹が立つ。

 回り中の大人から馬鹿にされているのではないかと疑心暗鬼に陥りそうになる。いや、既に陥っている。


 そんなこと一番私が理解している。――だからやめてくれ。私を哀れ(・・)まないで(・・・・)くれ。私を可哀そうだと笑わないで(・・・・・)くれ。私は決して、可哀そうなんか(・・・・・・・)じゃあない(・・・・・)

 私は決して、可哀そうになんて(・・・・・・・・)なりたくない(・・・・・・)


 ()(つくば)って(こご)えて夜をただ生きる、そんな優雅(ゆうが)さも何もない鳥のような娘を、誰も気に掛けない。気に掛ける必要はないのだから、気に掛けない。声を掛ければそれだけで犯罪になる世の中で、責任(保護)など、他の人間がとればいいと。

 だから誰も声はかけないし素通りしていく。極論、誰も娘に興味などない。故にこれは自意識過剰と呼ばれても仕方ない。仕方ないが――




 誰にも頼れない。頼れないのなら、私はどうすればいいのだろうか。私は私をどこに、どうしたいのか。私はどうなりたいのか。




 誰にも頼るアテはない。頼れないなら頼らないで済むようにならなければならない。警察も児相もこれは事件ではないと判断した以上、(おおやけ)を頼ることはできない。そんな子供は幾らでもいるから、他の子どもと変わらない。

 特別扱いを望んでいるわけではない。しかしせめて人並みに暮らしたい。娘にとってはそれでよかった。ただそれだけでいい。平和でさえあればそれ以外に何もいらない。

 別に得られないならどん底に身を置きたいとか、そんな破滅主義でもなかった。ただ身の危険に衝動から起こした行動であったことも事実であり、若干の後ろ髪を引かれる感触もあった。

 逃げられさえすればそれでよかった。誰にも邪魔されず、誰にも止められず、誰にも悲しまれずに、野垂れ死ぬかのように。


 気づいて貰いたがっていながら同時に、(あわ)れまれることを、同情されることを嫌う。まるで野良猫のようだと娘は己を(あざけ)る。そうでもしなければ不快感(・・・)に押しつぶされそうだったからだ。

 惨めな己を一目見られでもすれば、憐れまれでもすれば、きっとそれに耐えられない。同情などひと時の気の迷いでしかなく、憐れみはひと時の快感でしかない。そしてそんな自慰行為を知らないふりして甘えていられるほど恥知らずにもなれないと娘は知っている。


 あぁ、いっそ恥知らずにでもなれれば、どれほど楽だったろうか――


 侮蔑(ぶべつ)とともに吐き捨てるように、何ともない風を装って歩き続ける。誰かに気が付いて貰いたくて。誰にも気取られぬように。


 そうして今日、初めての家出を敢行した娘は、春半ばのむず痒くも肌寒い夜中に溶けようとしていた。

 憐れみも同情も要らないと吐き捨てながら、飢えに苦しむ己を見捨てないでくれと、(せき)を破ったように溢れ出す涙に堪らず、夜へと吠えながら。







 娘はベッドの上で寝ていた。

 羽毛布団なのか、フカフカしていながらもヌクヌクと温かく、高反発素材のマットレスと柔らかい敷布団がフカフカさに拍車をかけており、覚醒した直後、二度寝を決め込みそうになっていた。

 肌寒い夜明けにフカフカでヌクヌクとした布団から抜け出したくないと思わない人はまずいないと思われる。つまるところそういうことである。


 思わず寝返りを打って右隣を見てみると、正直到底二十代目前とは思えない濃いヤクザ顔の男が娘の腹に腕を回し、まるで抱き枕か何かを抱きしめるようにして寝ていた。(ぬく)さに拍車をかけていたのはこの男で間違いない。そして間違いなくこの状態を見られたら事案確定である。娘が損をするというよりも、主に男の方が損をしそうではあるが。

 彫りが濃いというよりも、単純に目付きと深く皴の刻まれて固着したかのような顰められた眉。

 ゴツイ、と表現したほうが良いのか。上背の在り筋肉もそこそこ隆々な男の姿は、どう好意的に見ても貫禄がありすぎてその道の人にしか見えない。この鉄壁の表情筋を動かすことは果たして出来るのだろうかと心配になるくらいに。

 その今現在の在り様を確かめるに、この堂々と抱き寄せて眠る姿を鑑みるに、この男を表す単語は少なくとも娘の中に存在する語彙(ごい)としてはこの一言に尽きた。即ち――


「……変な人」

「変な奴で悪かったな不良少女」


 まさか起きていると思わなかった不良少女()が飛び上がって驚いたのは、もはや想像に難くないだろう。

 パッチリと見事に視線が合っており、逃げ出せない。というより、逃げ出そうものなら即座に警察に保護願いでも出されそうな雰囲気に、娘は飛び上がった姿勢のまま硬直していた。


「……おじさんは、そういう趣味があるんですか?」

「ほぉ、処女の一つ散らされず丁寧に拾って貰った挙句に飯と風呂も頂いておいてからに、中々良い度胸してるな家出娘。あ~このまま警察に未成年淫行の現行犯っつうことで突き出しちまおうかのう~?」

「ごめんなさい」

「はい、よろしい」


 即座の土下座であった。




 閑話休題(お巡りさん事案です)




 顔に似合わぬ良く出来た欧風の朝食を目の当たりにしながら、娘はしばし戸惑っていた。


「どうした、食わないのか家出娘? 餓死娘(がしむすめ)52(フィフティーツー)になりたいんだったら構わんが」

「あ、はい……え、いいえ! い……頂きます」

「はい、ご賞味ください」


 サラダはキッチンで男がレタスとキャベツだけ適当に手で毟るようにして盛り付けた物であり、クルトンの他にタマネギと長ネギ、何故か短冊切りにされたニンジンにこれまた何故入っているのか浅漬けされた胡瓜とスライスされたゆで卵が入っている。その上から掛かっているのはレモン塩である。もはや何なのか書いている私ですら分からない。

 三個乗っかっている目玉焼きはヒンドゥー教や仏教的に呪殺や延命長寿にご利益(霊験)の在りそうな奇麗な三角形を描くように配置されている。黄身は半熟らしく、薄膜を張った白身の奥には仄かに赤みがかった黄色の物体が流れている。白身も良く焼けており、表面に薄くかかっているのは細かく挽かれた岩塩と胡椒、さらに鼻を擽るのは中華山椒だろうか。

 盛り付けられているのは当然目玉焼きだけではなく、外国産をそのまま取り寄せたかの如き色見の強い燻製肉(ベーコン)が6枚、適当に焼かれた上で目玉焼きの下敷きとなっている。日本製のベーコンは燻製エキスを塗してミディアムになるまで茹でただけの肉である定期。

 隣には何故かプレーンのスクランブルエッグが卵2個分相当鎮座しており、上にはケチャップとマヨネーズと蜂蜜を混ぜた所謂オーロラソースが掛かっている。そろそろ娘としても胸焼けしそうになってきた頃合いである。

 さらに場違いなことに、この欧風のプレートの上に何故か刺身が12枚、おそらくサーモンを炙ったものとサーモントラウト、大トロのビンチョウマグロが乗っており、薄口醬油が何故か薬味皿に盛られている。いや、薬味を盛れ薬味を。

 何でもありクソガキプレートの最後の一品はジャーマンポテトの成れの果ての如き粉吹芋(こふきいも)とブルストとベーコンを海塩と岩塩のあわせ塩に花椒と胡椒と鷹の爪と中華山椒の合わせ山椒で香りづけというカオス極まりない香りが振り付けられた物だが、何だかんだでジャーマンポテトっぽくなっている。これが普通の皿に山盛り一杯乗っている物でイメージした場合、それが四杯分大皿に乗せられている。

 そして茹で卵がカ〇オストロの城に出てきそうな卵ポットではなく何故かかなり大柄のワイングラスに押し込まれている。四個も。更には味変用と思われる塩や胡椒、ニンニクやらが薬味皿に盛られた上で並べられている。

 こんなメニューならパンが主菜かと思われるが、何故か皿に山盛りの高菜を刻んだお新香に、ワカメご飯用ワカメと昆布の混ぜられた混ぜご飯が丼に山盛り一杯盛り付けられ、若干薄味の具沢山の豚汁が大型のラーメン丼一杯分である。なお豚汁の中身には何故かキャベツ、鶉卵、大根、ささがきされた牛蒡とささがきされた人参、高野豆腐に白滝などが入っている結構ベーシックな物だった。

 これが都合二人前である。それぞれ描写したくなくなるほどの量が盛り付けられている。


 そう、ここまで描写すればわかる通り、娘は久々のマトモな食事に面食らったわけでも、男が意外と普通に料理をしている瞬間を目撃して驚いたからでも、ましてや面倒見の良さそうに見えない風体の男が娘の気が咎めないよう気を使って同じ配分で自分の分を盛り付けたことでもない。

 そう、何度も云うが、ここまで描写すればわかる通り、娘はあまりの物量作戦に面食らって戸惑っていたのだ。


 卵だけでも彼女の分を作るだけで10個入り一パック分を丸々使い潰している計算になるし、大型のラーメン丼一杯分の豚汁は昨晩には存在しなかったものだ。

 目の前のワカメご飯も男は平然と炊飯器から取り出していたが、その炊飯器も昨晩は空っぽであったことからして、男は娘が寝入ったのを見計らってから手間の掛かる物をあらかじめ調理しておいたことになる。


「卵尽くしですね」

「消費期限ギリギリだったもんだからな、大急ぎで調理したんだわ」

「お肉マシマシですね」

「若いんだから肉食え肉ゥ」

「ごはん、あったかいです」

「おお、そりゃ何よりだわ」

「スクランブルエッグ、下手ですね」

「よしいっぺん表出ろ」

「ごめんなさい」


 消費期限がギリギリだなど、嘘くさい。ゴミ箱から覗くパッケージの消費期限は二か月先を指しているのだが、視線に気が付いた男は卵のパッケージ2パック分をむんずと奥に押し込んでしまう。証拠隠滅のつもりだろうか。

 料理自体は、一部の見た目がやばいものを除き、概ねおいしい部類であった。娘がまだ父親と暮らしていた時に父親が振舞っていたのに近い味付けであり、要するにしょっぱくて辛い。

 一人暮らしが長いのだろうかと考えながらチラリと目の前の男を見やるが、男はそんな娘の視線など意に介さずに黙々と食べ進めている。しかしあまり減っているようには見えない。

 すでに一人前が二人前や三人前の領域に達しているのだから当然であり、さらにはありったけの卵が使われているのだから、味を変えようと何をしようと飽きが出てくるのもまた致し方ない問題と云えた。


 自立している、と表現したほうが適切なのだろうか。少なくとも、娘の目には、これ以上なく男は自立しているように見えた。

 自分で住居を持ち、自分で食事の面倒を見られ、自分で着衣を用立てて、自分でその生活を自分自身の手で保障している。その末に、見た目に反して意外と優しい(ヘン)のか、どこの馬の骨とも知れぬ娘を家に上げて物量で持成している。そんな余裕がある。

 少なくとも、娘の求める答えの一つではある。即ち娘の定義するところにおける大人(・・)、なのである。

 誰にも頼らず、自分の力で稼ぎ、自分の力で生活する。つまるところ、自分で自分の面倒を見られる。勿論そんなの、世の中の成人男女の大半が送っている生活であることは当然娘も理解している。しかし目の前でそれを実践している姿に、云い様もなく、名状しがたいしこりのようなものを感じていた。

 何故彼に出来て自分は出来ないのか。ともすれば、こうして誰かの手を借りている現状にすら仄かな憤りを覚えている。


 ―― 一晩のうちに大分恥知らずになったらしい。感謝して然るべきところを、助けてもらったことに憤るなど畜生極まりない。


「そいで、何でお前は昨日、駅前であんなことしとった。一番最初に声かけたのが俺だったから今こうして飯食えてるわけだが、そこらのロリコンだったら今頃好き放題使われた挙句に乱交や輪姦に繋がっていたかもしれんのだぞ」

「……そうすれば、お金が手に入ると思ったから」


 男の皴のよりまくった眉間にさらに深い皴が刻まれたのが見えたのは、気のせいではない。

 もう少し云い様がなかったものかとすぐさま自問自答するが、男の鋭い目付きで一睨みされてしまえば、もはや何も言い直すことなどできなかった。

 深みの増して不機嫌そうなのを隠す気もなさそうな男の声音は酷く落ち着いていて、別段強く叱られているでもないのに、娘は指先すら動かせなくなった。


「ほぉ。それだったらまずはあんな小汚い恰好辞めてビッチリ化粧キメて、もう少し肉付けて出会い系サイトにでも登録しなけりゃ金払いの良いのなんぞ釣れんぞ。あんな小汚い恰好で、飯も碌に食べられてないのも丸分かりの骨と皮だけみたいな恰好で誘ったところで、誰も釣れんわ」


 云われて、チラリと腕を見た。

 男が普段着ているであろう、娘にはあまりにもブカブカな半袖のTシャツから覗く腕は不健康に白く、自称自営業の男に蹴られて出来た打撲痕から目を背ければ、やけに細く見える。

 なるほど、骨と皮という表現も強ち間違っていそうにない、そんな不健康そうな腕と足が胴体に繋がれている。


 小学生がラブホに一人で泊まれるはずもない。カウンターで止められる。カウンターの存在しない、ヤードで監視カメラのチェックがされている所謂無人のラブホと云うのは、そんな便利なところ、この近辺には存在しない。

 しかし少なくとも男を引っかければ体を対価に寝られる場所と食事が摂れると、そんな浅はかな思い付きから始めたことだった。

 不思議と、昨晩は自信があった。きっと上手くいくと。生家からの脱出が出来たのだから、出来ないはずも失敗するはずもないという不可思議な自信があった。

 体が当たって倒れこんだ時、物のついでに、練習だと思って声を掛けたのがこの男だった。


『ほ、ホ別、よ――4万円で、ど……どうですか』

『――――四万で良いのか?』

『え?』

『高々四万で良いのか? だったら買うわ。ついてこい』


 意味なんてこれっぽっちも理解していないが、創作物でよく見かける隠語を唱えてみただけだった。しかしその結果、いま娘はここにいる。

 一体何がこの厳めしい顔つきをしている男の琴線に触れたものかは分からないが、昨晩も夕食を振舞われて、今もまた朝食を振舞われている。優に昨晩の1.5倍ほどの量の朝食を。それを男は不満げにご満悦そうな表情で見ているだけだった。一言も発しないで。

 しかし意味を理解していないと云うのは、些か自己保身に過ぎる。明白過ぎるほどに明白な話、当然のことながら意味は理解していた。ただ相場(・・)が分からなかったから適当に、しばらく食繋ぐのに事欠かなさそうな額面を伝えただけに過ぎない。

 では、一体彼は娘をどうしたいのか、どう扱いたいがためにここまで連れてきたのか――それがまた疑問として胸に(つか)えた。


「まぁとりあえず、一週間は置いてやるわい。後のことは応相談だな。水道代も電気代も気にしないで良い。好きに使え。大学が休みになってないんでな、しばらくは留守がちになるがまぁ、食費は置いておくし必ず飯は作り置きしとく」

「は、はぁ――作り置きされるなら食費は――」

「俺はお前の好みなんぞ知らん。嫌いなもん作り置きされてて嫌だったらそれで食や良いし、小遣いと思って貯めときゃあいい」


 そんな疑問一つ一つ相手にしていたらキリがない――そう云わんばかりに男はどんどんと娘の先を行く。

 単純にスケジューリングが早いのか、それとも露見が怖いのか――どちらとも取れる現状を理解していながらも、不思議とこの男は信用しても良いのではないかと、安直で安易だと分かっていながらも男の計画表を承諾した。

 というより、そうしなければ娘には、否この世界には、どこにも居場所などないのだから。

 無意識的に理解していて、信用や信頼と云う都合の良い言葉で何処か大義名分を得ようと、流されて行動しているように見せかける自分の浅ましさに云い様のない吐き気を覚えた。

 蛙の子は蛙であり、ろくでなしの娘はろくでなしである。

 いつだったかに親族の誰かが呟いていた言葉が娘の頭のなかで反響していた。これではまるで、母親のやっていることと同じではないかと。事の緊急性が違うだけで、娘が今男に持っている感情は、タダ男に貢がせている好意と変わらないのではないかと。

 その無力感と虚脱感しか伴わない事実に表情を歪めることなく、男に安心して貰いたいのか騙したいのか笑顔で対する自分の、なんと気持ち悪いことか。


 こうして、19歳男子大学生(自称)と12歳女子中学生(予定)の奇妙な同居が始まった。





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