第2.75話 ~地獄篇~ 下
辺りは暗闇だった。手足も見えなければ征く先も見えない、真実の暗闇。
文明の火の痕跡も無く、あるのはただ寂寞とした暗闇だけ。
真実の夜とは文明の火の消え去り遠くから微かにも露光していない状態を指す。その暗闇の中には月明りや星明り、場所が場所なら雪明りの類しかない。
真実の夜ではなく、真実の暗闇。無窮に広がる、暗黒の世界。
宇宙には星の存在しない空漠、何もない伽藍堂の空隙のみ広がる場所がある。銀河団でも大銀河団でもない、それらの網の合間、ぽっかりと空いた暗闇。この暗闇はそれらよりも深く、濃い。
故に、これを形容する言葉などそもそもとしてこの世に存在しない。
一体己は何処へ向かっているのか――このまま消滅するのか。定かならぬ己の進退に鷲宮准はしかし、偽善と知りながら見も知らぬ御鏡■■の決断に涙を供していた。
転輪聖王・弥勒と自称した龍は、聞かれた全てに対し、明確に答えていた。それが尚のこと腹が立って、悲しくて涙が出たのだ。お前たちは子々孫々に至るまで同じことを考えるのかと。
それ即ち、救世を体現するシステム。救世とは人々を苦しみから解放する行為全般を差す概念であり、そして究極的には全人類の解脱を意味する。仏や菩薩たちの目指す、人類の末路である。
転輪聖王とはヒンドゥー教と仏教に共通してみられる王という存在、概念への考え方だと云う。
ある教典に曰く、ヒンドゥー(もしくは仏教)を信奉する全ての人民、全ての王が目指すべき王の理想の在り方、理想郷的社会を築き上げる王を選定し、この世に理想郷的社会の実現を果す理想の王の姿を指す。その様相は複数の宝珠と花と、転輪と、剣若しくは金剛杵の類を持つ多面多臂の姿として描かれる。
そして弥勒とは、ゴーダマ・シッダールタの入滅後56億7千万年後、末世の窮まり菩薩らの叡智の届かずこれ以上なく荒廃しきったこの世に顕れ、釈尊がそうしたように、瞬く間に衆生を済度する未来に現れる未来仏。
転輪聖王獅子吼経では、下界で文明の爛熟と堕落の1サイクルが終わり、人類の寿命が8万歳に戻ったころ、生きる苦しみを理解した人類の許に仏陀の様に教えを説くために顕れるともいう。つまりこちらでは一通りニートを満喫したのち、人類の栄枯盛衰には一切関与せず、文明が再び爛熟し始めたところに顕れご高説を垂れ流すと云うこと。
詰まる所ゾロアスター教を含むペルシャ系セム系一神教におけるサオシュヤント。キリスト教におけるナザレのイエス、ユダヤ教におけるマシヤフ。イスラム教におけるマフディー。
なんでもいい。つまるところは世界を救うと云う終末論者の好みそうな使命を帯びた存在。云うに事欠いて救世主の類。
それら全てを掛け合わせたようなその名の意味するところを考えればおのずと答えは見えてくる。
転輪聖王・弥勒が王として君臨し、そして同時にあの胸糞悪い世界の全ての人類を救済する器となると云うこと。
救世を体現するシステムと云うことは即ち、見も知らぬ御鏡■は己をそのシステム成立の為の人柱として犠牲となったこと。
救世を体現するとは即ち、あの胸糞悪い世界全ての人類の済度を行ってなお先がある。
あり得たかもしれない歴史ではなく、このままであれば何れ訪れる歴史。
このままであれば、何れ人々が直面するであろう末世。
自分たちの選び取った未来の果てである。
その意味を考えれば、その生末を考えれば、その末路は当然のこととして理解できる。
ドクトル・バタフライは云った。よくも生身でこの地獄を生きていられたものだと。
山南修は云った。ロボットから出すなと。
転輪聖王・弥勒は云った。己は人身御供の王だと。その上で済度するのだと。
それは詰まる所、この世界――この時代、人間はあのロボットが無ければ生存すら難しいことを意味する。
それはこの共食いの法則云々だけではなく、外環境の劣悪さや碌に水すら確保できない有り様から容易に想像できる物であり、転輪聖王・弥勒の面貌には、その総体には一体どれほどの人が、ロボットが取り込まれているかもわからない。
であれば、通常こう考えるだろう。地球環境の再編と、現地球環境への最適化が済度の全貌であると。多くの人間はそう考えるだろうことなど想像に難くない。
だがもしも、もしも転輪聖王・弥勒が云うところにおける済度するという文言が、地球環境の改編ではないとしたら、どうだろうか。
救いの形というのは一つではないことを、三か月で彼女は学んだ。殺すことが救いになると云うことも、願いを聞き届けてやることも、共に戦うことも、袂を分かつことも――――救いとは千差万別であり、そしてその救いの形があの場においては一点に収束している。
全てのロボットは、その中に潜むヒトは、転輪聖王・弥勒との合一による解脱を目指していた。解脱とは一つではないが、仮に転輪聖王・弥勒の考える解脱の形がそうであったとしたならば、それは究極的には一つに絞られる。
局限すれば、地球からの解脱。
地球の環境は、最早一介の超能力者程度でどうにか出来る限界をとうに超えている。
辿り着けばあらゆる艱難辛苦からの解放を約束するあの龍にすら、地球環境を激変させるだけの霊的質量はない。所詮一人分の質量は一人分でしかないのだから。
ならばどうするのか――喰らい合い殺し合い進化し続けたヒトビトを、全人類を救済し救世へと導くとは、詰まる所地球型他惑星への植民をすら意味する。
その地で新生した人類は新たな人類史をはじめ、そして人類を済度し終わった段階で、転輪聖王・弥勒に課せられた使命は終わりを告げる。
御鏡■■■の意識は転輪聖王・弥勒を形作るにあたり――この胸糞悪い世界を形作るにあたり、既に溶けている。
痕跡一つとして、何も残っていない。
記憶されず、記録されず、感謝もされず、罵倒もされず、想像もされず、探求もされず、淡々と、その意思を継ぎ、救済を行うシステムが独り歩きしているも同然。
その意味するところは、愚かだと云う自覚のある鷲宮准にも理解できた。
御鏡■■■■だけが、進化に取り残される。御鏡■■■は救済の対象に含まれない。御鏡■は救世へと至ることはない。何よりも前提として――
そもそも死んでしまっているから、救いようもない。
無力だ。彼女の脳裏に絶えず浮かんで消えていくのは三か月にわたり己に無力感のみを突き付けてきた世界の在りよう――それでもと云い続けて取り戻した己の世界だった。
所詮一介の人間に世界を劇的に変容させるだ何てことできはしないのだと理解させられ、散々に誰かの手を借り、誰かと共に成し遂げた。散々に誰かに嫌われ、誰かに疎まれ、誰かに恨まれた。
間違っていると糾された。
正しいと背中を押された。
世界の異常性を説いた。
世界の正常性を問われた。
だがそれでも、最後は預けてくれたのだ。未来の行き先を。
それでもと云い続けろと、我武者羅に走り続けろと、友誼を交わした岩石の機械化人は見捨てないでくれた。もう終わってしまっているからと。
宇宙戦艦梁山泊の面々は、罪の意識が軽くなるようにと、四半世紀も生きていない小娘が駄々を捏ねない様にと静かに降車した。怖かった筈だろうに。
けれどもこれでは到底報われない。
一介の超能力者の領域を超えた能力行使の果てに、誰からも認識されず、誰かの脳裏にも残らず、誰にもその結末を想って貰えない。究極の自己犠牲と形容しても良いだろう。
情けは人の為ならず、巡り巡って己が為であると云うが、これでは甲斐も無い。しようもない問題ではあるが、しかし己が問いを投げずにいて如何とするのか。認識し、理解してやれるのが己しかいないと云うに。
救済ではない。救世ではない。単純に否定をすることだけは簡単だが、では己の世界が正しいと反証することが出来るのかと、己の内の何かが問いてくる。明確に反駁し、反証するに足る証拠など、当然存在しない。
しかしそれでも、御鏡弥生のいない世界は不要だと、鷲宮准は断ずる。きっと何百何千何万という限りない選択肢の中で、ちっぽけな二人が奇跡的に出会ったという、そんな可能性の一つにすぎずとも。
だから認めない。それでも認めない。少し早すぎる第二の人生の航路図を早々に練り上げた御鏡弥生が、こんな犬畜生や天狗ですら厭う地獄すぎる地獄を、望むはずはないのだから。
『どうやらこれは、貴女の意に沿わない進化だったらしい』
よく聞き知っていながらも初対面であると確信できる声が響いた。
それはいったいどのような魔笛を用いてのものか、空間中を乱反射するかの如く鳴り響き、直接的に鷲宮准の鼓膜を、脳髄を打った。それと同時に、呼んだのはこいつだったのかと、不思議と理解できた。
天狗道曼荼羅を見せるために、
欲界第六天を回避させるために、
罷り間違えれば天魔波旬変生の訪れることを知らせるために、
何より、間違いを自覚するために
このまま将来が招来すれば、やがて、何世紀か何百世紀かは分からないが、いずれ訪れる窮極的な救世の形。
救いを成すために報いを与え、
浄土へと導かんがために天狗道へ墜とし、
済度を成すがために他化自在天に堕し、
降魔を成すために天魔と為す
故に人身御供。たった一人が人柱となって大勢を救済し、たった一人だけが救われない。救われる人々のいることを妄想するだけで救われているから、これ以上に救われる必要はないのだ。
救世主とは使命の預言とともに、その世代において初めて救われた人間である。だからそれ以上に救われることはない。救われる必要はない。その先があるということを知って満足して、衆生の済度を使命に燃え尽きることさえ厭わない異常者であり、殉教者でもある。
救世主となったから、救われてしまったから、だからこそ楽土へと至ることはない。
以上のことから、彼女の結末は決まってしまった。即ち彼女の末路は“救世主”だ。
しかしそう、満足なのだ。
どのような形であれ、どのような末路であれ、どのような阿鼻叫喚であれ、どのような時間の浪費であれ、将来的に救われることが確定している大偉業だから。
『Verweile dochDu bist so schöne. そう思ったから成した。寿命以外で死ぬことのない貴女か、貴女の生まれ変わりか――彼女も笑っていなかった。ほかならぬ、彼女の笑顔を見たかったのだが……』
至極の悦をこの瞬間に味わっているから、それ以外はいらない。
学識高くどれほどの高名を得ようと、最期には悪魔メフィストの策とも云えぬ策を真に受け、ついにこの言葉を漏らした博士ファウストのように。
御鏡■も、安っぽちい己の命を対価とすることで救われる人々のいることを、その代償が己一人分で済むことに満足したのだ。いつか救われる日の来ることに、いつか新世界の経路へと至る進化した新人類が得るだろう夏の世の夢の如き安息の日々に充足感と高揚感を抱きつつ、迸る絶頂が如く法悦の後に溶け消えたのだ。
本当に心の底から、やがて訪れる幸福に零れる笑顔を見たいと、そう思ってしまったからこそ。
「――何で笑っていなかったかわかるか? 救われることを願っているお前本人が救われようとしないからだよ! 救いを教授しようというお前本人が、何れ救われるにしたって地獄よりも地獄らしい世界を作ったからだよ! 誰か一人を生贄に幸せになる世界は、犠牲を求めるだけの世界を、極楽とも浄土とも呼ばない! そんな世界は間違ってる!」
そうだ、こんな世界は間違っている。
漸くわかった。自分が何に憤っていたのか。何を気持ち悪いと思っていたのか。何故胸糞悪いと頻りに口にしていたのか。
最初はあまりもの気持ち悪さに、あまりにも末世極まりすぎて気持ち悪いと零した。
その次は進化とやらに払うあまりにも大きすぎた代償に。
その次は、究極的には全て善の悪龍……転輪聖王・弥勒に帰依することに。
だがそうではない。彼女が本質的に感じ取っていた気持ち悪さとは何か。彼女が本質的に感じ取っていた胸糞悪さとは何か。それは既に、御鏡■■■の自白するところである。
自分を救わないで、自分が救われた気になって、自分を蔑ろにしておきながら、自分で救われようともせず、自分から救いを放棄して、時間がすべてを解決するとばかりに時限爆弾式の救済の技法を残して消えた身勝手さに――
ともすればそうとも知らずに踊り続けるこの世界の人類の在り様にすら、鼻持ちならない不快感を、甚だしく見当違いな怒りを抱いていたのかもしれなかった。
そう、だからこそ、胸糞悪かったのだ。
そう、だからこそ、憤っていたのだ。
衆生の救われることを願ったお前が救われないんだったら、その救いには何の意味もない。
他の誰もがそれに同意したとして、きっと子々孫々も、そしてその場にいたなら私も、お前一人が救われない救済事業を認めることなんてなかった。
要するに、お前は間違っていたのだと。救世主という業を己に課した時点からして。自分の救われることを二の次にした時点で、決定的に。
残滓に何を云ったところで仕方ない。しかし言わなければやっていられない。一歩でも前進しているという風に思わなければ生きていけない。草臥れに草臥れ切った社会人のような感想を抱きながら、それでもその残滓を否定する。
お前が鷲宮准を呼んだ時点ですでに答えは決まっていたのだ。そう言われると知っていて、否定の語を期待しての召喚であったのだ。
だからこそただの否定はしない。お前が心底から後悔するように、お前の一番の間違いを正直にここで指摘してやる。たった数人でも、お前を思ってくれた奴を蔑ろにしたから、こうまで終わってしまったのだと。
『そうか……そんな簡単なことだったのか。貴女をここに呼んでよかった。そうだとも、無論これは進化の形の一つの姿に過ぎない。あとは、貴女たちが――――――』
□
問答とも云えぬ問答はそこで終わった。光の差さぬ真実の闇に一体何事か、光が包み込んだのだ。
お前はもう必要ないとばかりにはじき出されたのだと理解したのは、目の前数センチ程の距離で無言のままに涙を流す御鏡弥生を認識した瞬間だった。この今にも己を生贄に捧げてでも友人を蘇らせようと、魔王に魂でもなんでも売り飛ばしそうな小柄なくせに重たい女を視界に収めた瞬間であった。
次いで感じたのは友人の膝の上で寝かされているのだという布地越しの柔らかい感触であった。抱き寄せられてというよりは、もはや抱きしめるような力強さで。
「……どうしたんだ、弥生。泣きべそかいて。ちょっと眩暈がしただけだよ」
思ったよりも声が出ない。
少し掠れ気味の声で努めて優しく云うのは、友人に心配をかけさせまいとする感情からなのかは鷲宮准をして分からない。しかし確実に云えるのは、これ以上この友人を泣かせたくないという感情だった。
そんな彼女の気遣いなのかなんなのかを気にも留めず、泣きながら憮然とした顔で御鏡弥生は黙り込んで、しゃくり上げるのを我慢しながらゆっくりと言いたいことを声に出す。
「――――――――三秒間だ。准、君は三秒間、心肺停止状態だったんだよ」
「…………マジで?」
「フン、マジだよ。ケロッと起き上がっちゃって。僕がどれだけ心配したと思っているのさ」
普段のように軽口を叩いている風を装っているが、彼女の肩を抱く力が弱まる気配はとんと見えない。
どうやらかなり心配させてしまったらしいことを自覚したら、彼女は自分が次に何をすればいいのかを考えた。迷うことはない。普段のように、ただいまと言ってやればいいのだから。
すごく不思議な臨死体験をしてきた。夢のような内容だけど、聞いてくれるか?
そう口にするだけでいい。二度も共犯関係を築いたのだ。今更、三度目の共犯関係など怖くもなんともない。
「ごめんよ――けど、すごく不思議な夢を見たんだ。バカみたいな話だけど、聞いてくれるか?」
「それは精密検査が終わってからね。そのあとだったら、いくらでも聞いてあげるよ。まぁ少なくとも今日一杯は臨時入院を免れないと思ってね」
御鏡弥生の薄い胸板を抱き返せば、御鏡弥生もまた鷲宮准を強く抱きしめ返した。
これでいいのだ。私たちの関係は。
絶対に片方を残して身勝手に死ぬことのない、この共犯関係で。




