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第1.50話 ~玉鬘篇~ 中




 御鏡邸に乱入した闖入者の正体は、鷲宮准にとって忘れられない高校生活第一日目となった、あの始業式に参列していた銭形警部も斯くやと云う格好の男、暗黒寺叡景警部であった。

 その道も斯くやと云う見た目に――いや本人曰く元々その道を継ぐために、御鏡弥生を裏から手助けするための人柱となるために育てられたのだからその道の人間には違いないのだが―― 一瞬驚いた鷲宮准であったが、よく見れば現在護身術程度に楽しく殺し合う仲である堺境よりは愛嬌のある顔をしているような気がしていた。

 勿論そんなの一時の気の迷い、勘違いや錯覚の類であることは云うまでも無い。彼の見た目は間違いなく大変滅茶苦茶厳めしいモノである。日本語が乱れるくらいには、という但し書きが無ければ本文で表現するのが面倒くさくなるほどに。


 そんな暗黒寺警部と鷲宮准を見ながら、御鏡弥生は特に何をするでもなくその様子を眺めるに徹していた。

 二人の会話が馬と鹿が戯れあっているようで非常に微笑ましかったというのもあるが、現在絶賛、御鏡弥生の腹筋は筋肉痛を起こしていたからだった。原因は目の前で今も不毛な会話を続けている。

 つまり、御鏡弥生は半ば口論にも近い二人を止めないのではなく、物理的に止められないのである。腹筋が筋肉痛を起こしているせいで。腹筋が筋肉痛を起こしているせいで。

 なお現在絶賛腹筋が筋肉痛という到底想像したくもない状態にある御鏡弥生は、十年ぶりくらいに動くようになった表情筋を総動員して努めて平生を装っていた。

 はた目には子犬と成犬がじゃれて居る所を微笑みながら見守る飼い主のような穏やかな微笑であったが、よく見れば肩のあたりが若干震えていて右の口角が若干緩み、奇麗な正座を保っていたのが今では内股になるようにして座っている。


 事の発端は御鏡弥生が暗黒寺叡景警部の紹介を終えたあたり。暗黒寺警部がわざと(・・・)鷲宮准の名前を云い間違えたことが事の発端と云えば事の発端である。其処に消し忘れたOver Top Gearの阿保な惨状が漏れ聞こえてくるものだから、傍で聞いている側からしたら溜まったものではない。


「だから! 私の名前は、ワ・シ・ミ・ヤ・ジュ・ンだ!」

「ほぉ、鷹宮(たかみや)ジョンか。フランス男みたいな名前じゃな」

「耳腐ってんのかテメエ! 鷲宮准だって云ってるだろうが!」

「なんや(ちご)うたのか。鰐瓦ジャンやな覚えたったで」

「よし表出ろテメエぶちのめしてやる!」

「お、今ぶちのめすとか云わはったか。よし、逮捕じゃ!」

「あ、ズルいぞお前! お前が原因なのに都合悪くなると警察権使うとか、ショッケンランヨーだ!」

「ハハハ、警察権っちゅうのはこっただ時さ使うもんだ!」


 似非関西弁、と云うよりも方言のごった煮と表現したほうがより適切だろうか――彼が意図してそのような喋り方をしていると云うのは何となく鷲宮准にも分かっていて、その上で兄が己にそうするように彼もまた彼女を揶揄ってじゃれて居るだけなのだとも十分に理解できている。

 が、兎に角ウザいの一言に尽きた。


 兄や親戚にそうされるならまだ多少むず痒さはあるだろうが受け入れられる。

 御鏡弥生に急接近を試みようとする平賀との関係を揶揄われるのも如何と云うこともなく拳骨で返せばいい。

 ただ、見も知らずどこの馬の骨とも知れぬオッサンに気安く接されても、困る。色々と。

 鷲宮准も御鏡弥生に比べて交友は広い方であるが、隣同士とかいつも同じところで会うから話しかけたりして地道に交友が広がっているだけであり、自分から直接交友範囲を広めようとは、少なくともあまり積極的には考えない方である。

 極端な話、自分の両手の届く範囲で満足してしまうタイプと云える。


 あまり交友関係が広くてもどうのしようもないし、本当に信頼できる数人がいればそれでいい。それ以外は路傍の石、とまではいわないが、あまり多すぎても些細なすれ違いや歩調を極端に合わせようとする人の相手は、疲れる。

 特定のコミュニティを常に作りたがる傾向にある女性としてはある種枠から外れているとは理解しているが、それが己の生まれ持っての異能(パーソナリティ)であると理解して、春休み以来、受け入れることとした。


 それが彼女の超能力。他者から観測された己にこそ価値を求めていたと云っても過言ではない、自己主体性の欠如が表出した超能力――奇しくも、御鏡弥生と同様に重大な瑕疵を負っていた。


 堺境は彼女に何かを教えたわけではないが、しかし彼女は堺境の結界という物の本来持つ意味に惹かれ、そして春休み以来、ある一定の線を引くこととした。

 小難しく云った所で仕方ない問題だが、要するに、あまり大勢と仲良くしすぎないようにしているだけである。八方美人を辞めただけである。

 だから土足で上がり込むような奴に、以前は感じなかった拒絶反応を示している。これはただそれだけの、言うなればためし行動のような物なのである。少し騒ぎすぎなのは否めないが。

 そして鷲宮准はこの数か月で自分が思ったよりも周囲から気を使われていると云うことを理解していた。その最たるが――


「…………そろそろ泣くぞ」

「悪いそれだけはやめたってくれ。後ろから凄い形相で怖いお姉さんが睨んで来とんねん」


 このクソの様な台詞である。世の男性の7割方は苦手としていそうなセリフである。こういえば周り中が自分の味方に回ることなど、そんな物女性として生まれてきた瞬間から理解していたことだが、ことここにおいてはかなりの効果を発揮する。

 都城美峰は数か月前に恨むと云っていたが、しかしその行動は今日に至るまでまるで真逆の行動を取っている。御鏡弥生に曰く、心配の裏返しであると。

 御鏡弥生は、未だに己が数刻程度とはいえ正気を失っていたという不覚に、その結果として彼女の左腕を奪ったという事実に並々ならない後悔を覚えていた。数か月経った今も、彼女が以前と同様、普通に接しようとも。

 その両者が同時に、片方は襖の向こうから、片方は鷲宮准に隠れて大爆笑をこらえながら殺気だけを。暗黒寺叡景警部の胃にヒットポイントがあるのかは不明だが、あったとしたらこの一瞬でゲームオーバーは確定だろう。


 そんなところに、またOver Top Gearの音声が割り込んだ。

 どうやら人の名前からナニかを連想したエレミヤにリヒャルトとホームズが突っ込みを入れているらしいが――――御鏡弥生の腹筋に決定的な打撃が叩き込まれることとなった。


〈人の名前を聞いて何を思い浮かべるかなんて君の勝手だが、それを僕たちに押し付けないで欲しい。僕たちの品性が疑われる〉

〈品性だって!? 君たちの口から品性なんて語彙が飛び出てくるなんて、思いもしなかった! てっきり……常日頃から私の隣でクソのような戯言を上の方のケツから垂れ流しているだけだとばかり思っていたよ〉

〈ジェレマイヤ、君はあれだ。仮にジェローム・ダンボルチオという青年がいたとして、きっと彼と出会ったら終始会話そっちのけでその――“女性器自体を含めた非常に敏感な性感帯の中でも結構敏感なあそこ”のことばかり考えて会話に頭がついて行かない方だろ?〉

〈君だって思い浮かべるだろう? “頭文字がVで始まるあの非常に敏感な感覚器官一連の中で更に敏感な頭文字がCで始まるあの部位”や、“頭文字がVで始まるあの感覚器官一連の中でも飛び切り敏感な頭文字がPで始まるあの性感帯群”のことを〉

〈ちょっと待て、ちょっと落ち着こうかエレミヤ。つまり君は仮称ジェローム・ダンボルチオ青年に道端で偶然出会ったらこう云うってのか? ――やぁ性感帯! 今日も女性器みたいな顔をしているな!〉

〈ハン! 全く君って奴はしょうがない。しかしわがことながらこれは…………云うかも知れないな……〉

〈やっぱりな! 君って奴はそう云う奴だよ!〉

〈……君と二十年近く番組を共にしてきて初めてこう思ったよ。最低(ピー)だな〉


 無言でテレビを指さす鷲宮准に向かっての暗黒寺警部の一言は、薄々鷲宮准にも予想が付いていた。相手は親戚の子供を揶揄って構っているような風情の、そんな印象から微動だにしていない。となれば帰ってくる答えなど自明。

 御鏡弥生は続く反応が分かってしまって遂に顔を伏せて腹に手をやった。どうやらもう腹筋が限界らしい。珍しくジーンズ生地のスカートを履いているが、視線を防ぐことに気を回していられないのかストッキングの生地の下から白いものが微かに覗いている。

 そして続いた暗黒寺警部の台詞は、これを読む概ねの予想した通りである。


「豪く下品なイギリス男たちだべな。おどれらこっただ番組みちゅうといげねぞ。学生の本分に身を入れんと、ワシみちゃあなろぐでもねぇ甲斐性なしになってまるぞ」

「まともなこと云っているのは分かるけど何処の方言だよ!」

「クヘッ、クッ、クッ、……多分津軽弁とか盛岡南部、名古屋とかの……あたりじゃないかなぁ……? ヒューッ、ヒューッ」


 もはや呼吸すら碌に出来ない御鏡弥生の惨状に気が付いたのか、鷲宮准と暗黒寺叡景警部はほぼ同時に御鏡弥生の方を向いた。

 彼女たちの視線の先では仰向けに倒れて腹に手を押し当てるようにしている、少しエッチい感じの有り様となった御鏡弥生の姿であった。パンストに包まれた両足は内股気味になっているが、暗黒寺叡景警部と鷲宮准の視線を完全に遮るには、些か力よりも太さよりも角度が足りないようである。


「弥生、ちょっとエロいな」

「奇遇じゃなワシントンJK。儂も同じことをおもっちょったがよ」

「おいナチュラルに人の名前を一字一句丁寧に間違えるな」


 このやり取りが御鏡弥生の弱目の腹筋に大ダメージを与えまくっているとはつゆとも知らない両者である。

 そんな両者の不思議な物を見る目とパンストの一枚向こうの生地を凝視する視線を他所に、御鏡弥生の腹が一回跳ねた。パンストに少しシミのような物が出来ている。


「あ、跳ねた」

「ふふ、ふ、腹筋が……筋肉痛起こしそ…………苦、苦し……」







 御鏡弥生の腹筋の調子が戻るのにそれほどの時間はかからなかった。なんとなれば主犯格の一人である暗黒寺叡景警部が時間も限られていることだからと、先ほどまでの不毛極まるやり取りに終止符を打ったからだ。

 それに合わせて、では当然ないが御鏡弥生も呼吸を整え未だ痛む腹を抑えながら暗黒寺警部の話を聞いていた。

 ちなみにだがもう片腕は暗黒寺警部の首を真綿で包むようなレベルではあるが、絞めていた。左足は警部の左腕に絡めるようにして畳に縫い付け、もう片足は背骨のど真ん中に膝をめり込ませる形でキメていた。純然たる公務執行妨害で立件される案件である。


「そいでな、弥生が慣れとらんキメ技をフラフラしながら掛けちゅう間に電話が来とったじゃろ。あれ本署からでな、忙ししとるやろと地域課経由でアポ取っといたはずの美術館オーナー、まぁもうそろそろニュースになっとる頃合じゃろうが、寒水洋二っちゅう容疑者が誰かに撲殺されてのぉ。困った困った」

「いやその前に、アンタその恰好、喋りにくくないのか……?」


 困った困った、絶対に寒水洋二と仙峰堂久彦が犯人のはずなんじゃがなぁ……と云いながらも全く困った様子を見せない彼に、そして目の前で今も行われているたどたどしいキメ技に鷲宮准は口を出した。

 もう少し脇を締めろとかどうとか、技のキメ具合ではなく、単純にその恰好苦しくないのかと。一応柔道や捕縛術に関しては素人の鷲宮准からしてみても普通に苦しそうな見た目をしているのだが、暗黒寺警部は涼しい顔で、という言葉ですら生温いほど楽観的な態度を崩さなかった。


「ハハハ。准、心配いらないよ。どうせこの警部、可愛い姪っ子と触れ合えて役得程度にしか考えてないから」

「いやぁ弥生がここまで感情出せるようになっとったとは思わなんだ。いつもファミレスの店員バリのスマイルで接してくるもんじゃから、内心嫌われとんのやないかと気が気でのうての、ご飯が毎食三杯しか腹に収まらんかったのよ」

「普通に食ってるじゃないか」


 普通に胃に収まっているようである。


 それにしても物騒な話である。殺しの話だなど。

 妙に客観的に人が殺された事実を受け入れている自分がいることに、彼女は人知れず寒気を覚えた。もしかしたら物理的な寒気だったのかもしれないが、一瞬身震いしてそのズレに、別の意味で恐怖を覚えた。

 人が死ぬと云うことは普通のことである。そう、ごく当たり前の生命の循環であり、そして春休み、彼女たちは十万人強の犠牲のもとに再び日常に回帰した。

 そんな物を目の当たりにしたから、でもなく、勿論彼女とてまだ殺した人数は一人だ。他ならぬ暗黒寺警部にキメ技を掛ける目の前の親友だ。しかしどうにも、まるで日常のことの様にストンと受け入れている自分に恐怖を覚えたのは確かだ。

 壊れたわけではないと断じたい気持ちも当然根底にはあった。己はまだ普通だと。

 しかしどう考えても、けれどどう見繕っても、そしてどう控えめに表現しても、彼女の感性は――彼女という人間の持つ認識は一般人から決定的にズレていた。

 例えば今この瞬間でも一時間あたりに数人は死んでいる。確実に、どんなに人死にの少ない日であろうと。

老衰、

   溺死、

      圧死、

         轢死、

            餓死、

               縊死、

                  窒息死、

                      落下死、

                          焼死、

                             病死、

                                爆死、

                                   戦死、


 今日もきっとどこかで誰かが死んでいる。だから死は特別なことではないと、何処かそう思っている自分がいることに並々ならぬ不快感を禁じ得ない。

 普通ならば、どんなに世捨て人を気取ろうが、本質的に人間は死を厭うものである。避けきれないと知って、何かをこの世に残そうと暗闘に次ぐ暗闘を続け続けるものであり、其処に事の善悪の別はない。

 そうして人類は発展してきた。偉人や名人、博学者と呼ばれるような際立った才能を持つ者だけが育てたのではなく、所謂、大多数に上る凡人が維持し、成長させてきたのだ。

 其処に、事の善悪に別はない。

 故に死を本質的に恐れなくなった時こそ、人は終わりだと鷲宮准は看破する。

 では究極的に、それを本質的に恐れなくなってきている己は一体何なのか。


 そんな彼女の内心で繰り広げられる葛藤を他所に、御鏡弥生は技をキメ続ける。

 対象が暗黒寺警部で良かったとホッと胸を撫で下ろすのも束の間のことであり、三十分にわたり手を変え品を変えかけ続けてきたキメ技を辞めたことでようやっと話が進みだしそうになっていた。

 漸く怒りか憤りかが収まったのかエアコンのリモコンを弄りだした御鏡弥生をしり目に、彼女は内心のその疑問に蓋をすることとした。

 設定温度の二度ほど吊り上げられたリモコンを見やると、彼女がここ数十分にわたり感じていた寒気のような感覚は錯覚ではなかったのだと理解した。

 設定温度は25度。寒くもなければ暑くもない、強いて言えば少し肌寒いくらいの温度だ。キンキンに冷えた部屋と云うべきか。その設定温度を上げると云うことは、御鏡弥生も鷲宮准がそう感じるのと同様に室温が低すぎると感じた証左だ。

 しかし実際問題、それまで低すぎると感じずに快適とすら感じていたのが、暗黒寺警部の登場からかれこれ数十分、足先の冷えを実感する程度には室温は下がりに下がり切っていた。まさか幽霊だなんて存在が実在するだなど、彼女には知る由もない世界であった。


「ほいでな、鑑識が現場(げんじょう)を終えたそうやき、そろそろ儂も行こうか思とるんやがおんしらも来るけ?」

「おい捜査機密はどうした」

「ハハハ、勿論来る言うても連れてったらんのやけどな」

「お兄さん、そんなだから准にウザがられるんだよ」


 腹を摩りながらゆっくりと、敢えてゆっくりと皮肉気な御鏡弥生の言葉に、しかし暗黒寺警部は全く気にしない。どころかそうだとは全く思ってもいなかった様子である。


「ワシはウザがられとったのか!?」

「身内でもない初対面の三十路のおじさんにウザ絡みされたらそりゃあウザったいよ」

「弥生の身内は友達の身内も同義やろ」

「女子高生とお友達になる中年男性って良い感じの記事になりそうだよね」

「やめんかい。ワシの社会的な地位が死ぬわ」

「警部って一般的にはどのくらいの地位なんだろうね」

「そこそこやないかのう」


 一般の企業で云えば部長などの役員階級もしくはそれに準じる階級に相当し、警察内では役員より下だけど中間管理職よりは上、と云ったほうがよさそうな印象を受ける階級であることは間違いない。


 鷲宮准は勝手な想像ながら強ち間違っていそうもないことを考えながらも、グダグダしたこのやり取りを眺めるに徹した。というよりも、下手に何かを言えばこの状況がさらにグダグダ続きそうなのを察しただけである。

 足先の冷えは変わらず、増しているように思えた。別段鷲宮准は極度の冷え性ではない。生理中ならば冷え性気味になるタイプだが、平時においてはどちらかといえば体温は高めのほうであるがどうにも、今日は寒い(・・・・・)。外気温は38度で、今いる場所は古式ゆかしい古式の木造建築を軽くリフォームしただけの家屋なのだから当然、その影響を受けてある程度冷房の効きも悪いはずの客間(御鏡邸において断トツ高級な部類且つ一番冷暖房効率を考えて整備されている部屋である)において寒いだなど通常あり得ないが、どうにも寒い(・・)

 次いで足先や背筋を這う汗の不快感に思わず身震いした。設定温度上そうまで冷えていないはずの部屋で、かつそこまで暑くもない部屋で何故か、気が付けば背筋に玉のような汗が浮かんでいるらしいことが、背筋を滑り落ちていく感触から何となく察せられた。

 その感触をより緻密に、より正確に伝えるとするならば、蛇に睨まれた蛙と云ったほうが適当か。もしくは叱られるのが嫌で隠し事をした末に親にバレたときのような、そんな何者かに上から見下されるような圧迫感。窮屈というよりも肩が自然と縮こまるような感触。

 故に蛇に睨まれた蛙。より強いものに全体を監視されているとき特有のその感触だった。


 当然のことながら、鷲宮准に大原紗耶香――暗黒寺叡景警部に取り憑くその存在が見えているなどといったことはなく、単純な違和感だった。

 人一人分多いような錯覚。少ない人数の中に上手く気配を混ぜているが、それでも狭くもなく広くもない空間に何かがいればその分圧迫感は強まるが、それはどうにも鷲宮准の想定範囲を超えているような、そんな予感を少なくとも本能的に、鷲宮准は悟っていた。

 思い起こされるのは春休みのアウグスタとの初戦である。

 普通の人間の魂数百人分と称してもまだ足りないくらいの圧力――云うなれば人を超えた存在。人でありながら人ではない存在。人の領分を超えた密度を持つ存在。これはそういう類の圧である。

 そんなものを上手く、狭い空間内に溶け込ませようとしたところで、どうしようもなく浮く。違和感が付いて回る。

 鷲宮准がそんなどこかの探偵が云いそうなあり得なさそうな選択肢を全て排除してもその違和感の正体を否定するのは、結局のところそういうことなのである。見えなければ居ないのと同じだからだ。

 だからこれは気のせいなのだと、背筋を見つめられるような違和感にも目を瞑り、努めて平静でいた。







 暗黒寺叡景警部の見送りに鷲宮准も付き合っていた。御鏡弥生の何を根拠としているのかも分からない推理に耳を貸しながら。


「まずだけど、犯人は仙峰堂久彦と寒水洋二の二人で確定だよ。現場に残っていたよくわからない足跡と今朝の身元不明の焼却遺棄された死体は、現場を偽装するために二人が雇ったホームレス。報酬と一緒に、部屋の中にある高級そうなものを好きなだけ質屋に入れていいとかを条件に雇ったんだと思うよ。今日明日から永遠にいなくなっても良い人材が欲しかったんだと思う」

「せやろな。焼却死体の周りでは争った形跡があったらしい。そこにゃあ藤堂久右衛門の家に在った二人分の足跡はなかったそうやき。んで、うち二人分は丁寧に顔と両手両足の指紋が潰されたうえで焼かれとった。片方は後頭部と思しき部分に陥没痕が確認されとるし、推定殺害時刻の前後、周辺に住んどる33浪中の受験生が爆発音みたいなのを聞いた結果受験に落ちると思い込んで自殺未遂しとる。十中八九焼却時の音やろな。最後の一人は市の焼却場でゴミを焼却しとったら、急にゴミが起きだしてデカいうめき声を上げて倒れたそうや。で、気味悪がって職員が炉を緊急停止させて、1時間後に完全停止したのを見計らってみたら、仏さんは見事なウェルダンになっとったらしい」


 到底玄関先で話しているところを誰かに聞かれようものなら正気を疑われそうな内容を、誰にはばかることなく繰り広げている姿に頭の痛い思いをしながらも、彼女は何故、御鏡弥生が何の証拠もない中で仙峰堂久彦と寒水洋二なる人物が犯人と決めつけているのかを考えてみた。

 が、結局分からなかった。

 古くは師弟関係にあったとはいえ、両者の中は良くもなければ悪くもないそう。そもそも仙峰堂が藤堂久右衛門の下を去ってからはほとんど接点がないと聞く。では、それだけでは殺す理由にしてはあまりにも希薄に過ぎる。

 前日に出入りしていたのも、聴取した署員曰くに『骨董や彼本人の焼いた物を売らないかとセールスに行き、にべもなく追い払われた』という。

 セールスや営業がたった一度や二度の拒絶で相手を殺すようでは、営業としては務まっていないと云える。そんなこと日常茶飯事で、受けてもらえる様に国語力や消費者心理を学ぶものであり、であるならばたった数度の拒否で相手を殺すとは思い難い。

 だというのに、御鏡弥生は藤堂久右衛門が殺されたと聞いた時点から、既に仙峰堂久彦が犯人であると決めつけている。

 御鏡弥生本人は頭が切れるが、到底名探偵にはなりえない。察しがいいこと、周辺の状況からの類推、引いては洞察力が高いが故にそう見えるだけであり、限られた情報から犯人にたどり着くような、そんな名探偵じみた推理力はない。彼女にできるのは状況をそろえ、ボロを出させるまでである。

 こう考えると、御鏡弥生はすべて見てきたか、若しくは裏で手を引いているか、若しくは適当を言っているか、そのくらいしか彼女の頭では想像できなかった。


 そんな彼女を置いて、話は進んでいく。


「うん、多分それぞれに別々の条件で雇ったんじゃないかな。お互いがお互いに疑心暗鬼になって、実行して数時間もしないうちには争いだすよう、それぞれにお互いの報酬が狙われているとか吹き込んで。それで一人が元から犯人に教えられていた通りの手順で片方を唆し、もう片方を殺害。指紋や顔でばれないように念入りに両手両足を潰して顔も変わりばんこで潰していった。仕上げにそこいらへんのゴミ箱とかから漁ってきた服を着せて身元がばれないように工作。もう一人が疲れてヘバッたところを後頭部から何か大きくて重たいもの、例えば車止めとして市が設置しているコンクリート付きの鉄棒とか。そういったもので後頭部を2~3回殴って、最初の一人に施したのと同じような形で両手両足を潰して、あとは廃材置き場に転がっている10Lくらいある缶か何かに二体分を詰め込んで、ライターと灯油でボンッ。その33浪中の受験生の子には気の毒だけど、諦めて就活したほうがいいんじゃないかな」

「それはうちの署のやつがいっとんねんけど、どうにも大学受かるまでは納得できんらしい。まぁあれよな、浪人しすぎて大学受かることが目的になっちゅうタイプじゃな」


 御通夜みたいな空気になったのを察したのか、それとも単純にお互いに話のネタとして馬鹿にできるネタを見つけたからか、おそらく後者だろうが、明確に話の流れが自然と切り替わっていた。

 確かに彼女、鷲宮准も、33浪と聞けばさすがに受かる目はないだろうと思うが、いきなりの話題の転換に全く頭が追い付いていない。


「もう50歳なんだし受かる目はないよHAHAHA」

「ハッハハハ、ワシもそうおもっちょるがよ!? けどまぁ、大学側からしたらええカモやからなぁ、大学側から苦情が入っとんにゃ。本人のやる気を削がないでください! それで受からなかったら貴方たちはどう責任を取るつもりですか! ゆうてな! ワッッハッハハハハハ!」

「おいこら本筋からずれてる。そんな受かる目もないのに33年も浪人している奴なんてほっとけ」

「あ、准がドライなんだぁ」

「鳶の森丈太朗、其れだけは云っちゃあかんやつやねん。本人はまだ受かる気で33年も親の脛と金を無駄遣いしとるんやから」

「上手く言ったつもりか!」


 直後の、デカいマメだらけの手による乱雑な撫で方で、鷲宮准の頭が撫でまわされた。

 鷲宮誠に猫可愛がりされるのと同じような、そんな乱雑な撫で方に特段の不快感を覚えるでもなく、いつも通りに、鷲宮誠にするように叩き落としてやると、存外この男も真面目な顔が出来るのかと、鷲宮准をして驚かされた。この手のやつは悪びれないものだと身内でよく理解しているが故に。


「じゃあ最後に、ホームレスたちの持ち物をよく確認してみれば、多分手袋か何かの美物が検出されると思うよ。それも真新しい手袋の。で、茶器の類を売ったのは仙峰堂久彦で、多分蔵や部屋の中にあったほかの茶器を盗んだのは寒水洋二。寒水洋二を殺害したのは、多分殺害計画を邪魔したからじゃないかな」

「…………あぁ、そゆことか。部屋の茶器を盗んだのだけが気になっとったが、寒水か」

「そう。ほかのホームレスたちが盗んでいったのは部屋の中にある安物の茶碗。藤堂久右衛門さんの茶器は、そこらのスーパーで特売されて山積みされてる茶碗とかの方が高く見えるような、そういう作品ばかりだからね。つられてそっちの、高級そうに見える茶器を狙って持って行ったんだよ。そのうえで部屋から久右衛門作の茶器が数点盗まれているなら、それは自分たちの犯行だと露見してほしくない仙峰堂久彦ではなく、その相方である寒水洋二以外にあり得ない。だから自殺に見せかけようとしたけど抵抗されて仕方なく撲殺したんじゃないかなぁ」

「いやその前に、この手が鬱陶しいんだが……」

「暗黒寺警部も悪いなと思ってるんだよ。この人の世代は他人の子供でも撫でたり町全体で子供を可愛がる世代だから」

「昭和かよ! 」


 しかして、御鏡弥生が最後といったのは本当だったのか、短く別れの言葉を告げてさっさと去ってしまった。進捗を期待しているとだけ残して。しんしょうではない、しんちょくである。

 残された彼女からしてみれば、とっとと暗黒寺警部に別れを告げて夏季課題に専念したほうがいいのは明白だったが、撫でくり撫でくりし続ける男の腕は、どうにも本人から離させないといけないらしいとだけ分かり、その場に留まっていた。

 察するに、彼女にだけ用があるということだろう。だとして、一応警察官である彼の立場からして出てくる言葉は数種類にまで絞られる。

 究極的には即ち、関わるなという一言に集約される。御鏡弥生が裏社会の人間だから、家が裏社会の大家だから、そういう修飾語は幾らでも降ってわいてくる。

 さて、何を言われるのか。さて、其れならば何を返してやろうかと準備運動を始めたころになって、暗黒寺警部は先ほどまでの沈黙を破った。


「……すまんなぁ嫌がっとるのに頭撫で続けて。堪忍してくれや。あいつに友達ができとったことが嬉しゅうてな。……弥生、7歳くらいの頃かの、そのくらいから人を信用せんようになってしまったんよ。ずぅっと笑顔でなぁ」

「――――少なくとも、春休みが終わるまではそうでした」

「そうよな? きっと春休みのあの大混乱が起こるまでに、あいつの心が軟化するようなことがあったんだろうけど。それでもあいつの友達でいてくれたのは、きっと切っても切り離せない関係なんじゃろうて」


 精神的に、性質的に、人間的に、二対一組の関係であったなど言えない。

 春休みの首謀者は自分たちであるだなど言えない。

 何も知らないということがこれほどまでに幸福なのかと、改めて理解した。これは確実に、墓場まで持っていかなければならない。

 ボロを出さないように、そう気を付けている素振りが御鏡弥生には見受けられなかった。どうすればああも気ままに振舞えるものかと、いつも頭を悩ませている。それは少なからず罪悪感を抱いているからで――それは御鏡弥生も同様のはずだが、しかし暗黒寺警部と会っているとき、御鏡弥生はそれでもいいか(・・・・・・・)と腹をくくっているかのようだった。


 そんな内心の動揺も、見透かされていそうだと、先ほどから背を向けて靴を履いている背中に視線を投げかけるのは、自罰感情の表れだろうかと愚考する。


「鷲宮准、我ながら勝手なお願いだが、これからも弥生の友達でいてくれ。あいつ、人付き合いが下手やねん。あいつ、いつかワシに死刑台に送ってもらうんだなんていいよんねん。共犯者の一人いれば、あいつももう、家業せんでよくなるかもしれん」

「あ、はい――――」

「えらい気の抜けた返事やな。もそっとシャキリと返事せい。心配すんにゃろ」

「意外と真面目なことを口走るもんだから驚いたんだ――です」


 鷲宮准は小心者である。鷲宮准はマナー出来る限り遵守派である。真面目な話をしているとき、目上だったり大人が相手だと急に畏まった言葉遣いになるタイプなのである。当然、敬意を抱いているならば自然と敬語にはなるが。

 しかしながら彼女、鷲宮准がつい口籠ってしまうように尻すぼみな返事をしたのは、何も暗黒寺叡景が意外とまじめなことを口走ったからだけではない。御鏡弥生がそういった事実を隠す素振りすら見せなかったのはそういうことだったのかと、不思議と得心が行ったからだ。

 いつか暗黒寺警部に死刑台に送ってもらうだなど縁起でもないと思いつつ、しかし御鏡弥生はこのどうにも本当に警部なのか疑わしい警部相手に、どうやら本気で死刑台に送ってもらう気の様だからだ。

 もちろんそうならないようにすると春休みの終わり、鷲宮准に誓った以上、御鏡弥生はいつか語ったように家ごとの足抜けを終えるのだろう。


 もしも仮に、其れよりも早く暗黒寺警部が追い付いたとしたら、きっと御鏡弥生は約束通りに死刑台に送られるのだろう。

 御鏡弥生は楽しんでいる。自分の実家ごと足抜けして学校法人を経営するのが先か、さもなくばこの警部によってあらゆる暗黒面を白日の下に晒されて死刑判決を得るのか。

 どちらに転んでもいいように、泰然自若とした姿勢を崩さず、しかし勝負だからこそ手抜りしていない。

 故に楽しんでいる。故に待ち望んでいる。生きる誓いを立ててしまったからどちらに転んでもいいように準備するが、しっかりと暗黒寺警部の勝ちの目は残してやる。そう、御鏡弥生の手にかかればあらゆる犯罪の痕跡など、いくらでも搔き消せてしまえるのだから。


 結論、その手の話題が出ても隠す気がないのは、隠す素振りすら見せないのはそういうことなのだ。

 これは御鏡弥生と暗黒寺叡景警部の勝負であり、だから隠していない。聞かれれば答えるかもしれないし、聞かれなければ答えない。捜査の手伝いをするのと同じ感覚なのだ。


 別段裏切っているとは思わない。自分の生き死にを勝負ごとに利用するなだとか、そういったことを取り決めたわけでもない。ただ、無為に死なないと誓いを立てただけ。更にいうなれば、この勝負はもっと大昔に決めたことなのだろう。だから今更降りられない。

 御鏡弥生はそういった点で、人柄だとか正義感といった目に見えない点で、暗黒寺警部を信頼していた。


 鷲宮准にやれることはほとんどない。


 そもそも犯罪の隠蔽工作に加担する気もない。


 ただそれでも、暗黒寺警部は言ったのだ。いつか死刑台に贈る少女だが、それでも友達でいてくれと。


 なら、返す言葉はこの一言で十分だ。


「言われなくても、私はずっと、弥生の友達です」

「…………そうかい。ありがとうな」


 却ってきたのはたった一言だったが、それで十分だった。不器用なほど御鏡弥生という少女を愛している男にはその一言だけで十分だったし、返す言葉も、その一言で十分だった。


 滅茶苦茶高級そうな履き潰された革靴を履いて、暗黒寺叡景警部は御鏡邸を立ち去った。


 その背中は傍目にもわかりそうなほど、嬉しそうなのを隠せていなかった。








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