第1.00話 ~胎動篇~
■大昭15年1月
血に濡れた実験室。未だにスパークを発し続ける電極は如何ほどの出力で使用されていたのか、その先端部もまた血が固まった物がこびりついていた。
警報の鳴る施設内、けれどその実験室において彼らは酷く無力な存在であった。いや因果応報と言うべきか、人の命を軽く扱うと言うことは己の命も同様に軽く扱われると言う、その覚悟に欠けていた、ただそれだけだった。
そう、この場において、この施設において全ての人間の命は塵芥以下である。人を侮辱したその罪と罰を清算する時が来た、その結果にすぎないのだ。
故にこの施設の何処にも逃げ場はない。誰もこの死の嵐から逃げることは出来ない。
――そしてこの場所においても同様だった
『何故だ、何故死刑執行人の断頭鎌の依り代が暴走しているのだ!?』
訳も分からず倒れていく同僚だった何か。その散り様の不可解さが尚更に何も知らない研究員の恐怖を煽る。
恐怖、畏怖、怨嗟、怨念、表現する言葉はこれでもまだ足りない。研究員たちの目の前、手術台の様な物の上に立つ少女を的確に表現できる言葉は、少なくともこの世界には存在しないのかもしれない。
赤く灯った両の瞳、その瞳が輝きを増すたびに誰かの灯火が吹き消されこの堅い床に身を落とす音が聞こえてくる。
逃げろ、這ってでも手をバタつかせてでも一センチ、一メートルでも長くこの存在から我が身を離すことを考えろ。それ以外に生き残れる道は存在しない。
既にこの空間は死で満ち満ち溢れ、濃い死臭を振りまきながら少女が死という名の呪いを擦り付ける。既にここは外界とは隔絶された魔の巣窟となっていた。ここを出る以外に、この少女の視界から遠ざからぬ限り己の命は無い。それが分かることの全てだった。
死刑執行人の断頭鎌、ネオナチが資金を提供し研究していた『歓びの家』最大にして最強の異能力。一人の少女の人格、感情を犠牲に完成を見せたそれは、けれど同時に失敗した。
依り代と呼ばれ物の様に扱われてきた少女が動き出しその身に納められた規格外の異能力で殺戮を始めたのだ。
赤く灯った瞳が輝き、その輝きが捉えた物は過程を無視して殺される。いや、殺されるのではなく死なされるのだ。その瞳に映ったが最後、人に与えられた“死”というタイムリミットのカウントはゼロになる。
人が人の手によって創り出した最大の罪科。神の如き過程や工程を無視した奇跡の如き所業、死を強制する反奇跡。その赤い双眸が、頬笑みで固められ殺意に満ちた顔が男を見つめた。
思わず息をのむほどの幼い美貌。微笑みだけを見ればとても愛らしいただの少女にすぎないのに、けれどこの背筋を駆け巡る悪寒はその瞳と目を合わせるだけで増して、そして言い知れぬ吐き気を催した。
目の前の少女はなんだ? 暴走し出す前の言い成りのようだったあの姿とは打って変わって殺意に満ち満ちて飽和しその身から漏れ出している。
逃げられない。逃げることは許されない。この施設の関係者、その末端の末端まで逃すことなくこの世から消滅するまでこの殺意の暴風が止まることはない。そして次は自分なのだと、男は容易に想像が着いてしまえた。
一度死を認識するとあっけない物で、あきらめがつくと同時に少女の目を見たまま体中から力を抜いて脱力した。もう何でもいい。そして然程の時間もかけずに訪れる永遠の暗闇。過程や工程などを丸々すべて無視して結果のみを押し付ける死の奇跡が痛みも苦しみも与えずに男の命を途絶えさせた。
やがて施設の大人を殺し切った少女は、今度は自身と同じ子供を収容している雑居房の様な所にやってきた。
薄暗い天井、血のこびり付く壁面に湧いた蛆蟲ども、そして鼻を曲げるような異臭の群れ。
その空気を端的に言い表すなら便所だ。公園の隅にひっそりとある、よく分からない黄色い染みや色取り取りに変色した汚物の匂いが渦巻くこの世の地獄の様な、そんな場所だった。
希望も喜びもないと言った様に子供たちは皆一様に座りこんで天井を見上げていた。中には精神に異常をきたしているのかぶつぶつと何かを呟きながら糞尿を垂らしている少女もいたが、けれど次の瞬間にはその汚物の上に倒れ込んだ。
別に救い主になろうと言うのではない。ただいつまでも終わらない苦しみと其処からの逃避の為に日常という幻想へその精神を飛ばす行為からの開放を、それだけを想っての行動だった。其処に善悪などは関係ない。
殺す、殺す、殺して行く。脳味噌を開かれて電極を埋め込まれる痛みを、電磁波によって己の行動の全てを制限され投薬や『血の純化』という名の人体実験を受ける毎日を、精神や五感全てを蝕むそれらから終わることのない夢幻の世界へ。その為なら救済主にも魔王にもなれた。
ここで壊れたまま死を待つよりも、いっそのことその命を摘み取る方がよほど良心的だと、そう思っての行動だった。
やがて少女以外動く物は一つ残らず無くなった。
■大昭25年 03/25 PM22:00 春休み
私、鷲宮 准ハ、普通ノ女子生徒デアル
繰リ返ス。私、鷲宮准ハ、普通ノ女子生徒デアル。
とは云ったところで、普通の女子生徒、それも高校入学を目前に控えたこの時期、夜遊びをしている人間が普通かどうかは、普通の定義を見直すところから始めなければならないが――彼女は無言でそう付け加えた。
彼女は夜中の10時を過ぎたこの時間、駅の近辺を放浪していた。新品の、まだ糊の匂いがする高校の制服を着用してまでこんな夜半に出歩いている理由は、特にはなかった。強いて云うも何も、彼女に理由とか云った高尚な物はなかった。
ただ普通に一般人がそう思って行動するように――
例えば、冬の夜に窓を開けてみたら星が奇麗だったからベランダに出てみたとか、
例えばアニメを見ていたら欲しくなったから宅配でフィギュアを買ってしまったとか、
例えばたまたま目に引くタイトルがあったから衝動買いしてしまったとか、
例えば隣の家から漏れ出てくる羊焼き肉が美味しそうだったから、ジンギスカンプレートと一緒にラム肉を買ったとか、
そういった、取るに足らない理由だ。
出かけたいと思ったから出かけた。唯それだけだ。それにも何らかの理由を求めるなら、週が明ければ高校生になるから、多少は違って見えるかもしれないという理由にもならない理由だ。
勿論彼女の両親に知られれば何かを言われるに決まっているので、家族が寝静まったこの時間帯に外出しているのだ。
両親とも、明日は早くから仕事であるし、隣町の繁華街の薬局で仕事のある兄はこの時間帯は齷齪繁華街中を駆けずり回っていることだろう。姉は妹の春休みの宿題の手伝いをやっている途中に寝落ちしていたから、誰にも見られていない。
仄かな非行気分に、いや、未成年の深夜外出は非行であるが、そんな非行に気を昂らせて彼女は夜の森閑とした街を歩いている。
まだ春先にしては冷たい風がパンストではなくただのニーソックスだけにおおわれている足に吹きかかりその冷たさに軽く震えると、自分がいま夜中に出歩いているのだと実感させられる。
正直な話、彼女はこの年に至るまでこういったことをやったことが無い、所謂優等生と云う奴だった。
そうしていた理由は特にない。浮ついてさえいなければ大概誰も突っかかってはこないし、突っかかってきたとしても面白い反応が得られる人間でもなければ教師も不良もすぐに興味の対象から外される。
そうしていると不思議なことに、そういった人間に特に関わった覚えのない男からも女からも告白されたり、もしくは仕事を任せられる機会が増えてくるわけだ。単純に、面倒臭い、心底面倒臭い。彼女は少なくとも在学中、見えないところでそうしてため息をついて息をしていた。
意図して優等生だった。意図して優しく振舞った。意図して仕事を受けていた。
変えられるわけが無い。
意図して騒ぐのは苦手だ。多少騒がしい方が受けが良いから意図してそういった茶化すような言動を取ることはあるが、基本的には騒ぐことそのものが苦手だ。だから意図するも何も息をするよりも自然に静かに振舞うことが可能だっただけ。
ただそれだけのことだ。そこに何か特別な才能が介在していたわけでもない。アニメの主人公みたいなそういった不幸な生い立ちがある訳でもなくただ自然とそういった風に振舞っていただけに過ぎないのだ。
だが、高校生になってからは違う。知っている人間も知らない人間もごちゃ混ぜになる。ならば、もう少しは社交的になった方が良いのではないか、そう思ったがゆえに、手始めに、思い立ったから、雲行きが怪しくってそれっぽい雰囲気だったから、ただそれだけの理由とも呼べない理由で、つまり考えなしに夜間の外出に臨んだのだ。
結果は、大成功であり大収穫だ。なるほど、クラスの人間が挙って夜間外出して問題事を起こしたがるわけだと納得する。子供ながらに、夜の街と云うのは中々ワクワクする物がある。
内心の高揚は歩みにも力を持たせて夜中の魔力に包まれた街を闊歩する。
夜の魔力と云えば、例えば幽霊が分かり易いか。幽霊の目撃情報は大概が夜だ。其れは心理学的にどこからやってきてもおかしくないという心理状態がそういった幻覚を見せているということだが、其れはつまるところ夜は非日常の代表と云うことになる。
例えば歌舞伎町やススキノ、横浜繁華街のように、夜を徹して活動するような場所ではそういった恐れを抱くことはあまりない。曲がりなりにもこういった歓楽街は明るく、普通にコンビニやドラッグストア、調剤薬局などが商業活動を続けている。そこに人間は日常性と云うものを見出すのだ。
しかし寝静まった街と云うのは商業・人間的活動がほぼほぼ停止していることを表す。住宅街にあるコンビニなら、場所によっては10時で閉店する店もある。ガソリンスタンドや飲食店も、入るかわからない客の為に開けているよりは閉めてしまった方が経費がかからない。そういった部分に、人間は活動の停滞性を感じる。
人通りの無くなった暗い夜の街並みを一人闊歩する、活動を停止した街の中で一人だけ活動している、そういった部分に子供にしろ大人にしろ非日常性を感じてしまうのだ。
故に、夜の魔力だ。昼とは別の側面を映し出す町並みに仄かな冒険心はもう少し歩いてみたい、そう思わせるのだ。
昼間には子供連れの家族が訪れるスーパーマーケットの駐車場が、小学生の通学路になっている商店街、工業地帯の強い明かり、ようやっと明かりの消えた学習塾のビル。
この暗い中に存在する魔力は、何があるかわからないという好奇心を駆り立てる魔力は、街をようやっと一周する頃には飽きが勝ってくるようになっていた。
面白くなくなってきた。人が誰もいないというのは、その感情を共有できる他人がいないというのは中々に面白くないものだ。結局、人がいなくて明かりが灯っていない以外には昼間に見る光景と、さしたる違いはないのだから。
ドラマによくあるように幽霊を目撃するわけでも、暴走族に連れ去られた学友を見つけたりするでもなく、伝奇小説みたいに自分の隠された力が発揮されるとかでもなく、ただただ自分がその幽霊の代わりに歩いているだけ、と云うのはある種のアイデンティティの喪失をすら意味する。
自分が生きているという自覚を持っているのにそういったアイデンティティの喪失、ともすればアイデンティティを発揮できない状態と云うのは、普通につまらない。歩く価値が、付加価値が霧散するのだ。
住宅街と商業地区と工業地区の間にある、ちょっと大きめなデートスポットを兼ねた公園の側を通りがかるころにはつまらなさは頂点に達し、そろそろ帰ろうかと云う気にさせていた。
都合一時間近く街をさまよっていてようやっと暗い路地裏が、公園の薄闇に薄気味悪さを覚えられたのだ。
ため息をつくと先ほどまでの高揚感が嘘のようで、しばらく公園の真ん中で立ち止まれば自然と家に帰ろうと云う気にさせた。一時間の逃避行もこれで終わりだ。
だというのに、彼女は運が悪かった。
いや、もしかすれば運が良かったのかもしれない。
何故なら彼女は、其れをこそ望んでいたのだから。
何故なら彼女は、それに遭遇したいがために、出歩いていたのだから。
だから不幸なことに、それに出会ってしまったのだ。
□
朱
ただただ朱が蔓延していた。ただただ朱がそこを彩っていた。どうしようもないほどにどこまでもどこまでも朱の深淵が公園に水溜りを作っていて、噎せ返るほどの朱の匂いが胃に鼻に網膜にこびり付いてこびり付いて離れない。
紅くて朱過ぎて気持ち悪いぐらいに濃密な赤。気を抜けば飲まれてしまうことは間違いないほどに人を引き付ける絶妙な濃淡の朱が茫洋と広がっていく。
朱
赤
緋
紅
広がりを見せていく赤だけに彩られたコントラストのアスファルトは不思議なほどに蠱惑的で、だからだろうか――彼女はその中心で座り込む少女を美しいと、そう思ってしまったのだ。
あざといと思うくらいに均整の取れたバランスの良い体つき。胸部の膨らみにこそ欠けるがそれは大した問題ではない。この少女の胸部にこれ以上の膨らみを持たせたところで其れは蛇足であり藪蛇だ。それほどまでに自然なプロポーションを持っている。
太腿の適度に柔らかそうな肉感、首筋の儚さ、腕の華奢さ、引き締まった撫で心地のよさそうな腰は、まるである種の男性の理想を映したかのようで嫉妬してしまう。
自身が女であるということを忘れて見とれてしまうほどの、赤に塗れた妖艶さは一瞬息をすることを忘れてしまうほどの艶めきを放っていた。
彼女が言葉を失ったのは、その悠然と、もしくは脱力した風に天を仰ぐ姿が美しかったからだけではなかった。
見覚エガアツタ。其ノ顔ニハトテモ、見覚エガアツタ――何故ナラ、彼女コソハ……
「御、鏡……さん?」
半分に割れた仮面は既に少女の顔を隠すという仕事を果たしていなかった。
割れた片方から覗くその顔は間違いようもなく彼女、鷲宮准にとって友人と呼んでいい存在であるところの少女と一致していた。体型もよくよく見れば大方一致している。
名前は、御鏡 弥生。校内では知らない者がいないほどの金持ちの娘で、その割に特に気取った風でもなく、時折見せる儚い表情に校内外で人気を誇っている、常に笑みの絶えない少女。
「………………」
いつもの笑顔だが何処か茫然としていて、彼女を見つめる瞳には何も浮かんでいなかった。まるで暗闇のように、彼女の像だけが切り抜かれて捨てられてしまったのではないかと云うほどに明晰な闇が広がっていた。
よく見れば格好もなんだかおかしい。まるでアニメから出てきたような格好だ。全身をタイツが覆い、その上にボロボロの野戦コート、首には黒色のマフラーを口元まで持ってきて巻いている。背中には十字架のように巨大な手裏剣のような物を背負っている。そして――
「やぁ、鷲宮君。そんなにうろたえてどうしたのかな。何かいいことでもあったのかな、よければ僕にも教えてくれないかい?」
そして、彼女はその全身を朱に濡れさせていた。笑顔で緋に塗れていた。月の光を受けて白く輝くような羨ましいほどに健康的な白さの肌に紅が斑模様のように跳ねている。
それはまるで其処に最初から存在したアート作品のように、彼女のその白さには映えていた。似合いすぎるほどに。
その血痕はまるで何年も前から、こんな感じだったのではないかと思えるほどに自然だった。
ダカラ不自然ダツタ。
彼女、御鏡弥生がそんな格好でうろついていることも、妙に似合いすぎる生々しい血痕も、そのすべてが、いっそ存在全てが不自然と云えた。
「や……弥生、どうしたの――血塗れじゃないか……!」
彼女は一瞬、御鏡弥生が怪我しているのではないかと思ったが、出血の様子は見られない。
もしかしたら背中とかから出血しているのかとも思ったが、弾丸でも彼女の細い体なら9×19mmで十分に貫通するし、刀やナイフで後ろから刺すなり袈裟掛けに切られたなら彼女が後ろにのけぞっている理由が無い。
出血が多量であればある程、人間はその姿勢を維持できない。完全に背中側から倒れ込むか、うつ伏せに倒れるかが大体だ。勿論、彼女にそんな知識はないが、一般論だ。
つまりそれは、彼女の血ではない。別の誰かの返り血だということに気がつくと、彼女の後ろに鎮座する肉塊がようやっと見えてきた。
息を飲んだ。これで二度目だ。一度目は彼女の一種神秘的な様相に、二度目はその肉塊に。
やろうと思えばここまで人間としての形を消しされる物なのか。肉塊。それは肉塊と呼んで相違ない。
血に濡れた臓物が、ぐちゃぐちゃに混ぜこまれた内蔵がただただ人としての尊厳だけを奪って、その肉塊は絶えずに血を噴き出している。
人間が体内に保有している血液量からそろそろ止まっても良い頃合いのはずだが、まだ、まだ血は止まらない。まだ血は、彼女の肢体を濡らして止まらない。
其シテ彼女ハカウ云フノダツタ――マルデ他人事ノヤウニ
「あぁ、見ちゃったか――困ったなぁ。これは大変、困ったなぁ」
動きはなかった。一瞬だった。まさしく電光石火。気がつけば彼女は御鏡弥生に凭れかかるようにして倒れ込んでいた。
痛痛痛痛痛痛痛痛
痛痛痛
痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛
痛痛痛痛痛痛痛
痛痛痛痛痛
痛みが、焼けるような痛みが下腹部から胸までを一刀両断するように貫いていた。
胸元から背中までを長くて太くて大きな何かが、下腹部から胸元までを食い破っている。気がつけば、彼女の胸元を食いちぎっていた。
炸裂するように朱が視界に咲き乱れる。目の前の御鏡弥生は恐らく自分のまき散らした朱で塗れているというのに、どうにも実感がなく、やがて遅れて痛みがやってきた。
「あぁ……っ、いた――いぃぃ……」
「ごめんね、でも痛いのも暫くすれば気にならなくなるよ」
そう云って彼女は其れを90度回転させた。心臓が完全に潰れて、肺が千切れる音が骨を伝わって脳天に響いてくる。
大腸と小腸がグチャグチャに混ざって下腹部から胃の方にせり上がってくると、千切れたそれが胃や肝臓に絡みついて――食道が千切れて胃液と消化不良気味の夕飯が悪臭を放つ。
脳味噌ガ撹拌サレテイクヤウナ気ガスル
嗚呼、確カニ痛ミハ気ニナラナクナツタガサウ云フコトヂヤナイ
朦朧とする思考回路はもはや思考と云う体すらなしていなかった。何が何なのかわからない恐怖と内臓と云う内臓が凌辱されていく感覚の不快感は拭いきれない。
彼女の腹を食い破っているのは、腹の内臓と云う内臓をむしり取らんとしているのは、巨大なクナイのようなものだった。
大きさで云えば刃を横たえた状態で最大幅15~25cmほど、刃の頂点から柄までの長さは45~55cmにまで及び、柄には何かと繋げるのか電車などに多く見られるScharfenbergKupplungのような金具が見えている。
それほどの巨大かつ重厚な刃を何の予備動作もなしに引き抜き、彼女の腹に突き刺した御鏡弥生は、至って平生としている。先ほどまでと同じ華の咲くような奇麗な笑顔で、どこまでも邪気を感じさせない無邪気に最も近い笑顔で刃を彼女の腹に突き立てえぐっている。
背骨が割れたのか、妙な音が鳴ると上半身の支えが無くなりより御鏡弥生に抱きつくような姿勢で、腹を割くそのクナイに凭れかかる。最早すでに全身の感覚などない。
もはや痛みなのか其れとも快感なのか、酒に酔ったようなグラグラと揺れる視界で御鏡弥生を見つめると、それでも御鏡弥生は何の感慨も抱いた様子もなく、まるで路傍の石でも見やるような視線を投げてくる。
お前には、ほんのちょっと興味をいだいたから見てやっている――まさしくそんな風な目線。彼女は路傍の石の気分が、子供の興味本位に溶けたアルミニウムを流しこまれる蟻の気分を味わっていた。
哀レニ見エタ――私ニハ彼女ガトテモ憐レニ見エタノダ
だからそんな御鏡弥生を彼女は不思議なことに、こんな無様を晒させている元凶だというのに、憐れに感じたのだ。
朱の匂いを全身から漂わせながらも今ここで級友をその手に掛ける変わらない笑顔は、其処に内包されたる精神性とはまさしく壊人の性に他ならないが、だからなのかもしれない。
ダカラ私ハ彼女ニ手ヲ差シ延バシタ
その手が御鏡弥生の頬に触れた途端、彼女の意識は完全に暗転した――
□03/26 06:23 春休み
気がつけば其処は20畳はありそうな和室だった。その中央で彼女は寝かせられていた。
鹿威しの音が響くのはまるでアニメの中の和室の風景そのものと云えて、此処が何処か分かる物がないかとあたりを見渡したが、どの障子も閉じ切られて、その先から一人分の視線が感じられる以外は何もなかった。
下腹部のあたりが鋭く痛むのを感じながら起き上ろうとしたが、途中であきらめると彼女はそのまま寝かせられている上等そうな、少なくともこれだけ広いわけだから安物なはずはないだろうが、上等そうな布団に身を横たえた。
隣の部屋から衣擦れの音が聞こえると、その気配は隣の部屋の障子をあけてどこかに行くと、また長い沈黙が部屋を支配した。
ワザト聞カセタ。イヤ、ワザト聞カセラレタノダラウ。
監視シテイルト、言外ニ伝エラレタヤウニ思フ。
イヤ、伝エラレタノダラウ。事実、マダ誰カニ見ラレテイルヤウニ感ジラレル
大人しく横になっていれば、段々と痛みが薄らいでいく気がした。
春と云ってもまだ寒いこの時期、温い布団の魔力は体の痛みがあろうとなかろうと抜け出しがたいものがある。多少の痛みを我慢しながら彼女はふざけたことを考えて気を紛らわせていた。
やがて痛みが気にならないくらいに心地よい陶然とした気分は陽だまりの中で寝転ぶような安心感がある。
そのまま両の瞼が重くなるのを自覚して無抵抗に眠りに落ちようとした瞬間――
「鷲宮君、家主の前で二度寝を決め込もうとするだなんて、君もなかなか肝が据わっているというかなんというか」
其ノ声ニハ聞キ覚エガアツタ。アリ過ギル程ニ聞キ覚エガアツタ。若シモ聞キ覚エガナイト答エルヤウナコトガアレバ、ソイツハキツト偽物ダラウ。
「とりあえず、おはよう――君が眠りに落ちてから今日でちょうど二年目だよ」
その言葉に、彼女は飛び起きざるを得なかった。体の節々が痛むのにも構わず布団を跳ね除けんばかりの勢いで上体を起こすと、其処には浴衣姿で腰に手の甲を当てて佇む少女がいる。
フフン、と今にも云い出しそうな、絵になる光景だ。何もかも、彼女の行動は何時だって様になっていた。ほんの一つの動作でも、完成してしまったかのように泰然としていて揺るぎない。何てことのない笑顔で大体のことを達せられてしまう――彼女はそんな少女だった。
そんな彼女が目線の高さに合わせて膝をつくと、笑顔でそんな戯言を云ってのけたのだ。勿論引っ掛かるはずなど――
「まじで!? 私二年も寝てたのか!」
「そうだよ。君は二年前、此処でお泊まり会を開いて以来昏睡状態になっててね、以来責任を持ってうちが面倒を見ていたんだよ。いやぁ、目を覚ましてくれてヨカッタヨカッタ」
サウ云エバ、ナンダカソンナ気ガスルヤウナ――
自分が狼狽していることがよく分かる。緊張とか躊躇とかそういったものではなく文字通りどうすればいいのか分からない。
どうすることもできないと理解していたが、それでも取り乱すくらいは許されよう。二年もの寝坊なんて洒落にならない。そんな考え事が彼女の口を滑る様にしてスラスラと吐露されていく。
「どうしようどうしよう! 私だけ高校一年生?! 二年も寝てたってことは、弥生は三年生!? 先輩って呼ばなきゃいけないの? やだやだ絶対ヤダ!」
騒々しく彼女の頭の中で色々な云い訳やらなんやらと思い浮かんでは消えていく。その様子を面白そうに見られているとも知らずに。
「相変わらず君の反応は見ていて飽きないなぁ……勿論冗談だよ」
何だ冗談か、と其の発言から一秒経ってから遅ればせながらほっと胸を撫で下ろすと、其れに合わせるようにして、彼女、御鏡弥生はまた、爆弾を落とした。
「君は昨日の夜、この僕に殺されて今ここで目覚めたんだよ」
What? Was she said a joke?
どう考えても彼女には冗談にしか聞こえなかったが、しかし確かにそんな気がした。この体の痛みも、御鏡弥生をその視界に入れたときの体の震えも、どうにも過剰に見えた。
だが死んで蘇ったなど彼女にしては突拍子もない。そう言おうとしてそれすら、弁解の余地なく息をつく間もなく彼女は其れに被せて彼女に告げた。真実だぞ――と。
「一度落ち着いて思い出してみると良い。昨日君は僕に殺されて、その拍子に僕のファーストキスを奪ったじゃないか?」
「断じてそんなことはしていない! あぁ思い出したとも思い出したともさ! クソ痛かったんだからなこの野郎!」
「あはは、その様子なら話についてこられそうだね。思い出してくれてヨカッタヨカッタ」
「おいこら無視するなニコちゃんマーク」
サウダ、私ハ彼女ニ殺サレタノダ。コノ上ナク残虐ニ近ヒ方法デ
何故自分は生きているのか、あれは完全に致命傷であったはずで、現に下腹部から胸元に掛けて今もまだズキズキと痛みが主張している。
死んだ理由は彼女には分かり過ぎるほど分かっていた。しかし何故生きているのかについて皆目見当がつかなかった。死んだことの理由ならばいくらでもつけられる。腹を切り裂かれたから、貫かれたから、内臓を千切られたから――それほどの致命傷で生きている理由を探すことの方が無理からぬ話だ。
故に、これは何らかの奇跡が働いたのではないか――そう考えた方が妥当に過ぎるほど、奇妙な生存だった。
彼女が何かを質問する前に、御鏡弥生はまたもかぶせるようにあらかじめ決められていたセリフを読み上げるように、いつもの無機質に近い声で彼女に説明すると云った。
「説明してあげるよ。君が僕に何をしたのか。僕は君に何を求めるのか」
君ハネ、コノ僕カラ大事ナ物ヲ奪ツタンダヨ
またもや被せるように、御鏡弥生の舌は二枚あるのではないかと云うほどにタイムラグなしで淡々と言い切った。其の声は比して先ほどまでより冷たいような気がして、彼女は知らず身震いした。
昨夜見た御鏡弥生も見たことのない御鏡弥生だったが、目の前にいる御鏡弥生もまた、見たことのない御鏡弥生だった。
いつもの頭脳明晰かつ聡明で笑顔を絶やさない彼女とはまた別の、酷薄で冷酷で理知的で何処か残忍性をも含ませている。
彼女ハコンナ顔ヲスル娘ダツタダラウカ――イヤ、モシカシタラ私ガ知ラナカツタダケナノカモシレナイ
「君は超能力と云う物を信じるかい?」
「物や者を浮かせたり何もないところから何かを取りだしたり物を消したり、物体をすり抜けたり心を読んだり、そういうやつか?」
「大体はその認識で良いかもね。その大半はいくらでも説明の付けようはあるんだけどね。人を浮かせたりとかは手伝う人間と機材があれば可能だし、物を消すなら人の意識を物体Aから物体Bに向けさせておいてすり変えたりとか、壁をすり抜けるなら鏡とガラスと1000ルーメン以上のライトを使って入射角と反射角を入念に計算すればいい。心を読むならコールドリーディングでまずは対象を分析しホットリーディングでそれ以上の情報を引き出して適当なこと言っていれば成立する。大概の超常現象と云うのは現代科学が全てを否定してしまったね」
楽シサウダ。実際、楽シイノダラウガ。
ひけらかすのが好きなわけではない。そういうのを調べて暴き立てるのが好きな人間なのだ。特にマジックとかエスパーとかメンタリズムとか云うジャンルの物が。
暴き甲斐がある、御鏡弥生はいつかそう云っていた。自分や家の人間を巻き込んで失敗しては実験して知らないことを知り、そういったことをしている間は子供でいられると。
金持ちには金持ちの苦労があるのだろう程度に思っていたが、御鏡弥生の様子を見るに、どうもそういった苦労ではないらしいとだけ、彼女は知っていた。友人として喜ぶべきなのかなんなのか――だから、彼女は楽しそうだった。事実、楽しいのだろうが。
「瞬間移動、エナジードレイン、性質変化、錬金術、物質・空間歪曲、空間支配――よく少年漫画とかライトノベルとか中二病系の18禁ゲームとかで出てくる単語だよね。僕はそういった世界の人間なんだよあぁ勘違いしないでくれ、別に世界線移動とかみょうちきりんなことを言うつもりはないよ」
イツカ挑戦スルツモリダケド、ト云フ台詞ハ聞カナカツタコトニシヨウ
「元からこの世界にあった要素さ。日本なら古くは弥生時代あたりから存在したし、それ以前なら例えば悟りを開いたシッダールタ先生とかカルナとかアルジュナとか大ヤコブとか聖ロンギヌスもそうだね」
「で、弥生も超能力者だと?」
不思議なほど淡白に、彼女は其れを聞けた。
不思議なほど平然と、彼女は其れを聞けた。
そして当の本人、御鏡弥生はと云えば、苦虫を噛み潰したようなのを押し隠すような声音で一言、モドキダケドネ、とだけ言った。そこにはほんの少し、哀愁のような物が感じられた。
「そんなことはどうでもいいか。問題は、僕の能力の半分を君に吸われてしまったことだ。君の持つ魂喰らいの吸血王で、僕の持つ才能喰らいの簒奪王で簒奪した能力の総数のうち半分を持って行かれた」
「…………は?」
「だから、君の魂喰らいの吸血王で、僕の持つ才能喰らいの簒奪王で簒奪した能力の総数のうち半分を持って行かれたんだって」
意味がわからなさすぎる。彼女から見て、友人が曖昧模糊な電波に掛かったのではないかと疑った方がしっくりくるくらいに意味が分からなかった。
つまりこれは何か、私も彼女の設定の中に組み込まれていると、そう言いたいのだろうか――
「設定じゃないよ。事実だ。そうでもなければ君が生きている理由もない。本来ならエナジードレインなんて王位を頂くほどの能力でもないんだけど、致命傷をほぼ完全に癒し切ったその力はどう見ても其処らに転がっているエナジードレインの比じゃない。恐らく吸い取ったのは僕の能力だろう。生命力ではなく僕の所持する百の能力を奪い取ることで生命力の足しにしたんだろう」
「いやだから意味分かんないって。どういうことだよ」
「つまり君は吸血鬼だったってことだね」
「要約しすぎだ!」
そもそも生命力を吸い取るならともかく、複数ある能力を奪い取るエナジードレインはエナジーではなくスペック、もしくはスキルドレインと云うのが正しいだろう――心の中でそう突っ込みながら、しかしいささか現実さを欠いた情報だと独り語散るほかなかった。
展開が急過ぎるのだ。もしもこれが小説だったら二十行近く台詞が羅列するのではないかと思えるほどに。かなり下手な類のネット小説レベルでセリフが渋滞を起こしている。脈絡がない。脈絡がないことに脈絡がある。きっとこの話を書いた作者は偽物だろう。
そうやって現実逃避でもしない限り彼女にとって訳が分からなさ過ぎる情報ばかりだった。曖昧模糊ではない、逆に明々白々としているが明々白々であるがゆえに分からないのだ。
曖昧すぎれば正確性に欠き、明白過ぎれば情報の密度は過密化する。バランスが重要だとはよく云った物だと思いながら軽く見鏡弥生を睨むように見やった。
この友人は一体どういう意図を持って超能力者だとカミングアウトしたのだろうか。涼しげな表情で笑みを浮かべるこの少女に悪意はあまり感じられない――殺されたことに目をつむれば。
「ん~、君此処まで理解力の低い娘だったっけ? さては偽物かい?」
「弥生の説明が不親切かさらに不親切かのどちらかしかないんだろうが……」
「…………君は自分の超能力について自覚的だったかい? 論文調だったねごめん。つまり君はこれまでエナジードレインを自覚して使用していたのかな?」
「知るわけないでしょ…………今弥生に云われて初めて知ったぐらい」
紛れもなく本音だ。紛れようもなく本音だ。これが本音でなければ一体何が本音の範疇にあるのか分からない。
微妙な苛立ちとともにそう御鏡弥生に云えば当の彼女は溜息をひとつ、齟齬があったようだとだけ云った。
もうどうにでもなれと云った風情で彼女は布団の上で胡坐を組むと右膝に右肘を乗せて右掌に右頬を乗せて続きを促した。さて、ここまでで右と付く部位を何個述べただろうか。数えなくて良い。
「僕は君が超能力に気が付いている前提で話していたが、その時点から既にすれ違っていたようだね。謝罪し――ない」
「いやそこはしろよ」
「結論からもう一度言うなら、君は僕と同じ超能力者だ。そして君が昨日僕がやった殺しの現場を見て僕が殺した直後、君の右手を伝って僕の能力の大体半分が吸い取られた。君の生命維持のためにね」
それが僕の最大の誤算だったんだ。こんな近くに能力者がいるなんて思わなかったからね――そう嘯く彼女に嘘の気配は見られなかったが、やはりどうにも胡散臭い。
そもそもそんな情報を云う奴が詐欺師以外に何かいるのかと云われると困るところであるが、そしてそんな奴を見分けられる目を持っているわけでもないのだが、けれども確信を以て御鏡弥生は嘘を言っていなかった。
其れが彼女にとって余計ややこしかった。
エナジードレインが能力を吸い取ったとかそういった物もそういった物なのだろうで済ませられる。多少特殊な能力なんぞは中二病系ADVあるあるだ。しかし――
何故私ナノダラウカ――私ジヤナクテモ成立シサウナモノダガ。
運が良かったのか悪かったのか分からないし分かる気もないが、気になると云えば気になった。
それでも御鏡弥生は彼女の用事を優先する。其れが何よりも大事なことなのだろう。
「で、恐らく君は昨日のあのタイミングでエナジードレインを発現させたのだろうね。自覚とか意識もないから吸い取ったものの返還要求に応じられるほど使いこなせていない。本当だったら君にお金なり男なり佃煮なり胡瓜の漬物なりパンプキンパイなり苺のホールケーキなり積んで返して貰おうと思っていたんだが、そうもいかなくなった。計画変更だ」
「いやそれ、仮にもしも私が自覚的に能力を発動させていたとして、返したらどうなるんだ?」
「……………………」
無言デ視線ヲ逸ラシタト云フコトハ、サウ云フコトナノダラウ。
ソレハサツキ羅列サレタ通リノ好物ヲ積マレタトコロデ承服シカネル事柄ダ。
お互いに、勝手な人間だと彼女は思った。片や殺した現場を見られたから殺して、片や死にそうになったから下手人から奪い取って――十分に、勝手な理屈だ。自分勝手な人間だ。
そこではたと気が付いた。だからだろうか、超能力なんてものに目覚めたのは、と。
自分勝手な理屈を振りかざして、自分勝手なことに他人を巻き込むなんて世の中に出回っているライトノベルや中二病ADV、ノベルゲームの住人の十八番じゃないか、と。
「僕の能力そのものを奪われると云ったことはなかったけど、どうでもいい能力ばかりが奪われた。無くても困るしあっても扱いに困る能力ばっかり奪われた。レアリティから無作為に選別されたんだろうね。殺したり僕の能力で奪っても奪い返すことはできない。これじゃあお手上げだ」
アハヨクバ帰シテクレルノデハナイカト期待シタガ、無理サウダ
一瞬浮かしかけた腰を落ち着けると、すぐに御鏡弥生は本題を切りだした。先ほどから遠まわりしてばかりだなと溜息をつきながら、其のいつもとは違う高圧的なお願いに、少しばかり怜悧に細められた瞳に軽く体が震えるのを彼女は自覚した。
この後の出来事が、間違いなく彼女の人生の大半を大きく歪めることになる原因だったと、後に彼女は独白する。最悪な春休みだったと。
「君に今回の責任を果たすチャンスを上げようと思う。そんなに難しいことじゃない。僕の趣味に付き合ってくれればそれでいい」
キミニハボクノ心ヲ探スノヲ手伝ツテ貰ヒタインダ
意味が分からない。心を探すのが趣味だとはこれまた一体、どういった類の冗談だろうか。
個人の器を試すような類の冗談だろうかと思ったが、しかし其の笑顔の裏側は至極真剣なものだった。少なくとも、冗談ではないと理解できるくらいには。
だが、心とはまた抽象的だ。そもそも何だ、物質以外のものなんてどうやって手に入れる。
「大丈夫さ。今時愛情だってインターネット掲示板で時給1500円くらいで取引されるような時代なんだから」
「愛情って時給制だったっけ……?」
何ダカ違フヤウナ
「大丈夫だよ、持っている人間には大体見当が付いている、というかこの三人以外あり得ないしありえようはずもない。しかし彼らはね、何と云うかまぁ僕のことが苦手なのか嫌いなのか、こちらが玄関から突撃すると大体どっかに逃げちゃうんだよね」
困った困ったと云いながら微笑まれているとどちらなのか分からなくなるなと頭痛のする頭で辛うじてそんなことを考えていた。
だから其れは器物なのか何なのか。そもそもお前に心が無いなんて一体どういう冗談だ。冗談を云うのも其れを解する心だろう。知恵熱気味でもう本格的に真面目に聞く気になれなかった。
事と次第に関しては後日説明するから、今日のところは家に帰ると良いよ。都城が送ってくれるから。御鏡弥生が云い終えるかのうちに彼女にとっても長い付き合いになりつつある都城 美峰――御鏡弥生の側付きが襖を開けて入ってきていた。
こうして、彼女の訳が分からな過ぎる、最悪の春休みが始まった。
冒頭部分は四年前に描いたっきりエタっていた旧プロット時代の物を加筆修正したものです。
鷲宮准が登場する辺りが去年二月に書き始めて四月あたりに書き終わった部分です。