第6章:神々との対峙ー003ー
助かったと一度は思っただけに、マテオの絶望感は深い。それでも、と直ぐさま思い直す。サミュエル兄さんが戦うことなく済んで良かった。兄に万が一があったら、姉をどん底へ突き落とすだろう。
大事な二人に関係なくて良かったじゃないか、と考えればマテオは腹を括れた。「流花、行けよ」と強い語調で囁く。ヤダ、とする返事だったが、無視して瞬速の能力を発現させかけた。
「あっ、あっぶねー」
マテオはぎりぎり寸前で立ち止まった。今まさに真紅の円眞へ向かおうとしたところへ風を切って足下へ突き刺さる。
光の矢だった。
「逸りすぎですよ、マテオ・ウォーカー」
宙から降って湧いてきては声をかけてくる壮年男性だ。ホワイト・スーツに赤いネクタイを締めている。上品とするには派手で、気障とするには似合っていた。
マテオは大きく息を吐いて、絶世の美少女へ振り返る。
「新冶が来たから、安心だな。流花は何とかなりそうだ」
「私は貴方の安全も図りにきたのですよ。サミュエルから言われていましてね。弟を頼むって」
なんで? とするマテオに、新冶がはっきりそれと解るほど苦笑した。
「古くから自分と共にあり、今や伴侶の弟となれば気を揉んで当然でしょう。そのリアクションはサミュエルからすればショックでしょうから、本人の前では控えてあげてください」
赤面するマテオを、流花が軽い驚きをもって眺めていた。
さて、と新冶が真紅の円眞へ向き直る。
「お久しぶり、という表現は間違いないですか、エンさん」
「そうだな、確かにこのところ店に顔を出して来なかったから妥当かもしれんな」
「和須如のお兄さんも出て来ていただけませんか。エンさんが奈薙とうれさんとやり合ったことで、少し気を収めてくれていたら助かります」
建物の影から、ひょっこり顔を出した夬斗は真紅の円眞を見た。うなずく紅い目に、黛莉を抱っこして近づいてくる。
「黛莉はまだ目を醒さないのか」
心配を多分に含んだ円眞の声に、夬斗が難しい顔つきになる。
「この顔を他人に見せて、こいつ。後で怒って、俺にやつあたりしてきそうなんだけど」
夬斗が杞憂を示す黛莉の寝顔は、それはそれは幸せそうだった。にへらと緩んだ顔で、ヨダレまで垂らしている。なんともいい夢を見ていそうだ。
いちおう兄なりにフォローは必要と思ったのであろう。
「なんだか百年の恋も冷めそうな寝顔だが、黙っている時は平和そのものだな」
あまり役立たなそうな夬斗の言葉だが、真紅の円眞はふむふむといった感じで魅入っている。
「いやいや親友、我からすればこれはこれでとてもいい。周囲に誰もいなければいっそのこと、と思ってしまったほどだぞ」
「そこまで好いてくれるのは嬉しいが、身内からすれば女としての対象とした表現がちょっと複雑だぜ」
「こういう言い方が家族を不安にされるのだな。だから父上母上は、我れはまだ黛莉に何もしてないのに一生奴隷でいろ、と言うのか」
それってうちの両親のことか? と夬斗が尋ねれば、うんうんと真紅の円眞がうなずいてくる。
エンさん、と呼ばれて真紅の円眞が顔を上げる。投げられてきた小さなスプレーボトルをキャッチした。
「ひと噴きで目を醒ましますよ」
新冶が使用説明の責任を果たしてくる。
シュッとかければ、「ううん」と黛莉がぐずるように洩らした。瞼がゆっくり上がり、瞬きを数度繰り返しては不思議そうな顔をした。
「あれ、なんで円眞とアニ……兄さんが……」
「こんな時まで気取ってどうすんだよ、まったくこの妹は」
心配していたからこそ文句を垂れた夬斗の腕から降りた黛莉だ。
「そんなこと言われたって、何がなんだか訳わかんないんだから、しょうがないでしょ。会社に戻る途中でさ……いつの間にか、小さい頃へ戻ってたの」
記憶を探るように立てた人差し指をこめかみへ当てる黛莉に、真紅の円眞は無頓着に言う。
「どうやら黛莉は目を醒ますまで、夢を見ていたようだぞ。さっきまでとても幸せそうな寝顔を見せていたからな」
夬斗は内心でヒヤリとしたが、当の黛莉は気にするでもなく唸った。
「う〜ん、そうなんだ。なんか円眞と会った頃からで……なんか懐かしい気分になっちゃった」
「まぁ、我れと黛莉の間には過去があるからな」
「それがね、過去だけじゃなくて未来であたしと円眞が……」
急に黛莉が黙りこくった。
どうした、黛莉! と心配して覗き込んだ真紅の円眞の顔面にパンチが叩き込まれた。
「ば、バカ。なんでもないわよっ」
ご無体な仕打ちへ及んだ黛莉の顔は真っ赤だ。
「ぐーはやめろ、ぐーは」
真紅の円眞がこだわる点は相変わらず行為に至る原因ではなく、行動の形であった。
なんか真紅の円眞に感謝したくなってきた夬斗だ。よくまぁ最凶女の理不尽極まりない暴力に耐えてくれている。手放しで褒め囃しそうになったところで、ある疑いが浮かんだ。
もしかしてマゾか。夬斗が口には出せない可能性を考えついたところで、新冶から声をかけられた。
「そろそろ気を落ちつけてくれたようなので、ここは顔馴染み同士ということで取り引きをしませんか」
ほぉー、なんだ、となった真紅の円眞はともかく他の二人の反応が悪い。
新冶が妙に焦っている。
「えっ、和須如兄弟の御二方は、私が解らないのですか。あれほど顔を合わせてきたのに」
いささかショックを受けているようだから、夬斗と黛莉は顔を合わせて互いの目で確認し合う。無言で再び前へ戻して新冶を窺う兄弟の表情は揃って訴えかけてくる。オマエ、誰? と。
ガーンと肩を落とす新冶に、真紅の円眞が諭すように言う。
「それは仕方がないだろう。あまりにも老人付きの際と現在では感じが違うぞ。第一、別人の如く体裁を整えての暗躍ではなかったか」
「暗躍とは酷い言い草ですが、確かに紅いエンさんの言う通りでした。私は普段の姿を隠し『寛江』として、貴方がたに近づいたのですから」
渋く決めた新冶ではあったが、動揺の影が射した。肝心の和須如兄弟に届いた気配がないからだ。
きょとんとする黛莉の顔が、横にいる夬斗へ向く。
「ねぇねぇー、アニ……兄さん。知ってる、そんな名前?」
「おまえ、こだわるな……は、ともかく寛江? そんな名前、聞いたことないぞ」
先ほどとは比べものにならない落ち込みを新冶を見せれば、放っておけなくなったのだろう。真紅の円眞が和須如兄弟へ解説を入れる。銀色で染めたオールバックの男で、華坂爺たち『ジィちゃんズ』にしばらく付き添っていた者だ。
「あー、あいつの名前ねぇ」
「いたいた、そういえば、そんなヤツ」
黛莉と夬斗の返事は、新冶にいじけさせるに充分だった。どうせ私なんか……、とぶつぶつ口にしながらしゃがみ込んでいる。
「おい、そろそろ本題に入れ。我れたちと交渉したいのだろう」
そうですね、とあっさり復活した新冶だ。髪を撫でつける派手な仕草がさまになっているもの決まっていない。
「このたびの非は我々にあります。そこで逢魔街の神々に属する者の私としてお詫びとしての提案を……」
「えー、ウッソー、あんたみたいのが逢魔街の神なのー」
黛莉の上げた頓狂な叫びが、話しをなかなか前へ進めさせなかった。