第4章:紅と地の激突ー003ー
ろくな柵もない高層ビルの屋上で、男は力尽きたかのように片膝をついた。
修験者を想起させる白装束に包んだ青年だ。二十代と思しき若さだが、精悍な顔つきに刻まれた幾筋もの皺が経てきた過酷な修行を物語っていた。
「尸仂、大丈夫ですか」
黒いドレス姿の流花が心配そうに声をかけた。両脇をセーラー服の楓とブレザーの真琴が占めている。
尸仂と呼ばれた修験者みたいな青年は荒い息を吐いて立ち上がれない。それでも懸命に答えを振り絞る。
「ご心配には及びません、流花様。ところで私はお役に立てたでしょうか」
「ええ、おかげで。今後の当てが付きました。これも尸仂様のおかげですわ」
そう言って、にっこり笑う流花だ。ちらり送った視線のかなた先には、黛莉がいる。
堅物そうな尸仂が恍惚とした眼差しとなった。逢魔街の魔女と呼ばれる女性が持つ美の極致は、修行で鍛えられた精神も打ち砕くらしい。貴女のためならばこの命果ててでも、と修験者というより騎士みたいな言葉を吐いてきた。
流花はさらに籠絡するように笑みを湛えた時だ。
頭上から声が降ってきた。
「女の顔に騙される男は、必ず痛い目に遭うんだってさ。兄上……じゃなかった、うちの兄さんがそう言ってたな」
突然な割り込みに、その場にいる四人は緊張を孕んだ目つきで仰いだ。
白銀の髪をした少年が、塔屋のてっぺんに腰掛けていた。投げ出した足をぶらぶらさせている。
「相も変わらずだね、キミは。ウォーカー家の人間なんてお呼びじゃないんだけどな」
明らかに棘を含んだ物言いの流花に、白銀の少年は見降ろす体勢に相応しい口調で返す。
「喋り方が変わっているけれど、もう猫被りはやめていいのかい。僕をウォーカー家の一員と見做してくれるのは嬉しいけどさ」
「流花様、この不届き者は何ヤツですか」
立ち上がった尸仂に、流花は以前の口調に戻して答える。
「こちらはマテオ・ウォーカー。瞬速の移動スキルを持つ、異能力世界協会会長直属で働く者であり、弟でもあります」
能力から身分までバラす悪意ある紹介だが、マテオを気にする風もない。むしろ畏まってきた。
「そうそうご報告。このたび無事に姉のアイラがサミュエル・ウォーカーの許へ嫁ぎました。だから仕える身ではなく義弟として、来日させていただきました。まだ動きの取れない姉夫婦に代わって東の長である『祁邑陽乃』さまへご挨拶しに参りました」
日本人名が出た途端に、流花の顔色が変わった。普段からは想像がつかない慌て振りで、がらり態度を変えて訊く。
「マテオ、お姉ちゃんと会ったの!」
「それがさ、東の統括地域に入ろうとしたら、おたくの義兄が現れて。しばらく会うのは待ってくれって、泣いて頼んでくるんだよ。まさか泣き落としでくるとはなぁ〜。そのくせ、しっかり届け物を頼むんだから、あいつ、相変わらずだよな」
マテオは懐から手紙を人差し指と中指で挟んで取り出す。シュッと指の動きだけで、流花へ投げて寄越した。
封が開けられていない手紙をまじまじ見つめる流花へ、マテオは笑うように言う。
「跡の残らないようアナログ手法とは、よっぽど知られるのが怖いんだね。証拠を一切残さない徹底ぶりには感心するけど、だったらやめればいいのに、なんて思うな」
「マテオだって、解るはずでしょ。ラグナロクに居合わせたんだから」
「確かにあれは酷かった。けどさ……本当に、あいつなの?」
投げかけられた疑問に、流花は嘲笑で応える。
「あの姿で、紅い目なんて、あいつ以外いない。ここまで隠れてきたことも、いい証拠だよ」
「でも姿形が同一だったとしても、中身は百年前のそれと変わらないものなのかな」
「別人だと言うの、マテオは」
眉を顰める顔も美しい流花に、マテオは大袈裟に肩を竦めて見せた。
「そこまで断言しないさ。ただ少し焦りすぎなんじゃないか、てこと。ほら、あんなふうに行動を起こすヤツも出てくるし」
言いながらマテオが指差す方向へ目を向ければ、流花の瞳は驚きで大きく広がった。
「えっ? うれ、奈薙さん、なんで。兄さんを待つんじゃ……」
「我慢しきれなかったんじゃないの。鬼の三女は気が荒いって有名だし」
「妹をバカにするの」
声と表情を凍らせる流花に、マテオが初めて真顔を見せる。
「まさか。ただ姉を前に軽率な発言だったことは認めるよ、ごめん。けれども実際、まずい事態になるんじゃないかな。なにせ逢魔街の『地の神』と『粉砕の姫』のコンビがチカラを奮おうとしているんだから」
ここで白装束の尸仂が、ここぞとばかりにきた。
「流花様の妹殿とならば、手を貸さないわけにはいきません。我が能力をもって黒き怪物どもを向わせましょう」
「それ、大丈夫なの?」
見降ろすマテオがこめかみを掻いている。
仰ぐ尸仂が少しムキになって力説した。
「我らは、物を操る能力を古来から研鑽し続けた『肢』の一族です。魂がなければ屍人さえも能力を及ばせます。死者の化身たる黒き怪物も操れることは、たった今、証明してみせたところです」
「ホーラブルが、そんな単純なものかな? だってあれ『逢魔街』で生まれたモノだよ。現にさ……」
言葉を切ったマテオの視線が、尸仂には気になった。自分の背後へ向けていれば振り返る。
黒き怪物が壁のごとくびっしり群れを為していた。