第4章:紅と地の激突ー002ー
まだ出現するまで間があるはずの黒き怪物が目前いっぱいに蠢いていた。
「なによ〜、これ。まだ逢魔ヶ刻じゃないじゃないでしょ」
驚きとも不平とも取れる声を発しつつ黛莉は爆音を響かせた。両手に発現させたガトリング砲を乱射する。
「姉御、連絡がつけられないっす」
老人を地面を置いた体勢でスマホを耳に当てる藤平が叫んでくる。
眉間を険しく寄せる黛莉だ。
予想外の出現とはいえ、所詮は黒き怪物だ。黛莉と藤平だけならば、いくら来ようが恐れはしない。ただ護衛を要する家族三人がいる。
守りつつ黒き怪物の輪を突破する。やってやれないことはなかった。けれども亡くなったばかりの老人がいる。屍体を前にすると一種の興奮状態に近くなる黒き怪物だ。屍体と共にある状態が家族にとって危険この上ない。
いつもなら息を止めた老人は投げ捨てていくだろう。けれども今回は遺体を引き上げてあげたい。況してや家族の目前で貪り食われるさまは見せたくない。
まるきり策がないわけでないから、非情な選択はまだ保留だ。
真澄っ、と乱射を続ける黛莉が呼ぶ。
「十時の方向に集中するから……」
「アニキを呼んでくるんっすよね、任せてください」
以心伝心が、ふっと黛莉の口許を緩ます。
クロガネ堂が、ここから十分もしない場所にある。その点を意識していた二人だった。
黛莉の一時的な集中射撃によって数を減らした十時の方向へ、藤平は突っ込んでいく。振るう槍は素早く、また能力によって強化された鋒は同時に複数を貫いた。
うまく抜けられたのを確認すれば、黛莉としてはひらすら射つのみである。後はこの場を二十分ほど持ち堪えればいい。
おかしかった。
黒き怪物は時間だけでなく出現ぶり普段と異なっていた。なぜこう次々と現れる? たかが屍体一体に群がるには多すぎだ。
読んでいた時間がすぎても藤平だけでなく連れてくるはずの助太刀が一向に現れる気配がない。
黛莉の焦燥感は募っていく。
この前はやりすぎたかな? などと考えたりもする。いくらでも殴ってこい、と常々言われてきたが、この前は甘えすぎてしまったかもしれない。そういえば、あの時以来、現れない……。
きゃー、と女の子の悲鳴が上がった。
慌てて黛莉は銃口を向ける。ぼんやりしていたせいで、つい接近を許してしまった。
「大丈夫ですか」
黒き怪物を粉砕しつつ無事の確認をするが、背後の家族からは返事がない。どうやら声が発せないほど腰を抜かしているようだ。
しまったな、と黛莉は胸の内で呟く。
街外の人間が黒き怪物を初めて目にした際の反応をすっかり失念していた。人型とはいえ、ツノや翼を有した形状も混じれば、悪魔そのものの群れだ。特にタチが悪いのは、人間に似た口があることだ。大量の唾液を滴らせて喰らいついてくる姿は、見慣れない者を心底から震え上がらせる。恐怖のあまり動けなくなる事態は考慮すべきだった。
ますます動けなくなった黛莉だ。ともかく今は能力を最大限に発揮していくしかない。
だが数はどんどん増えていく一方だ。押し寄せてくる襲撃の黒き波は、覆い被さってきそうなほどだ。前方左右だけでなく上空まで埋め尽くした状態にまでなっていた。
両腕だけの射撃では足りなくなっていく。
「これ、本当にまずいんじゃない」
声にせずとも口が思わずそう動いた黛莉だ。
危機感を隠せなくなりそうな瞬間だった。
右手の方向にいた黒き怪物が蹴散らされていく。
現れたのは、着物の袖をたすきで括った薙刀を持った女性だ。白髪から老齢を感じさせるが、顔つきに肌はまだまだ若輩に負けない艶がある。黛莉にとって見覚えのある品のいいお婆さんであった。
新たな闖入者に黒き怪物が飛びかかっていく。
迎え撃つべく和服のお婆さんが繰り出す薙刀は凄かった。目にも止まらぬ早さで刀刃が縦横無尽に踊る。黒き怪物は一薙ぎで倒しては、次々に消滅させていく。
けれども薙刀が描く軌道は前方のみだ。後方にあった黒き怪物は無防備な頭上から襲いかかってくる。
後方から来た黒き怪物たちが、ことごとく跳ね飛ばされた。まるで見えない壁にでも阻まれたかのように。
「黛莉ちゃん、大丈夫か」
着物姿のお婆さんの背後にいた人物が声をかけてくる。透明の防護壁を発現させる能力を持つ多田爺だった。
大丈夫です、と黛莉は乱射を続けながら答える。
多田爺と薙刀を振るう妻の八重が辿り着けば、依頼人の家族は防護壁で囲われる。これで黛莉の杞憂はかなり軽減された。
「助かりました、本当にありがとうございます」
「いやいや、儂らが来んでも大丈夫だったんじゃないか」
そんなこと……、と黛莉が返そうとしたらである。
周囲を埋めつくす黒き怪物たちが一斉に粉砕されていく。銀色に光らせた無数の伸長した刃が、的確に一匹残らず捉えていた。
あれほど数を誇った黒き怪物たちが、いたことなど嘘のような瞬時による完全消滅だ。
黛莉ー! と呼びながら状況を一変させた張本人が走ってくる。
「おやおや珍しい、今日は紅い目のエンくんですか」
多田爺の声を横に、八重が黛莉の表情を興味深げに眺めている。
「おっそいわよー、もう。来ないかと思ったじゃない、円眞」
八重の視線に気づかない黛莉は、目前にまで来た青年にぶーたれる。
「おおっ、すまん。五十メートルを五・五秒のところを三秒で走れるよう身体能力を上げるとしよう」
「そういう意味じゃなくてー、あたしが言いたいのは……」
黛莉がしゃべっている途中で、堪えきれぬように吹き出した。
笑いながら両手の武器を消す黛莉に、真紅の円眞は不審というより心配げに訊く。
「どうした、黛莉。なにか悪いモノに当たったか」
「なんで、そうなんのよ。そうじゃなくて、円眞の格好が……」
黛莉はまた言葉が続けられないほど笑い出す。
今日の円眞は仕事着だ。クロガネ堂の店長として、ワイシャツにスラックスを履いている。店が爆破させてから逃亡生活に近かった日々はラフな服で過ごしていたが、現在はビジネス・スタイルである。ぴっしり決めた姿が逆に笑いを誘ったらしい。
笑われている真紅の円眞は、ふむふむといった感じで己れの格好を見直している。
「こういった格好が黛莉の笑いのツボというわけか。感性は人それぞれというが、難しいものだな」
「だから、そうじゃないわよっ」
もう、といった調子の黛莉に代わって、悪戯っぽい笑みを浮かべた八重が言う。
「男性がいつにない格好をしてくると、笑うしかなくなるのよ。特にずっと意識してきた相手では、ね」
なんだ照れ隠しか! と喜んで反応する真紅の円眞の頬へパンチが飛んできた。
そ、そ、そんなじゃないですっ、と大の男を拳一発で吹っ飛ばす黛莉の顔は真っ赤だ。
相変わらずの最凶じゃ、と呟く多田爺の背後にいる依頼人家族も黒き怪物に襲われた時とは別の意味で怯えていた。
ぐーはやめろ、ぐーは、と立ち上がる真紅の円眞へ、黛莉が喰ってかかっていく。
「つーかさ、あんた、この頃、ぜんぜん出てこなかったじゃない。なんでー」
「なになに新装開店したばっかりだったからな。我れの保護者が、今は一から教える余裕はないと言っていたではないか。つまり全く役に立たない我れがしゃしゃり出ても迷惑だろうから、彼奴が心置きなく頑張れるよう出ないでやったのだ」
まぁ、普段通りというわけだ、と付け足した真紅の円眞は、はっはっはっと高笑いしてくる。
あんたねー、と黛莉は呆れ返っている。
そんな二人に聞こえない声量で多田爺は戸惑うままを口にする。変に律儀ですな、と。
夫の声に耳をそばだてる八重が頷いていた。
「アニキー、黛莉の姉御ー、無事だったっすか」
陽気に張り上げてくるは、モヒカンが印象的な藤平だ。
横には杖をついた華坂爺がいる。少し難しい顔をしていた。