第3章:神々の黄昏ー003ー
うーん、と頭を抱える円眞だ。
いったい、どうしたのか。たびたび思い出してはしていたが、ずっと心を縛られたことはない。縛らないようにしてこられた。
ところが流花へ挨拶に行ってからだ。ずっと碧い瞳が浮かぶ。雪南の姿が頭から離れない。
円眞は仕掛けられた秘薬せいなどと思いも寄らない。現に手を打たなければいけないほどの問題でもない。別れた彼女が思い出されて仕方がない、といった個人へ帰す話しである。
ある意味、手の施しようがない悩みに苦しんでいた。
「エンくん、おるかの〜」
杖を突き店の軒先を潜ってきた華坂爺だ。
はい、と円眞は返事してレジから立ち上がる。馴染みの老人たちには、いらっしゃいませとした接客の挨拶まで及ばない。今や単なるお客ではなくなった『ジィちゃんズ』だ。
「今日もお一人ですか?」
「ああ、寛江が姿を見せぬから、調べは内山に頼んでおる。またいつ何時、エンくんへの襲撃が再開されるか、解らぬからのぉ」
すみません、と頭を下げる円眞に、華坂爺は杖を握っていない手を振る。
「儂らが不甲斐ないばかりに、エンくんを父親殺しとさせてしまったからの。これくらいして当然じゃて」
それにヒマだしのぉー、と締めては笑い声を立てた。
円眞にすれば、何度でも頭を下げたいくらいだ。
「ところで多田は、妻連れでよく来ておるのか」
「ええ今朝も。とても仲良くて、なんか尊敬してしまいます」
「尊敬か、エンくんらしいの」
ご機嫌な華坂爺だ。
円眞としても、恋煩いが晴れていくようだ。お馴染みさんとする会話のおかげだが、ふと気になった点が浮かんできた。
「もしかして何か、ボクを狙う動きが出てきたのでしょうか」
店へ顔を出さない内山爺が、調査と聞けば理由を確かめずにはいられない。
「いや、なに。クロガネ堂が新築されてから、寛江が来ておらんじゃろ。儂らともそれくらいからご無沙汰なんじゃよ。だから、ほんのちょいだが気になることを一番の若輩が担当となった次第じゃな」
「本当に、大したことじゃないんですか」
「エンくんに隠しだてしても仕方がないな。ここ最近における逢魔街への人の流入を確認しておる。スキルなどでは済まないとんでもない能力者がやって来てないかじゃな」
ここで言葉を切った華坂爺が、コホンと一つわざとらしい咳をする。態度を真剣へ改めて尋ねてきた。
「エンくんは紅い目になった時の記憶はないということじゃが、まるきりなのかの? 少しでも何か思い至ることはないのかの」
すみません、と円眞は謝ってからだ。
「隠しているわけじゃなくて、本当にボクは紅い目になったことすら意識できないままなんです。それはたぶん……」
たぶん? と華坂爺が反復する。
円眞は表情に暗い影を差し込ませて言う。
「ボクは紅い目の『彼』の影にすぎないからだと思うんです。『彼』はボクの行動を把握できるけれど、ボクには出来ない。きっとボクの存在なんて『彼』次第じゃないかな、と思います」
「それが雪南と別れた理由でもあるわけじゃな」
こくん、と言葉なく首を縦に落とす円眞だ。
他人の意思によって決まってしまう存在ならば、いつか消えるかもしれない。ならば初恋の人の罪を全て背負ってしまえばいい。雪南に新たな人生を与えたい。黒い瞳をした円眞が別れを決める理由として充分だった。
そうかそうかとばかりにうなずいた華坂爺は、優しく笑う。
「儂らは今ここにいるエンくんだからこそ通ってきているんじゃ。黒い目をした普通の男の子が、ジジィどもに楽しい時間を与えてくれたのじゃぞ。そこは忘れないでいて欲しいの」
はいっ、と返事した円眞の目に熱いものが込み上げてくる。
実は……、と華坂爺が口調を改める。
「内山を調査を出しているのは本当じゃが、一人で来たのはわざとじゃ。いざという時のための保険でな」
「それは紅い目に備えてですか」
「さすが、聡明なエンくんじゃ。もし儂が訊くことで、紅目が出てくるかもしれんからな。それでもし紅目が力を振るようなことになれば、儂などではとうてい太刀打ちならん。今後を考えれば、用心すぎることはない」
今日の華坂爺は自分へ会いに覚悟を決めてきた。円眞がその事実を知らされれば、落ち着けるはずもない。意識のないうちに自分が殺害していたなど、真っ平御免だ。
深刻なる皺を額に刻んだ円眞に、華坂爺は落ち着かせるように笑った。
「大丈夫じゃよ、エンくん。儂も年相応に頭を働かせておる。現に逢魔ヶ刻を外してきておるじゃろ。証拠を残せるよう仕掛けはさせてもらっとるよ」
逢魔ヶ刻という魔の時間まで、まだまだある。華坂爺が録画だけでなく録音の機器を設置済みを教えてくる。いつも通りに見えた訪問は、実は用意周到に準備されていた。
円眞としては、嘘偽りなしの華坂爺に腹を括るしかない。
「華坂さんが、紅い目をしているというボクを呼び出す危険を敢えて踏んでしたい質問て、何ですか」
華坂爺が口を開いたのは、数瞬間の沈黙を横たえてからだ。
「ラグナロクについて、命を捨てても聞きたいことじゃな」
ラグナロク=神々の黄昏。この単語を発した際の華坂爺は、飄々とした普段から最も遠い態度を見せた。殺害という行為自体は、逢魔ヶ刻でなくても起こり得る。紅い目へ変貌するとしたら、これ以外には有り得ないとする質問だ。
だから華坂爺の気抜けは甚しかった。
黒い目をぱちくりさせる円眞が、言い難そうに訊いた。
「あのぉ〜、もしかして当てがハズレてしまいました?」
「うむ、思い切りハズレてしもうた」
ははは、と華坂爺が気まずさを隠すように笑いを足した。
「なんだか、すみません」
つい謝ってしまうが、円眞である。
「いや、エンくんのせいじゃなかろうて。それにしても紅い目のエンくんは、あの日以来、出てこないのぉ〜」
「異能力世界協会のCEOが来た時ですよね。夬斗くんから聞きました」
「黛莉に相当やられておったからのぉ〜、ダメージが深かったのかもしれん」
そうなんですか、とする円眞の反応は真剣そのものだった。
半分冗談のつもりだった華坂爺は、打ち明けかけて止めた。半分は本気であったことを認識すれば、真実だったかもしれないと考え直してしまう。
黛莉は預かり知らぬ所でまた『最凶』の伝説を一つ積み上げていた。
さて、どうしたものか、と次の手を考えだす華坂爺と、いちおう自分についてであるが一緒になって頭を捻る円眞だ。う〜ん、と二人揃って唸っているところへである。
激しく床へ倒れ込む音が立った。