第3章:神々の黄昏ー002ー
円眞の姿が完全に消えた途端、流花の目つきが据わり、眉間が寄る。まるで笑みなど無縁で過ごしてきたような険相だ。
「あいつ、最後まで出てこなかったな」
流花が誰ともなしに聞かせる呟きだ。
後方の暗闇から、楓でも真琴でもない声が上がった。
「誘導薬を凌がれたわね」
大人の女性と思われる艶のある声質に、流花は愁眉を開いた。
「瑚華センセイのが利かないんだから、簡単じゃないですよね」
「でも、あいつじゃないほうの黎銕円眞に堪えられるなんて自信なくしそうだわ」
円眞が考えへ沈みがちになったのは、自らが原因ではない。外部からの働きによってであった。
後方の闇から、だいぶ幼い感じがする女性の声が上がった。
「流花ちゃんがあれだけはっきり名前を出しても、ぜんぜん反応なかったもんね。見事なくらいの隠れ蓑を作ったと褒めてあげ……」
「ヤツのことだ、響く心など持っていないのだろう」
話しの途中で被せてきた男性の声は質だけでなく口調も低く重い。
「奈薙ー、うれが喋っている時の割り込みかた、タイミング悪すぎ!」
「す、すまん、姫。つい、だ」
すると瑚華と呼ばれた声が言ってくる。
「ふたりとも相変わらず仲良しね。羨ましいわ」
「そういえば、瑚華お姉さん。道輝のおじちゃん、来てないね」
「知らないわ、あんな男」
自ら『うれ』と名乗り、男性から『姫』と呼ばれた女性の問いかけに、そっぽを向くような瑚華の声調だ。
暗闇の中から、また別の女性の声が上がった。
「別に全員が揃わなくても、私は構わない。本当は今ここでやってやりたかったくらいだもの」
「流花なりに、莉音さんの気持ちは解っているつもりです。けれどここは待ってあげてください、夕夜兄さんを」
「……うん、そうね。夕夜こそ、だったわね」
莉音と呼ばれた者の唇を噛むような声だ。
流花が胸に手を当てて口を開く。
「すみません、莉音さんだって、夕夜兄さん以上に無念を募らせているに違いないのに。でも今回のことは、お姉ちゃんには内緒なんです」
「そうか……陽乃はもう東だけでなく、実質全国の長みたいなもんだから仕方ないか。あいつを殺るには、この街でどさくさしかないものね」
「人間連中とした約束なんて、わざわざ守る必要なんかないのに」
美貌を凍らせた流花が吐き捨てた。
こらっ、と横に立つ楓がたしなめてくる。甘く、けれど断固として許さない調子だ。
ごめん、と流花が素直に謝る横で、瑚華の声がした。
「そういえば、新冶。ずっと黙りこくったままだけど、どうしたの?」
「……いえ、別に」
新冶と呼ばれた男性の声が寄越す簡潔な返事だ。
これを煮え切らないと取った奈薙が声を上げる。
「おい、まさか情にほだされたとかないだろうな」
「仮に、そうですと答えたら、どうします?」
流花とその両脇に立つ二人以外は、闇が支配する空間。何も見えない中で、空気は変わっていく。馴染み同士の心置きない雰囲気が、がらり緊迫感を張り詰める。
一発触発の状態は、問い質していた側から解かれた。
まぁいい、と奈薙が発すれば、僅かに場が緩む。ただ続けて述べられた声は断固としたものだった。
「俺と姫は、必ずあいつを滅する。それに手を貸せとは言わないが、邪魔をするな。もしするというならば、新冶。ここでお前を倒す」
「相変わらずですね、奈薙は。もしここで貴方と私がやり合ったら、ここはタダですみませんよ」
新冶なる者の言い方は、落ち着いた言い回しながら口調は、やってみろ! である。
再び高まっていく緊張に、瑚華の声が間に入った。
「二人ともやめてくれない。目的は、黎銕円眞という容れ物に入っている『あいつ』である点は変わらないんだから」
「だが新冶は気持ちを同じくしていないようだぞ」
奈薙が不審を露わにすれば、新冶が答えた。
「確かに同じではないかもしれません。だからといって邪魔する真似なんてしませんよ。奈薙と莉音に、夕夜さん。そこへ鬼の三女が加わるわけですから、勝算は大きいと考えているくらいです」
「でも負ける見込みも頭に入れているんですよね、新冶さんは」
流花が鋭く切り込んでくれば、新冶は苦笑を混じえて発してきた。
「流花さんは逢魔街に居続けただけあって、ずいぶん貫禄を備えました。少し恐ろしいくらいです」
「流花から言わせてもらえば、新冶さんは丸くなりましたよね。昔は平気で私たち姉妹を売った人と同一人物とは思えません」
「あれから百年以上の時が流れましたから。歳などいくら重ねても変わらないものなのかもしれませんが、変わる者もまたいます」
「つまり新冶さんは、あまり乗り気ではないということですね」
流花が静かに下した結論に対する反駁まで、しばしの間が開いた。
ただ私は……、と新冶が始めた声は唐突さとその内容ゆえに、誰の耳の奥まで届いたようだ。
「神々の黄昏の再現だけは避けたいだけです」