第1章:最強の刺客ー009ー
結婚しよう。サミュエルの低く短い言葉だが、アイラの覚悟を土台から退けるには充分だった。
「な、な、な、なにを、お兄さま……い、いきなり何を……」
うろたえるあまり声にならないアイラは真っ赤だ。あれほど強靭な意志を込めて対峙していた敵に背を向ける。
振り返った途端に抱きしめられた。
アイラの顔がさらに赤くなっていく。蒸気が立ちそうな耳元へサミュエルが囁くように、でもしっかり告げた。
「アイラがいないんじゃ意味がないんだ。あいつを倒したって、アイラがいなければ、どう生きていいか分からないよ。わかった、やっと判ったんだ」
お兄さま……、と呟くアイラの瞳はみるみる潤んでいく。けれども溢れる寸前で懸命に堪えていた。
「お兄さまは優しいから、私たちを止めるために……陽乃さまを想う気持ちに偽りがなかったことは私が承知しています。だから……」
サミュエルは身体を離したが、両腕はアイラの肩を置かれたままだ。しっかり目を離さず、苦笑を閃かせた。
「もう百年近く前にもなる話しを持ち出すのかい? しかも陽乃は人妻なって久しいんだよ」
「でも陽乃さまは、お兄さまがずっと好きでもおかしくないほど素敵な方です。比べて私は暗殺に長けただけのような女なので……」
「だけど、このサミュエル・ウォーカーにとって、ずっと傍に居て欲しい女性こそアイラなんだよ。それに一緒になれば、本当の意味で二人と血縁を結べることとなる。そうだろ、マテオ?」
突然の振りだったが、反応は即座であった。
「はい、兄上。いえ、兄さん。姉さん、兄さんの言う通りです」
溌溂としたマテオの返事に、アイラは目を丸くしている。初めて聞く声だと顔に書いている。
きゃっ、とアイラがかわいらしい悲鳴を挙げた。
伸びてきた腕に背中と中膝を抱えられたからだ。サミュエルにお姫様抱っこをされていた。思わず口元を手で押さえては、恥ずかしそうに再び顔を赤くしていた。
サミュエルは腕の中にあるアイラへ優しい視線を送った後、真紅の円眞へ向き直る。
「これで失礼させてもらうよ。まずは何より手当てを優先したいんでね」
「いいだろう。我れとて、この場にいる者たちを巻き込みたくない。それに……」
それに? とサミュエルが珍しく相手の問いをそっくりそのまま返している。歯切れが悪い真紅の円眞など想像外であった。
「まったく二人の仲に百年もかけるなど、我れでも呆れるぞ」
おやおやといったサミュエルの表情だ。もし余裕があったなら話題を逸らした真意を確かめたいところだ。だが傷の処置が他の何を差し置いても優先しなければならない。
サミュエルは捨て台詞を残すだけにした。
「いずれ再会を機すまで無事でいて欲しいけれど、そうもいかないだろうな。所在が判明したこれからが、本当の意味で世界の敵として狙われるだろうからね」
「逃れられぬ運命が訪れようとしているだけだ。覚悟は出来ている」
相変わらずかわいくないね〜、と憎まれ口を叩いてサミュエルが背を向けた。アイラを抱っこする姿に、マテオが肩を並べる。
不意にサミュエルが首だけ振り返らせてくる。
「行く前に一つ、お願いというか頼みがあるんだけどな」
なんだ、と真紅の円眞が応答すれば、サミュエルは目線をミゲルとエンゾの兄弟へ差し向けた。
「そこのブラジルから来たという兄弟を見逃してやってくれないかな」
「ダメだ、こいつらは黛莉に手を出そうとした。許せるはずがないではないか」
「まぁ、そこはさ。追い詰めた原因の一つとして、自分は責任を感じているんだ。ここはご祝儀だと思ってさ」
「まだプロポーズの返事をもらっていないヤツに言われてもな」
こりゃ一本取られたね、と苦笑するサミュエルの腕に抱かれたアイラが慌てふためいた。
「ももも、もちろんオーケーです。お兄さまと結婚します、させてください!」
不意にアイラが痛みで顔をしかめた。あまりに興奮したせいで傷口が開いたようだ。
大丈夫かい? と心配を寄せるサミュエルの横で、マテオがやけに冷静な口調でたしなめる。
「姉さん、結婚する相手に『お兄さま』では誤解を呼ぶこと甚だしい限りです。きちんと名前で、ファースト・ネームで答えてあげてください」
「そそそ、そんなこと、急に言われても無理ですっ」
「でも姉さん、兄妹設定のまま結婚へ至るのはまずくないですか」
しょうがないでしょ、とふくれる姉に、承服しかねる視線を送り続ける弟だ。
まぁまぁ、とサミュエルがなだめに入ったが、双子の姉弟は収集つかなそうな感じだ。とりあえず何か別の事でいいからきっかけが欲しいところである。
「わかった、わかった。我れがサミュエルの言い分を呑んで、そやつらを見逃せば良いのだろう」
仕方なしとばかりに承諾した真紅の円眞だ。サミュエルの微笑を認めれば、火の刃をブラジルから来た兄弟へ向けた。
「めでたい席だから、今回は見逃してやる。命懸けの行動には猶予を与えたくなるが、ヒト一人の人生を弄ぶような真似は許す気になれん。二度はないぞ、いいな」
ミゲルはうな垂れるまま負傷のエンゾを背負う。一目散に離れて行く後ろ姿から、顔が上がることは一度もないように見えた。
「それじゃ、失礼するよ。またの機会があることを祈ってね」
サミュエルが今度こそ惜別といった口調だ。
真紅の円眞は普段通りの不遜さで答えた。
「どうかな。オマエたちと会うのは今度こそ、これが最後かもしれん」