第1章:最強の刺客ー001ー
まだ生きている。
ぼさぼさ髪に付いた砂埃を払いながら、円眞は立ち上がった。
かけた黒縁メガネのレンズは特殊仕様だ。一瞬でも視界を遮られる事態は命取りになりかねない。汚れなど無縁だ。むしろ目を保護する役割さえ担う。
円眞にとって、無法となる逢魔街の逢魔ヶ刻を生き抜くために不可欠なアイテムであった。
「さすがだな、無事なだけでなく未だ隙がない」
円眞を路面へ、露天商の広げた商品が粉砕するほど叩きつけた相手が言う。
薄褐色の肌に短髪の精悍な顔つき。まるでスポーツ選手かと思わせる均衡が取れた肉体は、能力とは関係なしに身体的な強靭さを窺わせた。
ブラジルから来た、と言っていた。
わざわざ、などとは思わない。
なにせ円眞はここ三ヶ月の間、世界中の能力者を相手にしてきた。刺客を跳ね除けてきた。戦い続けてきた。
好きな女の子のために、彼女が犯した罪を一身に背負って。
異能をもって『持たぬ者』の殺害は極刑に処すは、世界の不文律となっている。それは『能力者』と表現される異能者が一般人に手をかけている実情を示す。だからこそ表沙汰になれば厳罰が求められた。
円眞の初恋相手だった、ラーダ・シャミル。碧き瞳をした少女は有した能力によって、名だたる権勢者を殺害したとされている。そんな彼女を『戒樹雪南』として新たな生活を送らせるため死亡とさせた。
ラーダ・シャミルを葬ったのは、世界中にその名を轟かす『異能力世界協会』から派遣された精鋭たちとなっている。
黎銕円眞はラーダを守ろうとしたが間に合わず、殺害した連中を抹殺した。最後までその場に踏み止まり唯一の生き残りとなった壬生雅彦からの報告だ。逢魔街における逢魔ヶ刻の情報は解明不能な働きかけによって、形にした持ち出しが為し得ない。その場にいたとする人物の証言だけが頼りだ。
円眞は能力者の風上にも置けない大罪人として世界中に名が知れ渡っていた。
「しかしキミは想像していたより、ずっと普通の感じで意外だったよ」
一流のサッカー選手と紹介されたら疑うことなく受け入れてしまいそうな刺客の、やや悪びれた口調だ。少なくとも敵愾心に燃えているという感じではない。
「あ、あなたの名前はなんて言うのですか」
腕の袖で顔の埃を拭いながら訊く円眞だ。
「ミゲル。姓はその界隈では知られているかもしれないから、伏せさせてもらうよ」
相手の答えに、円眞は首を傾げる想いだ。
今さら何を隠す必要があるのか。ミゲルの能力は、もう円眞に対して発揮されている。
能力を無効化する能力。円眞の能力である『短剣』は斬れ味を奪われ、消滅へ至らされていた。
能力によって能力を否定する、とんでもない力だった。これまで相手にしてきた刺客とは比べものにならない強敵だ。
ミゲルが披露した能力によって、円眞は追い込まれている。
まだ他に能力を持っているというのか。姓を教えないということは、まだ秘めたる別の能力を有している線が強い。複数の能力所持など滅多にない例だが、いるにはいるのだ。
だとしたら、まさしく最強の刺客だった。
「さぁ、自己紹介はすんだ。あとは黎銕円眞、キミに引導を渡すだけだ」
ミゲルは拳を掲げた。
指には黒色のメリケンサックが嵌められている。無効化する能力ゆえに、能力よる攻撃力を有していない。人間と変わらず武器を装着しての攻撃としていた。
銃を持ち込ませない国がもたらす恩恵でもあった。
だがミゲルの武器は『カイザーナックル』の異名を持つ。殺傷性は充分だ。そこへ人並み外れた身体能力が加わる。下手な異能の攻撃より厄介だった。
現にミゲルが撃ち込んできたパンチを寸前で避けた円眞のいた路面は深く抉れていた。とても人間技とは思えない。
「凄いね、キミ。スキルでなく避けてみせるんだから、たいしたものだよ」
凄まじさを披露した刺客がほめてくる。余裕があるとしか解釈できない。
円眞は賭けに出るしかなかった。
ミゲルは触れて無効化する。ならば不意を突けば、どうなる? その点に可能性を見出したい。
ともかく隙が欲しい。意識が逸れる瞬間を生み出せないか。片膝を付く円眞は向かってくる刺客へ、無駄になる確率は高くても両手に短剣を発現させた。
銃撃音がつんざいた。
標的とされたミゲルは手を掲げた。
撃ち込まれてくる弾丸は能力に依るものだった。でなければ能力を無効化する能力だから、ミゲルの身体は蜂の巣にされたはずだ。
だがこれで円眞の待ち望んでいた一瞬が訪れた。