第1章:碧の瞳ー005ー
円眞が助け起こすはずの腕は雪南まで届かなかった。背中から羽交い締めされて、後方へ引きずられていく。
「いつかやるんじゃないかと思ってたんじゃ、エンくんは」
雪南の前へ、杖をついた白髪の老人が割って入ってきた。
「え、えっ、何がですか?」
拘束された円眞は訳が解らない。
続いて現れた、黒と白が入り混じる髪の小柄な老人が嘆いてくる。
「いい若いモンが我慢できるわけがないと睨んでおったが、いきなり暴発とは。ジィちゃんたち、悲しいぞ」
ん? といった円眞の向こうで、頭髪のない恰幅いい老人が跪いている。「大丈夫ですかな、お嬢さん」と雪南の上体を抱え起こしていた。
ようやく意味を呑み込めた円眞は真っ赤になって叫んだ。
「ち、違いますよ、ヘンな誤解、しないでください!」
「いかんな、エンくん。ウソはいかんぞ、ウソは。いやらしい手つきを伸ばしておったじゃないか」
「やってくれ、なんて女性の諦めたセリフも、『今すぐやる』なんてエンくんが言っていたのも、ちゃーんと聞いておったわ」
頭を抱えたくなる円眞だった。
老人たちが聞き咎めたのは、能力でも何でもなくただの地獄耳だ。無類のゴシップ好きが招いた勘違いだ。逢魔ヶ刻に毎日のように通ってくれる常連さんなので解る。円眞の説明など聞く耳を持たずだろう。
彩香の表現を借りるなら『ジイちゃんズ』の説得が難しそうであれば、背後の人物に期待するしかない。
「寛江さん。華坂さんたち、完全に勘違いしてますよ。ボクが女の人を襲うわけないじゃないですか」
「すみません、エンさん。恩義のある方々の言いつけには逆らえない立場をご理解していただないでしょうか」
すまなさそうに答えるは、銀髪に染めた壮年男性だ。スマートながら鍛え上げられていることはシャツ越しでも解る。ここ最近『ジィちゃんズ』にお供するようになった人物である。
「でも理解した場合、ボクの立場はどうなるんですか?」
円眞のもっともな疑問に、「すみません」をひたすら連発してくる寛江だ。そのくせ羽交い締めした腕へいっそう力を込めてくる。
「情けないのぉ〜」嘆息するは杖をつく老人だ。
「信じておったのに」腕を目頭に当てて泣く格好は小柄な老人である。
円眞は抗議へ打って出るしかない。
「おい、円眞」
呼んでくる相手が相手だった。円眞だけでなく、その場にいる全員の注目を集めた。
「おい、円眞」
もう一度繰り返し呼んだ雪南は、自由の利く碧い瞳を向けてくる。
「このジィさん、手つきがイヤらしい。だから円眞がワタシを抱きかかえろ」
告発が終わるや否や、老人コンビは頭髪のない老人へ喰ってかかっていく。
「こやつ若い女とみれば、すぐこれじゃ」
「うっちーは、死ぬまでスケベじじぃなんかいっ」
ほっほっほぅー、うっちーと呼ばれた頭髪ない恰幅いい老人は笑うばかりで否定しない。
「や、やっぱり多田さん、ウソ泣きだったんじゃないですか」
円眞の向かう不満は小柄な老人のパフォーマンスだ。
「やれやれ、元気なご老体たちだ」
苦笑混じりの寛江は、やっと円眞への羽交い締めを解いた。
拘束から放たれた両肩を回しつつ円眞は振り返る。
「もう、みなさん。いったいボクをどういう目で見ているんですか」
「あまりにも生真面目な若者だからこそ、性犯罪くらい犯してもおかしくはない、といったところではないでしょうか」
そう言った寛江が、急に口元を押さえて笑いを堪えだす。犯しとおかしだって、と自分で口にしたダジャレにウケている。紳士然とした雰囲気からは想像つかない。馴染みでなければ唖然としてしまうところだ。
はぁ〜、と円眞がため息を吐いて行こうとしたらである。
「みなさん、エンさんを可愛く思っていることは間違いないです」
行きかけた足を止めて円眞は発言者へ振り返る。
「寛江さんもですか?」
「私はまだ日が浅いため、御老人たちほどではないかもしれません。それでもエンさんが婦女暴行するなど思いませんがね」
おいっ円眞、と雪南の呼ぶ声がする。
軽く首筋を撫でてから円眞は急いで向かった。
うっちーと呼ばれた禿頭の恰幅いい老人に変わって、円眞が雪南の肩と背を支える。彩香の攻撃は相当なダメージだったらしく、未だ身体の自由は覚束ない。
おんぶを円眞が提案したら、雪南は言わずにはいられないかのように叫ぶ。
「おい、円眞、わかっているのか。オマエを殺すと言ってるワタシを背中に抱えることは非常に危険だぞ」
「でも、わざわざ忠告してくれるんだから」
だから大丈夫とするのか、と雪南は指摘したくなる。だが円眞には無駄だと学んでいた。
「それに、ほら。いくら慎重にしたって、敵わない相手にはどうにもならないから。雪南なら解るだろ」
円眞の問いかけに雪南は動くようになった首を、こくりと落とす。
雪南の代理人体が振るう戦斧と、間合いなどと表現できないほど素早い彩香の太刀さばきをことごとく見切った円眞である。背中から向かってきた切先さえ避けた。
黎銕円眞は気配を察することに尋常でないほど長けている。ぼさぼさ髪の黒縁メガネをかけたイメージから想像できない、噂通りの達人だった。
寛江はその背後をいとも容易く取ってみせた。つまりその首筋へ刃を突き立てられるという、雪南や彩香では出来ない行動へ移れるわけだ。
銀髪にした寛江と呼ばれる人物は、只者でない。円眞の伝えたいことは雪南にも呑み込めた。
「とんでもない連中ばかりだな」
雪南は口の中で呟いたつもりだったが、声に出ていたらしい。
「でもいい人たちばかりだよ」
人の良さそうな顔で円眞が応える。
雪南はとてもそうは考えられない。
「円眞はお人好しすぎる」
「そ、そうかな」
雪南の断定に、円眞は頭をかいた。
だから雪南は言わずにいられない。
「いいな、円眞。オマエを殺すのはワタシだ。だから他の連中に殺させれるのは許さないからな」
「うん、わかった。がんばるよ」
そう言いながら背を見せてくる円眞だ。
まったく、と呆れながらも雪南は思う。確かに惚けたところはあるものの、背中を取られたことに対する冷静な分析といい、戦闘に関する感覚は凄い。弱点とするならば性格だ。人が良くて、初心ときている。
女に弱い分はワタシが、なんて考えた矢先だったから雪南は驚いた。
円眞が強く雪南を抱き締めてきたからだ。