第8章:決意ー007ー
「ボクは、雪南が好きなんです。雪南が幸せになるなら、自分なんか、どうなってもいいくらいに」
「どうやら覚悟は決まっておるようじゃの」
円眞の熱い想いを知った華坂爺は店先へ向かって叫ぶ。
「そういうことじゃ、寛江。入ってこいっ」
薄暗い店内へ銀髪のオールバックを決めた男性が入ってきた。
「寛江。お主、どこから聞いておった。隠れて聞き耳立てるはお得意じゃろ」
「さすがにもう、私については察しが付いてますか」
正体を追求されたにも関わらず、なぜか楽しそうな寛江だ。けれどもすぐに表情を改めて、ジィちゃんズの間に割って入った。懐から取り出した書類を差し出してくる。
考えもなく受け取った円眞だが、字面に目を滑らしてだけで顔つきが変わった。
「寛江さん、これは?」
「ラーダ・シャミルの調査書です。雪南と名乗ってエンさんを襲撃した日から調べに入っていました」
寛江の説明を耳にしながら、円眞は手にした記載内容から目が離せない。驚くべき事実が羅列されている。
円眞はある記述に行き当たった時に、顔を上げた。
「せ、雪南は幸せに暮らせるかもしれない……」
円眞の嬉しそうな響きと逆に、寛江の顔つきはいっそう厳しくなる。
「どうでしょうか? ラーダの気持ちもそうですが、なによりエンさんのこれからが……」
寛江が言葉を置いた。あきらかに言い淀んでいる。それでも意を決して口を開いた。
「地獄を歩むに等しくなるよう気がしてなりません」
「で、でもボクにとって、生きる目標が見つかったような、そんな気になれています」
晴れ晴れと答える円眞に迷いは見えなかった。
でも、と喰い下がりかけた寛江の肩へ、ぽんっと華坂爺が手を置く。
「儂らの力不足で、エンくんが女に惑ってしまってな。ならば責任を取って、地獄の道連れとしゃれこむつもりじゃ」
「……本気ですか」
「どうせ、とっくに終わっていた命じゃからな。ならば生き延びさせてくれたエンくんの思う存分に手を貸すだけじゃな」
まいったな、といった寛江の顔だ。
むしろ円眞が慌てていた。ジィちゃんズを巻き込む気はない。
けれども機先を寛江が制する。
「ならば、急ぎましょう。なぜか明日の予定が今日になったようです」
重大な事実がもたらされれば、思い当たる節が円眞にはある。
仔細な変化を見逃さない寛江が尋ねてくれば、円眞は今朝の出来事を伝えた。風俗店で雪南に会えたものの、逃亡を許してしまったことを。
「なるほど、確かにそれが引き金になったかもしれませんね」
合点がいった寛江は、それから苦笑を浮かべて続けた。円眞が己れの失敗で事態の急を招いたと落ち込んでしまっているようだからである。
「予定を繰り上げたのは万が一の逃亡を恐れてでしょうが、それだけ準備が滞りなく整っていたということでしょう。できれば彼らとしては、黎銕円眞の登場はご遠慮願いたいと思う者も少なからずいるようですから、出し抜くつもりで昨日の明後日とする情報を故意に流していたのかもしれません」
「そうですな。奴らは準備周到に事が進んでいたようで、もう行動へ移しておりますな」
耳を澄ますように目を閉じた多田爺の声に、華坂爺が心得た質問をする。
「で、数はわかるか」
「まずは百前後、といったところですか。もう近いです」
ほっほっほぅー、と内山爺が拳にメリケンサックを嵌めて言う。
「ではではクロガネ堂がめちゃめちゃにされないよう、迎え撃ちますか」
「そうじゃな、まずはエンくんの帰る場所を守らねばならぬ」
みなさん、と円眞は呼ぶが精一杯だ。それでも店外へ向かうジィちゃんズに、躊躇は消えない。
「エンさん。なんで私がラーダの調査が進められたと思いますか。報告書に記載していない点です」
不意にきた寛江の問いに、円眞はしどろもどろだ。答えなど浮かんでこない。この僅かな間に調査し関係者と対面まで果たすなんて、手際いいで納得してしまっていた。
「なぜラーダが、雪南と名乗るに至ったか。そこを起点としたら、早くに父親の墓所へ辿り着きました。その墓碑には、共に入っている者の名が刻まれていました」
「それが、雪南というわけですか」
声もなくうなずく寛江に、円眞は思わず嘆息してしまう。どんな想いで『雪南』の名前を引き継いだか。想像するだけでも胸が痛くなる。
「ラーダは父親が殺害されるまでの経緯を突き止めたはずです。雪南という名の娘と一緒に惨殺された事実を」
「あ、あの日、ボクが父さんを殺したあの場に居合わせ、巻き込まれたわけですね」
円眞は、今でも消えない悔恨の場面を思い出す。自身の能力を把握していなかったばかりに、無意識なうちに繰り出してしまった。大広間は一瞬にして血の海へ沈んだ。女性や幼き子供も含む大量の肉片を生んだ。
「違います」
寛江が、円眞の回答を一薙ぎした。
「ラーダの父親とその娘は、逢魔七人衆に殺害されています。だからむしろ黎銕円眞は仇を打ってくれた相手と言えます」
父さんたちが……、と円眞はこぼさずにはいられない。
この街へ住むようになってから、逢魔七人衆の排除に感謝を送られる一方で、頭分であった父親に対する恨みを子へぶつけてくる感情。この街に住みだした円眞に相対す人たちの態度は複雑さを秘めていた。
円眞が描く父親像とは違う逢魔街の父さんだった……。
「ヒトは変わるものです。能力を持とうが持つまいが、誰かと過ごす時間が、昔の姿からは考えられない心の有り様を生むようです」
感慨深く語った寛江が、いきなり吹き出す。持つまいと考えられないだって、と呟いているが、円眞にはいったい何にウケているのか解らない。たぶん世界の誰も解らないだろう。
けれど円眞には寛江が伝えたかったことは受け止められたつもりだ。
紛れもなく雪南は円眞のために身を投げ出す覚悟を決めている。ここで何もしなかったら、一生自分を許せないだろう。それを承知したジィちゃんズの行動だった。
「おおっ、ずいぶんご大層なお出迎えじゃ」
店を出ると同時に、華坂爺がおどけるように右手を額に当ててかざした。
ぐるりと眺めれば、どこもかしこも敵兵と言える連中がいた。